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「帝国」日本(7)

 平川先生の本から、すっかり脱線してしまったが筆者の話を続けることにする。
 大航海時代のマゼランやバスコ・ダ・ガマなど西欧人の活躍は、良く知られているが同時代に「明国」もまた東南アジア・アフリカを中心に大船を出している。アメリカ東海岸にコロンブスが到着した頃に、「明」の船がカナダに着いたとの説もある。木造の古船が発掘されたことがあった。
 大モンゴル(元)帝国を滅ぼし、それを引き継いだ「明国」は、陸上では当時世界最強だったようだ。
 その後に出来た「清国」も西欧列強より「眠れる獅子」として恐れられてきたが、産業革命に乗り遅れ、1840年のアヘン戦争で脆くも敗れてしまう。
 日本は古代より、支配者が中国皇帝へ朝貢して「王に封じる」ということで満足してきた。これを崩したのが「北条時宗」で果敢に闘い、日本がこの時から独立したということになるのだろう。
 織田信長は、アフリカの黒人を家来にしたという記録があり、伊達政宗は西欧の白人女性を愛人とした最初の日本人とも言われている。いずれも宣教師によるご機嫌伺いの「献上品」のようだ。ただ記録によれば信長配下のアフリカ人は戦場でも大活躍している。(信長公記やそのアフリカ人を探しにマダカスカルへ出かけた民法テレビ番組もあった。)

 世界の歴史は、16世紀に覇をとなえたスペイン(イスパニア)から次第にイギリスが7つの海を支配するようになる。スペインが最後まで植民地としていたのは、フィリッピンとカリブ海のキューバなどわずかなものになった。

 アメリカが軍事面で外に乗り出すようになったのは、ずっと後のことになる。第5代大統領のモンロー主義(1823年)により、外国の干渉も受けず、干渉もしないというものだった。
 しかし内戦である南北戦争(1860~65)などもあり、実力のついた軍は対外姿勢も次第に強行なものとなってゆく。
 1898年には、フィリピンやキューバなどでおこっていた独立戦争にアメリカが加担して、米・西戦争とされるものが起きる。最初にアメリカ軍艦に攻撃したのはスペインで、アメリカ世論が喚起された。しかし実力はあまりに違いすぎ、米軍のほぼ一撃でスペインは敗退した。(このあたり1941年の日米開戦と似たような話である、ただ大日本帝国は多大の損害を出しながら長期に戦った。)
 フィリッピンは独立を果たしたかにみえたが、アメリカの保護領となった。

 「明」も「清」も、当時はフィリピンを軍事力で征服することはなかったが、制海権があったと主張しているのが、現在の習近平政権が唱える、東シナ海の九段線と称するフィリッピンやベトナムの領海を通る不可思議なものなのである。

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by watari41 | 2018-09-26 20:43 | Comments(0)

「帝国」日本(6)

 秀吉の時代、貿易と外交は大名が独自に行えた。
 足利将軍の室町時代初期に全国を統制できたことがあったが、戦国時代になるともはや自由になった。特に九州の諸大名は独自に船を出し交易していた。ヨーロッパに渡る拠点港であるマカオやインドのポンペイ、アフリカ西岸の港には、驚くほど多数の日本人がいたとされる。一説には貿易時の代金のかわりに奴隷として売られたのだという。特に若い女性が高く売れたらしい。

 鎖国によって、これらの人々は海外に取り残されてしまう。その子孫は当然残っているはずだ。スペインに支倉常長の随員が帰国せずに留まり、今も日本を示すハポンさんという姓が有る如く、アジア・アフリカ一帯に広がっているはずだ。
 タイで山田長政が活躍しその墓があることで有名だが、アンコールワットにも日本語の落書きが見つかったことがある。400年前の観光客か?

 日本は400年前には、世界に広く知られた存在だった。キリスト化したいくつかの大名は日本の王として振舞っていた。明(中国)と並ぶ「帝国」としての存在感をもっていた。そのことを信長の時代にフロイスから知らされた。秀吉も意識して行動した。周辺国を属国化しようとして、書簡を送っている。琉球、台湾、フィリピンなどへである。特にスペインが属国としていたフィリピン総督は恐怖心を持った。500人の守備隊しか連れてきていない。総督は丁重な断りの手紙を送ってきた。大名のなかには、独自にフィリピンを占領しようとして80漕の軍船をだしたが、悪天候にはばまれ引き返した例もある。

 秀吉は「明」を対等な帝国として、これを征服しようと考えたようだ。征服後には現在の上海に近い寧波に都を移し天皇を住まわせて、東南アジア一帯ににらみをきかせ、日本には秀頼を置き、自分は天竺(現在のインド)を攻めようという構想を持っていた。
 現実には30万人の軍を動かしたが、朝鮮と満州の国境を超える事ができなかった。「明」軍の応援部隊が入ってきたためである。秀吉の死後に実権を握った家康が明国と和議を結び撤退をさせた。

 このような情勢も日本に来ている宣教師を通じて、逐一本国であるスペインに送られていた。日本は軍事大国であるとして一目も二目もおかれていたのである。スペインの勢いにも陰りが出てきた。1588年に無敵を誇った艦隊がイギリスに敗れたのである。
 スペインは方向転換して、貿易とキリスト経による日本制圧へと舵を切った。家康は宗教を恐れた。若い頃に三河での一向一揆にてこずり、信長、秀吉時代の本願寺との戦いに苦戦したことが頭にある。
 キリストを禁じると共に、日本国内ではお寺による檀家制度を設けた。国内統治の知られざる一面であろう。

 

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by watari41 | 2018-09-19 16:36 | Comments(0)

「帝国」日本(5)

 話を再び江戸時代初期に戻すと、家康の政宗に対する警戒感は相当なものだった。
 関ヶ原合戦では、東軍について100万石というお墨付きまでもらったが、ささいなことにケチをつけられて、62万石止まりに終わってしまった。信長の後は秀吉、そのあとは家康と、天下人が死ぬと次の実力者に変わる事を家康は身をもって体験している。

 家康は六男忠輝に政宗の娘「いろは姫」を迎えているが、これがまた忠輝自身が将軍への野望を持つことになってしまった。政宗をバックにすれば可能だと思ったのである。
 1615年の大阪の陣では、政宗軍が敵の勇将後藤又兵衛を打ち取るなど手柄を上げていたが、忠輝は大名としての参陣が遅れてしまった。大阪にとどまった家康からきびしい詰問を受けて、そのいいわけに政宗謀反のことを口にした。忠輝からの話なので誠かもしれないと思い用心深い家康は半信半疑ながら秀忠へ仙台への出陣準備を申しつけた。秀忠は全国の徳川方の大名に書状を送った。その一つが細川藩に残っている。結局は忠輝のウソだということが判明し、事件とはならなかったが、忠輝は大名を改易され、悲惨な最期をとげた。

 翌1616年、家康の臨終が近いことを、側室で政宗に好意を持っていたお勝の方が早馬で知らせてくれた。駿府に駆けつけるべきか否かを迷っていた。政宗側近は暗殺の危険もありと反対が多かったが行く事を決めた。結果的には幸いだった。
 家康から、お前は信用できる男だ。これからの秀忠をよろしく頼むと願い死んだ。秀忠は貿易を諦め、キリスト教の入ることを防ぐことに傾注した。いわゆる鎖国である。長崎にのみオランダの窓口を開いた。
 そんなこんなもあって、それから4年後の1620年に支倉常長がキリシタンとなって戻ってきたときには、もはや政宗とて禁教令に反することはできない。支倉常長キリシタンを認めれば、本当の謀反となってしまう。秀忠の幕府が集める全国からの軍勢に勝てる見込みはない。

 政宗は、支倉を田舎のどこかでひっそりと暮らすようにしたはずだ。まためくらましのために、支倉は帰国後にすぐ死んだことにして、宮城県内の5ケ所ほどに墓を作った。筆者も3ケ所はみている。

 支倉の奥州王家臣としてヨーロッパでの堂々たる態度は、「帝国日本」を印象づけることにも役だったのであろう。

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by watari41 | 2018-09-14 12:48 | Comments(0)

「帝国」日本(4)

 話を江戸時代から、いきなり現代に飛ばしてしまい恐縮だが、1945年米軍のマッカーサー元帥は「大日本帝国」を軍事制圧し占領した。
 かつてアステカ帝国を占領したスペインが、宣教師を後に連れてきたように、元帥は占領した日本人が再び戦争をしないようにするために、全国民を「キリスト教徒」にしてしまうという、壮大な計画を立てて実行に移した。元帥は16世紀時代の野心に飛んだ人間とは異なり、敬虔なクリチャンであった。軍人でありながら平和主義者だったといわれる。

 終戦直後の日本は極端な紙不足だったにもかかわらず、一千万部という膨大な聖書を印刷して配布し、さらに3千人もの宣教師を送らせたのである。まずは天皇からキリスト教徒にしなければと、お付きの従者を改宗させた。また都合のよいことに片山内閣が誕生した。片山首相はキリスト教徒だったのである。この首班指名にもマッカーサーが干渉したのかもしれない。だが片山内閣はわずかしか持たなかった。戦前にも日本には何万人かのキリスト教徒がいたとされる。だが、アメリカから送りこまれた宣教師は「上から目線」だったとされ、日本人改宗計画の大きな失敗要因になったのだろう。
 
 皇太子(平成天皇)にも、その教育が必要だとバイニング婦人を家庭教師につけたのである。
 このような状況を見ていた日本人でイギリス大使や外相も務めた吉田茂は、元帥には平身低頭して仕え、信任を得てゆき首相となるのである。吉田は米軍占領下では何事も出来ないことを知っていた。日本人として「臣茂」と称していたごとく大かたの人々と同様に天皇を尊敬していたのである。吉田も内々では、キリスト化などは無理と思っていたようだ。しかし、そんなことはおくびにも出さず、私が首相になることをお許しいただけるでしょうかというような書面を元帥に出し許可を受けて戦後3代目になる第一次吉田内閣を作る。それまでは東久邇宮、幣原内閣といずれも短命内閣だった。吉田もこの時は一年で終わる。

 現憲法草案の時にも、いちはやく吉田はそれを見せられたという。そしていやがる日本人を説き伏せる役も引き受けた。GHQ憲法に反対なら天皇を東京裁判にかけるとも言われたようだ。マッカーサーは日本が再軍備することを嫌がった。第一次大戦後のドイツが不死鳥のようによみがえり第二次大戦では屈強なナチス軍になった前例がある。
 しかし、現憲法はマ元帥の大失敗作とされる。まもなく起こった朝鮮戦争に日本人を使えなくなったからである。元帥はアメリカ議会に喚問され、どうしてああいう憲法を押し付けて、精強だったはずの元日本軍人を使えなくしたのかと責められた。
 元帥は、やむなく、あれはみじめな敗戦を経験し平和を希求する、戦後最初の民間人首相だった幣原氏の提案だったと逃げたのである。
 そのお陰で、日本人はベトナム戦争にも参戦することはなかった。

 大失敗を知った元帥は、朝鮮戦争で釜山が陥落寸前まで、追い込まれた時に毛沢東の人民解放軍が,海を渡り日本に押し寄せることを恐れ、第二次吉田内閣に命じて数万人規模の警察予備隊を募集した。(後に自衛隊となる)・・・本筋からそれてしまった。

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by watari41 | 2018-09-07 17:12 | Comments(0)

「帝国」日本(3)

 1613年、支倉常長がサンファンバウチスタ号で出航できたのは、ギリギリのタイミングだった。
 徳川家康は、貿易の夢をなかなか捨てきれないでいた。東北どころか江戸湾にも外国船が入ってきていなかった。仙台に貿易船が来るのであれば当然江戸にも来る。政宗も家康も利益を得ることになるからだ。

 しかし、家康は政宗への警戒心を捨てていなかったのも事実である。大阪には当時、豊臣秀頼がいてあなどりがたい勢力を確保し続けていた。これに政宗が加担するとなれば相当に厄介なことになる。
 ここはひとつ、政宗に恩を売っておこうと思ったようだ。その2年後に家康は秀頼討伐の軍を上げたのである。大阪方で建設した鐘楼にケチをつけて軍事衝突するように仕向けたのである。「国家安康」と刻んだ文字が家康の名前を分断する不吉なものだという、言いがかりをつけた。あまりにも有名な話である。大阪方にはキリシタン浪人が多数集まった。これらを一挙に軍事制圧したのである。

 一方、常長の出向に当たっては宣教師「ソテロ」は様々な工作をした。彼は西欧の事情に詳しいのであるから仕事がしやすい。向うでは日本を帝国とみなし、家康が皇帝であり、政宗が「奥州王」として通用する十分な下地があった。
 したがって「奥州王」がスペイン王や、ローマ教皇に親書を送るのは一向に差し支えないということになる。和紙に金粉をまぶした黄金にかがやく政宗の書状が残っている。

 キリシタンの禁教は、政宗だって十分に承知している。それを踏まえて、貿易と同時に宣教師を派遣してほしいという書簡である。
 政宗はうまくすれば、仙台藩を現在でいう「特区」みたいにしたいと考えたのかもしれない。日本の中では仙台にだけキリスト教を認め同時に貿易もできるというものである。家康だって江戸の周辺に特区を作る計画があったのかもしれない。
 「ソテロ」は、この計画が実現すれば日本での「大司教」になれることを夢見ていたようだ。3者3様の思惑を乗せて、常長、ソテロそして故国に帰るビスカイノと共に船出した。

 (昭和50年頃の頃だった。常長の壮挙を詳細に研究している学者がいて、東北大での講演を聞きに行ったことがある。その方の研究によれば、出港当日、石巻市「月の浦」は、海底の深度、潮の干満からみて、午前5時でなければならず、その日は大潮であったことを突き止めたと聞いて小生は感嘆に絶えなかった記憶がある:このブログで前に書いたことがあるかもしれない)

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by watari41 | 2018-09-02 11:03 | Comments(0)