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台湾へのシンパシー(前)

 先日の河北新報記事に、この数年で仙台空港への台湾からの観光客が10倍にもなっていると報じられた。
 以前から台湾と日本には計り知れないシンパーシーがあるのを感じていた。
 日本の基本的な文化は大陸や朝鮮半島からきているが、その後の千年ほどで独特な島国文化が醸成されたとされる。台湾は明治時代の日清戦争によって大陸の清国から日本へ割譲された。当時の台湾は未開の地に近かったが、日本が持てる力を投入して近代化を行った。第二次世界大戦後に台湾は放棄されたが、そこに大陸で敗れた蒋介石の軍が逃げ込み現在に至っている。

 1950年頃の毛沢東軍は圧倒的で、台湾の蒋介石も簡単に陥落するかと思われたが辛うじて生き残ったのは、ある旧日本軍人のお陰だとされている。一年ほど前の農業新聞のコラムで読んだ旧陸軍中将根本量さんという人がその方なのである。
 1945年の終戦時に、根本中将は満州の関東軍で一方面を受け持った守備隊長だった。ソ連軍の侵攻は8月15日の終戦を迎えても、なお攻撃の手を緩めず、彼の率いる軍はやむなく応戦しながら、4万人近い民間人と軍隊を引き連れて南下撤退し大陸の天津の辺りまで後退した。この間に中国軍の援助を求めるべく、蒋介石と八路軍(毛沢東)に使者を送ったそうだ。ソ連と近かった毛沢東はこれに応ぜず、蒋介石軍が助けてくれたのだという。
 日本への最終引き揚げ船団に間に合って、配下の全員が無事に帰国できるという奇跡的なことがあった。そのままソ連軍の捕虜となっていたら軍人はシベリアでの過酷な運命が待っていたし、民間人も岸壁の母で有名な興安丸の帰国船を待つしかなかったのである。

 根本さんは、蒋介石に大変な恩義を感じたのである。その後、大陸の戦況は毛沢東が優勢となり蒋介石も台湾であわやという状況に追い詰められていることを知った。なんとか助けてやりたいという彼なりの義憤にかられたのであろう。横浜港からの密航漁船を内密に日本の知りあいに容易してもらったのである。当時はまだ日本国内はGHQの占領下にあり、元軍人の出国が許されるわけなどはない。家族には釣りに出かけてくるといってそのまま出港したのである。

 台湾に辿りついた彼は蒋介石の軍事顧問となった。当時の戦況は大陸のすぐ近くにある金門島で激しい攻防の最中だった。根本さんは有能な指揮官だったようで、目と鼻の先にある福建省のアモイからの毛沢東軍の猛攻を凌ぎきったのである。ついには、台湾占領を諦めざるを得なかったのである。
 今も金門島は台湾の管轄下にあり、台湾本島は守られたのである。

Commented by 鈴木俊明 at 2019-03-29 10:25 x
旧満州にいた高級将校はいち早く逃げ出したのが多いとものの本には書いておりますが、そうでない人もいたのですね。いずれにしても台湾では、朝鮮半島とは違い、現地の人々を過酷に取り扱ったということは余りなかったように聞いております。
Commented by watari41 at 2019-03-30 11:57
例外的に骨のある人がいたのですね。関東軍本部の高級将校はいち早く情報を得て逃げ出したとされます。逃げ遅れた一般軍人は捕虜となり、シベリアでの過酷な重労働にも耐えて生き残って帰還した方が、我が町にも相当数いてダモイ会(ロシア語で「望郷」という意味)を結成しておりました。
おそらくは、唯一の人になったのでしょう。年号が変わる今も百歳に近い方がおります。俊明さんコメントをありがとうございます。
by watari41 | 2019-03-28 17:00 | Comments(2)