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余日録


by watari41

新元号(3)

 西暦645年に天皇家は、朝廷を脅かしつつあった実力者の蘇我氏を宮中で暗殺した。この時に日本で初めて年号をつけた「大化」である。それ以来、現代まで連綿と年号は続いている。ただ、年号と天皇の名前は異なった。明治からの150年が一致しているに過ぎない。

 古代においては、天皇という言葉は使わず「大王」であったろう。その地位をめぐり一族内部での戦争や凄惨な揉め事があったとされる。勃興する実力者を抹殺したり、争いが絶えなかったのであろう。西暦600年頃の聖徳太子が作成した17条憲法の最初に「和をもって貴しとなす」というのは、自分の一族である朝廷内部を含めてのことであろう。

 天皇権の争いは、第42代目の天武天皇による壬申の乱(673年)をもって収まる。
 そこから100年ほどを経た後の称徳天皇(歴史上数少ない女性天皇)が、側近の愛人と言われる「弓削の道鏡」に天皇を譲ろうとした事件がある。最高の権威神である宇佐神宮に承認を得ようとしたが拒絶された。古代史には謎の事件とされるものが多い。
 天照大神の子孫を名乗る天皇家には、神様にふさわしい行事が必要になってくる。「よみがえること」である。これはキリスト教も同様で、イエスは死後に復活(よみがえる)している。日本ではその行事が伊勢神宮の20年毎に内宮を建て替える「遷宮」と言われるものである。奈良時代の文武天皇の時に始めたとされる。伊勢神宮がアマテラスを奉っているからである。跡形も無く取り壊し、全く新しい形でよみがえさせるのである。
(ただ、その材木は国内の神社に払い下げられ修復作業などに使われている)
 では、何故20年かというとその根拠は、いまだ不明のようだ。

 日本では6千年も前から、一定期間使用した道具は破壊して捨てるという慣習があったとされる。(さらに良い道具を得る儀式だと)
 北海道の北黄金遺跡にその跡がみられる。
 昔は年号もよく変わったが、これもまたその年からの一種の日本のよみがりを期待してのことであろう。

 平成の次の時代には元号と共に、大嘗祭も話題になっている。天皇家の私的行事なのか、国家的な意味合いがあるのかということである。これには前方後円墳時代のこととして、前方部分は何らかの儀式に使ったであろうことは推測されていたが、それが現代の大嘗祭そのものではなかったろうかと著者はいう。いつの時代からか秘儀として権威付けに利用されたのだと考えられる。

by watari41 | 2018-12-20 16:15 | Comments(0)