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余日録


by watari41

宮城県亘理郡山元町

 宮城県亘理郡山元町_a0021554_2023925.png20年ほど前に発刊された「やまもとの植物」は、現代山元町史そのものを見るようなものだ。ずっと後に知ったことであるが知人の女性がデザインした本である。「やまもとの野鳥」・「やまもとの昆虫」と並ぶ3部作である。左はその知人からいただいた。
 当時の町長であった千石正乃夫さんは、緑の町長などとも言われ山元町に工場はいらないという主義だった。子供の頃から自然に親しんできていた方である。
 そんなこともあって、仙台の文化人がリタイア後についの棲家を求めたり、セカンドハウスのようなものがあったりした。海岸には別荘地域もあった。大震災は、そんなものを一瞬にして流し去ってしまった。

 今朝(9月13日)の地元紙朝刊を見て驚いた。被災者のうちで、もう山元町に住みたくないという人が25%にも達している。
 現代社会の移ろいはものすごく早い。かつては町づくりのありかたとして、そんな町政も有りうるのかと思っていたものだが、今や郷愁にしか過ぎなくなってしまったかのようだ。

 自然と人間は徐々に分離されかかっている。人口の都市への集中が進みつつある。

 明治中期から末期に生まれた宮城県の方々は、どういうわけか自然保護派が多い。最も有名なのは国会議員だった大石武一さんである。昭和40年代の半ばに初代の環境庁長官になった。当時は開発一辺倒の時代だったことを回想している。日本の縦横に道路が建設されていた。世界的な湿原である「尾瀬ヶ原」のど真ん中にも道路が通じる計画だった。
 推進者は、当時の田中角栄通産大臣、周辺3県の知事であった。それを危惧した湿原の主である長蔵小屋の平野さんが、大石環境長官に直訴した。
 大石さんは、これまた子供の頃から植物が大好きだったらしい。環境庁の権限で、これら超大物たちの圧力を刎ね飛ばしのだから、今からみると大変なことだった。

 山元町の千石さんは、その少し後輩(考え方が)に当たる。私事になるが祖母の弟がこれまた植物好きであった。晩年に回想録を残し、長姉である祖母に贈ったものを私が保管している。印刷された冊子の半分を亘理の植物というページにしているのである。
 その大叔父の奥さんは長命され、ご主人の原稿ともいうべき、小さなダンボールひと箱分のノート(亘理植物スケッチ)を、どういうわけか私に託された。私有するのもおかしいので、折をみて東京に在住するお孫さんに送ったのであった。
Commented by schmidt at 2012-09-14 10:58 x
震災は、多くの人たちが大事にしてきた自然や故郷を、一瞬にして壊滅させてしまいました。そこも含めて、自然の一部だと思うしかないんでしょうか。もし、神さまがいるとしたら、本当に厳しいし、不公平だと思います。
Commented by watari41 at 2012-09-14 20:14 x
先人たちは、幾多の災害を乗り越えながら、現代文明に達する道を拓いてきたのだと思います。災害は確率的事象なんだと思っているのです。それをある人は神の業とも称しておりますが、まったくもって表現しようもないほどに気の毒なご一家もおります。確率はアトランダムなはずですが不公平なんです。schmidtさんコメントをあるがとうございます。
by watari41 | 2012-09-13 20:03 | Comments(2)