台湾へのシンパシー(後)
2019年 04月 12日
台湾で忘れられない人に「鄭成功」(テイセイコウ)がいる。明王朝末期の将軍で、日本では江戸時代初期に当たる。
彼の父が、長崎の平戸に来た時に日本人女性との間に設けた子供である。7歳まで日本で育つが、父のいる中国へと旅立った。聡明だった彼は21歳にして父親同様に明朝の将軍に任ぜられる。当時台湾を占拠していたオランダの東インド会社とも戦っている。
その頃に大陸では、満州に勃興した清王朝の勢いが増大して明王朝は滅亡した。彼の父は清王朝に投降したが、「鄭成功」は台湾に渡って抵抗を続けた。時に日本は三代目将軍徳川家光の時代である。徳川幕府に援軍を要請した。家光は大いに食指を動かしたが、側近たちはこれを諌め結局援軍を出すことはなかった。
「鄭成功」は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の話を当然聞いていたであろうし、戦国時代に鍛えられた日本軍の強さも知っていた。
しかし、日本は鎖国政策に入っていたし、「鄭成功」の望みはかなわなかった。清王朝に投降した彼の父は後に処刑されるが、そのわずか2年後には「鄭成功」も39歳にて熱病に罹り死亡してしまう。現在の台南市に政権をうちたてたがごくわずかの期間でしかなかった。しかし台湾独自の政権を最初に打ち立てた「開発始祖」として国神の一人になっている。
彼は明王朝の将軍となってから、平戸にいた実の母親を大陸に呼び寄せた。しかしその本来の居城だった泉州の城が、彼の留守中に明軍に攻められ陥落するときに母親は自害して果てた。
そこから、およそ半世紀後に日本では近松門左衛門が人形浄瑠璃をそして歌舞伎にもなる『国姓爺合戦』が空前の大ヒット作となったのである。17ケ月連続公演という歴史的記録を打ち立てた。「鄭成功」が将軍となった時に国姓爺という名をもらったことに由来するものである。
日本では歴史で「鄭成功」を教えず、国文学の分野でしか教えられないのは残念である。
彼は台湾のオランダ軍と戦った時には、福建省のアモイ沖合の島を拠点として海戦を行った。
ずっと最近になってからのことだが21世紀になる5年ほど前に、そのアモイに在職した会社が中国進出最初の会社を設けた。中国が経済的に急発展する直前のことだった。まだ路上に人々がタムロしていた記憶がある。
by watari41
| 2019-04-12 16:48
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