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明治150年(3)

 明治以来、我が家も5代に渡り苦難の道を歩んできた。
 高祖父は維新の時に44歳、稼業は順調だった。とは言っても官(領主)のお墨付きの仕事である。
 旧街道筋に面していたこともあり、往来者の監視であるとか、店もあって塩など現代でいう専売品を扱い、質屋も兼ねたり、官命の荷物を運搬したり、さらには周辺町民への司法権まで与えられていた。いかめしい役職名がついていた「検断」である。仙台藩特有の役職名らしい。おそらく藩内には何百名もいたのであろう。田舎にゆくと「庄屋」と呼ばれる方々と同様なことらしく、町場にある庄屋さんなのだ。町内の仕切りをまかせられていた。明治33年に生まれた祖父の末弟は、周囲の年配者から検断さんの孫さんだと一目おかれていたらしい。
 必ずしも世襲ということではなかったのであるが、江戸時代を通じて幸いにも11代に渡り260年間この役職をいただいていた。

 明治維新を「ごいっしん」とこのあたりでは言っていたようだ。何もかもが変わってしまった。
 民間ベースでやっていた「紅花」の取引管理だけはまかされていた。紅花栽培も盛んだったのである。この町場からは6kmほど離れた阿武隈川河畔の今泉村に市場がたっていた。維新後に今泉村市長という珍しい役職名をもらったのである。通勤も大変だったのであろう。50歳を前に引退している。
 新しく一家の長についたのは、高祖父の長男30歳である。(私からすると曾祖父の兄になる)
 新規事業に乗り出したのである。現代でいう宅急便をはじめた。江戸時代には官業として荷物を運んでいたが、今度は民間事業としてやろうとした。だがものの見事に大失敗してしまった。明治10年、家と屋敷をすっかり他人に売り渡して本人は夜逃げ同然に北海道を目指した。もう一旗あげるつもりだったらしいのだが、為すことなく札幌にて大正元年に70歳で没した。

 やむなく弟(私の曽祖父)が一家を背負うことになった。幸いにも白石市に大富豪の親戚がいたので、そこから借金して家と屋敷を買い戻したが、莫大な借金を抱えることとなった。曾祖父一代では到底払い切れず、祖父の代まで親子二代50年におよぶ苦闘が続くことになる。
 詳細は以前にこのブログに記載したことがあったので省略する。



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by watari41 | 2018-04-30 11:48 | Comments(0)

明治150年(2)

 明治維新から75年が過ぎた昭和18年に、我が町から仙台に向かって荷車をひいた男が歩いていた。荷物はなく空車であった。
 仙台の第二師団から「徴用」の通知がきたのである。「物品の赤紙」みたいなものである。
 一町民が軍の命令に逆らうことなどは出来るはずもない。男は奥さんから昼食のにぎり飯をもらい出かけたのであった。維新の頃と違っていたのは、阿武隈川、名取川、広瀬川に橋がかかっていたいたことである。だが25kmの道のりは変わらない。男の息子は昭和一桁の生まれなので当時の状況をよく覚えていた。個人で荷車を持っているのは当時としては裕福な家だった。

 日清戦争、日露戦争、太平洋戦争と維新から150年の前半は国をあげての戦争の時代でもあった。
 太平洋戦争は、維新以来かかげてきた「富国強兵」政策の総決算ともいうべきものであったが、完膚なきまでにたたきのめされた。
 その反省もあったのだろう、後半は一転して稀に見る平和国家となったのだから不思議なものである。戦う力が無くなったからとも、また戦地に赴いた人は食料もなく、バカ馬鹿しい戦いをしたものだという深い反省の念に捉われたこともあったのだろう。戦争は虚しいと思った人たちが多くいた。

 ところがトップにいた文官は、責任を感じなかったのであろう。戦時中の大臣が、価値観の一転した戦後において総理大臣になるのだから誰もが驚くと同時は当たり前のこととして通用したところに日本の不思議さがある。

 最後の海軍大将と言われた宮城県出身の「井上成美」は、一身にその責任をとるかのように、戦後はひっそりと生活しその生涯を終えている。当時でも個人個人の考えに大きな差異があった。前者は岸信介で長州の人である。いわば維新の勝ち組、井上は負け組だった。
 昭和33年頃だったろうか、岸首相はアメリカを訪問し、アイゼンハワー大統領とポトマック川でボートに乗った写真が新聞一面に大きく掲載されたのを記憶している。「日米新時代」だと語っていた。
 いみじくも、節目の首相はいずれも長州だと知った。初代は伊藤博文、50年目には桂太郎、100年目は佐藤栄作、150年は安部普三。


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by watari41 | 2018-04-24 14:58 | Comments(0)

明治150年(1)

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 明治維新から150年である。東北人として、これは率直に「祝うべきことなのか」という論調がある。「維新」という言葉に飾られているが、何のことはない薩摩・長州による暴力革命だったという見方がある。
 「・・何がめでたい」という佐藤愛子さんのベストセラーもあった。年月を重ねることに意義があるわけではない。
 写真は仙台藩主伊達慶邦公が150年前に降伏調印式のため、前日に仙台からこの館まで来たのである。一泊したのは城下の上級武士である石井覚左衛門宅である。
 現代の亘理城には、面白いことに2枚の看板がかかげてある。
 左には「亘理要害跡」(臥牛城跡)、右にあるのは「亘理城址」(仙台伊達藩戊辰戦争終焉の地)と書いてある。
 「要害」の看板は10年ほど前に、道路から見えるところに何の表示もないのがおかしいと、当時の文化財委員会が建立したものである。江戸時代に幕府は全国統制のため、一国一城令を発した。仙台藩だけは例外として2城が認められ、仙台青葉城と片倉小十郎の白石である。それ以外は石高に応じて、要害、館、柵などと名付けられた。
 しかし、この「要害」看板に平成の商工業者が黙っていなかった。亘理より格下の5千石の船岡館が、いまや堂々と船岡城址公園としている。何故「城」という名称を用いなかったのかという論争が起きて、さらに看板をもう一枚、商工会が建立することになったのである。
 亘理は2万4千石を領有していた。仙台伊達62万石は分散支配体制をとり、各地をそれぞれにまかせていた。青葉城の周囲には、江戸城周辺に構える大名屋敷同様に、亘理伊達氏も数万坪の仙台屋敷をもっていた。早朝に出発すると25kmの距離なので、昼頃に到着する。(つづく)

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by watari41 | 2018-04-18 11:37 | Comments(0)