「帝国」日本(3)

 1613年、支倉常長がサンファンバウチスタ号で出航できたのは、ギリギリのタイミングだった。
 徳川家康は、貿易の夢をなかなか捨てきれないでいた。東北どころか江戸湾にも外国船が入ってきていなかった。仙台に貿易船が来るのであれば当然江戸にも来る。政宗も家康も利益を得ることになるからだ。

 しかし、家康は政宗への警戒心を捨てていなかったのも事実である。大阪には当時、豊臣秀頼がいてあなどりがたい勢力を確保し続けていた。これに政宗が加担するとなれば相当に厄介なことになる。
 ここはひとつ、政宗に恩を売っておこうと思ったようだ。その2年後に家康は秀頼討伐の軍を上げたのである。大阪方で建設した鐘楼にケチをつけて軍事衝突するように仕向けたのである。「国家安康」と刻んだ文字が家康の名前を分断する不吉なものだという、言いがかりをつけた。あまりにも有名な話である。大阪方にはキリシタン浪人が多数集まった。これらを一挙に軍事制圧したのである。

 一方、常長の出向に当たっては宣教師「ソテロ」は様々な工作をした。彼は西欧の事情に詳しいのであるから仕事がしやすい。向うでは日本を帝国とみなし、家康が皇帝であり、政宗が「奥州王」として通用する十分な下地があった。
 したがって「奥州王」がスペイン王や、ローマ教皇に親書を送るのは一向に差し支えないということになる。和紙に金粉をまぶした黄金にかがやく政宗の書状が残っている。

 キリシタンの禁教は、政宗だって十分に承知している。それを踏まえて、貿易と同時に宣教師を派遣してほしいという書簡である。
 政宗はうまくすれば、仙台藩を現在でいう「特区」みたいにしたいと考えたのかもしれない。日本の中では仙台にだけキリスト教を認め同時に貿易もできるというものである。家康だって江戸の周辺に特区を作る計画があったのかもしれない。
 「ソテロ」は、この計画が実現すれば日本での「大司教」になれることを夢見ていたようだ。3者3様の思惑を乗せて、常長、ソテロそして故国に帰るビスカイノと共に船出した。

 (昭和50年頃の頃だった。常長の壮挙を詳細に研究している学者がいて、東北大での講演を聞きに行ったことがある。その方の研究によれば、出港当日、石巻市「月の浦」は、海底の深度、潮の干満からみて、午前5時でなければならず、その日は大潮であったことを突き止めたと聞いて小生は感嘆に絶えなかった記憶がある:このブログで前に書いたことがあるかもしれない)

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by watari41 | 2018-09-02 11:03 | Comments(0)