人気ブログランキング | 話題のタグを見る

余日録


by watari41

ガラ系

 「ガラ軽」となってもやむを得ない。日産自動車社長が新型軽自動車の発表会で言っていた。相当に思い入れを込めた車なのだろう。日本でしか通用しなくても市場は十分にあるとの確信をもっているのだろう。

 「ガラ系」という用語は今やすっかり定着してしまった。絶海の孤島であるガラパゴスで独自に進化した世界に類を見ない生物を称したのだが、生物界に限らず近代の人間社会にもたくさんある。鎖国していた江戸時代に発展した「和算」なども、ガラ系の数学である。現代数学を多少学んだくらいでは解けない問題がたくさんある。

 現代技術もこれを追い求めて行くとガラ系に行き着くのはやむを得ないことなのかもしれない。日本人が求める要求条件と世界が求める条件が少しづつかけ離れて行くのを感じている。一方ではグローバル化と言いながらも我々は心理的鎖国状態に陥りつつあるのではなかろうかとも感じられる。
 世界に対する興味を失いつつあるのは、年齢上のことなのかもわからないが。

 政治家の発言でも「ガラ橋」とも言うべき発言が飛び出すに至っては、世の中すべからくガラ系に染まりつつあるようにも思われる。
 靖国神社参拝などもガラ系なのだろう。一国の首相思想のガラ系化をアメリカから心配されるに至っては、ここに極まりというような感じを持っている。

 震災後の内向き志向が、ガラ系に拍車をかけているのかもしれない。
 子供の頃に言われた、大きく世界に目を向けてなどということは、もはや回想の世界でしかないようだ。
# by watari41 | 2013-05-31 11:06 | Comments(0)

バックできない

 空港でジェット旅客機を眺めていた。乗客が乗り終わり、昇降口のジャバラが離れ、離陸の準備ができたところに、馬力のありそうな車がやってきて、飛行機の鼻先を引っ張る通常の光景がある。今までは何気なくみていたのだが、どうして飛行機の鼻先を押すようなことをするのだろうかと考えたのも不思議なことなのだが、簡単なことに気が付いた。ジェット機は前進は出来るのだが、バックができないのである。
 エンジンをふかして、旅客機の回転半径が取れる位置まで、他の動力車で引っ張る必要があるのだ。なるほどと、こんな単純なことをわかって我ながらあきれかえった。今まではあまり考えたこともなかったのだからどうかしている。

 仙台空港には、四国霊場八十八寺のご本尊様がやってきている。これらを一堂に拝することが出来るのだから何とも便利なことである。震災のこともあったからに違いない。
 案内人と話していたら、一家のうちで自分一人だけが生き残ったという方がお参りに来られ言葉がなかったという話も聞いた。
 
 当然ながら、大変な人出があり、待ち時間が長くて、空港を行き交う飛行機をボンヤリと眺めていたのである。

 蒸気機関車だって似たようなものだったが、後ろ向きで走ることはできた。だが、前後を変えるためには、大掛かりな機関車回転装置に乗せて動かす必要があった。主要な駅にはこの装置がついていて、面白くて眺めていたことを回想している。

 人間心理も前に行かなくてはという考えは一緒なのだが、それを行動に移すのは容易なことではない。80才のエベレスト三浦雄一郎さんは、バックするという考えは毛頭なかったのだろう。

 戦国武将でも、そのきまがえを見せたのが、政宗の一族である勇将伊達成実公である。後に我が町一帯2万4千石の領主となる。戦場で敵に押されて退くなどとは、あってはならないことと、兜の前飾りにバックを知らない毛虫の飾りを付けていたことで有名である。実際にもそのように戦っている。

 年月だって前へ前へと進んでいる。昨年にバックすることなどは出来ない相談だと思い知る。
# by watari41 | 2013-05-26 16:07 | Comments(4)

言葉が立ち上がる

 2年前の今頃、ボランティアの団体バスに乗って大阪から気仙沼にやってきた同級生がいた。彼は年齢のことなどもあり力仕事は出来ないのでと、もっぱら被災者からの話を聞く役をやったそうである。関西弁を使う人に現代東北人は話しすいのだろうと感じたそうだ。
 話すことによって人は癒さるところが多いにある。「傾聴ボランティア」という言葉もある。
 (今回、松島にての同級会の一話である)

 あまりにもつらい体験は上手に聞き出さないとストレスとしてため込んだままになってしまうようだ。

 5月12日には震災復興記念講演会で柳田邦男さんが我が町でお話しをされた。
 「生き返す」というようなテーマである。それには言葉が如何に重要であるかの例をいくつか示され感銘の深いものだった。短い言葉の俳句でもその人の一生の心の軌跡を辿れるということだった。晩年には俳句の達人ともなられたハンセン氏病の方の若いころからの俳句の変遷をしめし、病気故に世間から疎外されていたが最後には全てを受容して、仏のごとき心境に至る様が17文字に込められていた。多言を要しないとはこのことだ。
 
また、シベリア抑留者の生存ギリギリの状態を、誰にも語らなかった男が、最晩年にふとしたキッカケで家族に話したそうだ。そんなつらい体験をしてたのかと、墓参りの都度家族は思い出すそうで、何も話してくれなかったら寡黙なジイチャンで終わってたところだったという、そんな話もあった。

 言葉を正確に使う上で重要になるのは辞書である。その編纂の模様を小説にした「舟を編む」三浦しおん著に、言葉の重要性として「記憶とは言葉である」とも書いてあった。どういうことかと言えば、味・香りなど五感に関することも、どんなことかと記録しておくことで、再現しやすくなるのだという。すばらしい味というだけではなくて、具体的にということだが多少難しいことでもある。

 近隣の方で明治時代に小学校を優等で卒業した記念に大槻文彦博士編纂の辞書「言海」をいただいたそうで、それは大事にされていたことを回想している。
# by watari41 | 2013-05-20 16:24 | Comments(6)

パワースポット

 古来より、その地に立つとエネルギーをいただけるという、有難いパワースポットは全国には無数にあるのだろう。我が町のかつてはそんな一つだったところを紹介しよう。
 歴史上の有名人が3名も登場している。坂上田村将軍・慈覚大師・藤原秀衡。そしてかつての殿様も。
パワースポット_a0021554_1526569.jpg

 パワースポットは現代風には、地磁気の乱れている場所だとか、重力の異常を脳が察知して癒されるように感じることがあるというような具合である。
 昔は、そこに立派な神社仏閣を建設したりして尊崇を集めていたものと思われる。
 上の旧跡写真も山麓の何らの変哲もない畑にポツネンとあるのみで、私などの鈍感なものは、そこに立ったからとて何等の異常も感じられない。
 科学的にそこの磁気などを測定するなどというのは無粋の極みなのだろうが、一般的に考えれば地下に活断層などの見られることもあるのだろう。あるいは鉱物資源の局部的偏在があるのかもしれない。地形上のポイントであったりすることもある。

 全国に名だたる霊場とか有名な神社仏閣などはその最たるものなのだろう。近代に至ると、あるいは古代からそうだったのかもしれないが、人工的な神秘さを醸し出す雰囲気を作ろうとしている。鎮守の森であったりご神木であったりと、はたまた壮麗な社殿そのものであったりする。

 しかし、上記写真の如く社会的変動などで一旦更地になってしまうと、何が何だかわからない場所になってしまう。昔の聖地も平凡な畑でしかない。

 看板一枚に旧跡を偲ぶにしては、あまりに周囲の風景がそぐわない。
 有名な神社ではあっても、その場所を移動していることがある。要は参拝する人が、そこを信じて頭を垂れることで脳が活性化してパワースポットとして信用されることもあるのだろう。
# by watari41 | 2013-05-06 16:07 | Comments(0)

難行苦行

 宇宙飛行士山崎直子さんのテレビ番組を見ていて、訓練の凄まじさに心底驚いてしまった。人間の限界を試されるようなもので、そこまでやるのかと思って見ていた。
 その訓練に、修行僧の難行苦行を思い出してしまった。千日回峰とか生死の限界に挑んでの、とてつもない修行を行う。その目的は「悟り」を得ることにあると言われる。「悟り」とは、どんな心境なのか我々凡人には知りようもないことである。言葉で表せないのは当然のことでもある。

 宇宙飛行士の訓練目的は、あくまで物理的なものである。宇宙船に乗り操縦して科学目的を達成して、無事に地球に戻り、任務を達成することにある。何百億円もの費用を投じて行うのであるから、失敗のなきように、十分すぎる訓練が行われるのは当然のことでもあると理解している。

 日本には、まだ10人程度の宇宙飛行士しかいない。厳しい選抜試験に合格して、極限の訓練に耐えて、宇宙を往復している。これらの人たちは何度もテレビに登場し、いろんなお話をしているが、いずれも爽やかな方々である。見方によっては、作られた類型的な人間像のようにも見えてくる。

 宇宙飛行士である「彼ら」「彼女ら」には、我々には知りえない或る種の「悟り」の心境に到達しているのではとさえ思ってしまうことがある。肉体的・精神的極限までの修行ならぬ訓練を積み重ねてきたのだから、世に言われる「高僧」の如き領域に達しているとしてもおかしくはない。
 本人たちは、そんなことはないとおっしゃるのだろうが、我々とは異なる心境に到達していることは確かなことであろう。
 
 かつて、立花隆さんは米国の宇宙飛行士を取材して、宇宙に行かれた方々は、一般人とは異なる概念を持つようになるというようなことを書いていたことを回想しているのだが、それは、宇宙に行くそのものよりも訓練の結果なのであろうと考えている。観光的に宇宙を見たからとて、人間が変わるとは思えない。
 我々一般人にはそんな機会が訪れることもないし、宗教上の難行苦行にも縁などなく、せいぜい頭の中であらぬ考えを巡らすしかないのである。
# by watari41 | 2013-05-01 14:05 | Comments(2)