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余日録


by watari41

猫神様(2)

 宮城県南、養蚕の元祖でもある丸森が後発の亘理にやられているのは面白くないと、大正8年になってようやく伊具農蚕学校を設立した。しかし20年以上もの遅れは如何ともしがたい。
 実績を積み上げた亘理は、大正12年には県立農蚕学校に昇格し、また蚕業試験場も県からの認定を受けた。

 ごうを煮やした丸森の県会議委員が奇策を案じた。昭和5年頃である。県会議員たちに周到な根回しをして、議会で緊急動議を出して亘理の県立学校を丸森に移設しようとしたのである。計画は秘密のうちに行われた。
 しかし、その前夜に発覚するのである。河北新報の赤坂記者がこれを知った。当時は記者モラルもうるさくなかった時代なのであろう。日頃の飲み仲間である亘理の永田万吉県会議員に、夜の10時頃だったが、宿泊先を訪ねたたき起こしてこれを告げた。驚いた永田議員は寝巻き姿のままで人力車を飛ばして、有力議員を訪ねて説得を重ね、ようやくにこれを阻止したという一世一代の武勇伝がある。永田議員は地元で面目を失うことなく済んでメデタシというようなことだった。

 郷土史冊子の(郷土わたり12号:昭和38年6月発刊)にこの実名入の記事を書いたのは、斎藤譲一郎さんという有名な教育者であり、後には町長にもなった人である。昭和40年に95才で亡くなっている。亡くなる少し前の投稿で、赤坂記者とも親しく、その事件当時に本人から直接聞いた話なのだというのである。「事件」の関係者で生存している方は誰もいなくなり、ご自身も卆寿を過ぎたので、多少の記憶違いなどもあるのだろうが、後世への記録として残したのであろう。

 この斎藤先生は丈夫な方だった。晩年は杖を手に町中を散歩していた。亘理在住の殆どが、この先生の教え子というような時代もあったらしく、先生が来ると誰もが最敬礼して迎えたものだ。私もその散歩姿を10年以上も眺めていたことを回想している。私の祖母は明治17年生まれだがその先生だったのだがら驚く。見た目は謹厳な方だったが、最晩年は洒脱だったようで、町の郷土史への投稿も「事件」当時から30年も過ぎているということで、実名とされたのであろう。現在はそこからさらに50年を経過している。猫神様を書くに当たり、思い出したことである。
Commented by schmidt at 2012-11-20 10:12 x
「赤坂記者」・・。恥ずかしながら知りません。地域のしがらみや利権と深くかかわる取材だったんでしょう。時代は移り、かなり環境も変わりましたが、どんな形が地域のジャーナリズムとして妥当なのかは、いまだに分かりません。
Commented by watari41 at 2012-11-21 09:34 x
地域密着とは言っても非常に難しいことなんだと思うのです。深く突っ込まなければ通り一遍のことになってしまうでしょうし、あまりに濃密なことになってもいけないでしょうし、難しいことなんですね。schmidtさん、コメントをありがとうございました。
by watari41 | 2012-11-18 15:15 | Comments(2)