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余日録


by watari41

仙台真田氏

 山頂付近の火山活動がやや活発化している宮城県側山麓の蔵王町に、真田幸村の子孫が代々続いていることが、地元紙河北新報に度々取り上げられている。

 大阪夏の陣で大活躍した真田幸村が落城の寸前に仙台藩の家臣である片倉小十郎(2代目)に子供をあずけたのである。その子孫が連綿と続いている。
 片倉小十郎は仙台藩内で現在の白石市一帯に一万八千石を得ているが、その一部である300石を与えたのである。

 筆者が不思議に思っていたのは、如何に豪胆な伊達政宗といえども、敵将の子供を家臣があずかるということを、徳川幕府を憚って許すはずがないだろうということだった。
 ところが意外なことからその疑問が解けた。

 先般、大阪の堺市に住むクラスメイトだったコンジョウ(根性)氏に案内してもらい、南宗寺という由緒ある寺を尋ねたのである。
 そこに何と徳川家康の墓があったのだ。日光東照宮がその墓であることは誰でも知っているが、ご本人の遺体は南宗寺に眠っているというのである。どういうことかと言うと大阪夏の陣で真田幸村などの活躍があり、家康は本陣を去らざるを得なかった。逃げ惑う家康の駕籠をこれまた勇将の後藤又兵衛が見つけた。取り巻きを蹴散らして駕籠に槍を入れ手ごたえを得た。しかし又兵衛は武士の情けと中を改めずに、そのまま立ち去ったのだということだ。
 やがて重傷を負った家康は、近くの南宗寺に運び込まれるが、まもなく息を引き取り、そこに埋葬された。当時は公然の秘密とされたが、やがては忘れ去られた。
 大きな墓所だったが、現代になってから朽ち方が激しいので、当時の財界人が寄付して、墓を作りなおすことになった。昭和40代に松下幸之助をはじめお歴々の寄贈者名が並ぶ大きな墓石には「徳川家康公之墓」と書かれている。
 石もまた見事なものである。宮城県丸森町に最近は採掘禁止となった高価な石があるが、肌艶がそれに似ている。もっと立派なものなのかもしれないが。

 家康の死を知った政宗は、もはや誰の遠慮もいらないと真田氏の子供を受け入れたのである。さて以降の家康の替え玉(現代では影武者という)は、一年を過ぎずして死亡してしまうのである。死因は有名過ぎる天ぷらを食べたという話である。

by watari41 | 2015-05-15 21:55 | Comments(0)