ご支援のお願い

 私は今年から敬老会の仲間入りです。(年寄りの冷や水というのかもしれませんが)町内の各種活動に今だ顔を出している。
 20くらいの役職を抱えている。
その一つが亘理町を「被災地から熱気球のまちへ」というものである。

https://readyfor.jp/projects/watari-gbp

このURLをドラックしてなぞり青くして、右クリックすると、そのなかに上記のページに「移動」するという文字が
あるので、そこを左クリックすると、募金のページへと飛んでゆく。

 3千円からである。老人にはきついかもしれない。
 目標金額はかなり高いが、事務局が頑張っている。

 多少、ややこしい操作ではあるが挑戦してみてはいかがでしょうか。
 目標金額をクリアーできない時は、全額が個人に返還されるという仕組みである。
 「クラウドファウンティング」という言葉を聞いたことがある方々も多いであろう。

 パソコンやスマホの操作訓練として、いじってみてはいかがでしょうか。
 今現在の時点で、集まっている金額がリアルタイムで表示される。

 「レディフォー」(readyfo)という組織が、各種団体からの依頼を受けてインターネット上で、
必要な資金を集めるのである。もちろんreadyfoは手数料で稼いでいる。

 どんな団体が、どんな名目で、どの程度の資金を集めているのかも、眺めてみるとよいでしょう。
 小生の所属する団体名は「わたりグリーンプロジェクト」といい、津波で失われた海岸林の再生が
主たる目的で、ここより派生した「熱気球など」種々の事業も行っている。

 URLから見ていただくとわかりますが、理事長をやっている男は、小生が在職しでた会社で10年ほどの後輩である。
 亘理町の海岸地帯に自宅をもうけたが3.11大震災で被害を受けた。
 この事業を興すに当たり、先輩も手伝っていただきたいといわれば、一肌と言わないまでも、半肌くらいはぬがないといけない。

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# by watari41 | 2018-08-04 17:33 | Comments(0)

猛暑・豪雨

 しばらくブログ更新をご無沙汰していると、お前元気なのかという声が聞こえてくるような気がしている。
史上初めてという高温が続いている。気象予報士がいろいろと解説しているが、いずれも現象というか結果論を聞いているに過ぎない。猛烈な豪雨にしてもそんなことだ。何百年に一度ということをこれからも聞くような気がする。自然現象だからやむを得ないと言えばそれまでだが、これほどまでに直近の気象情報が正確に掴めるのだから何とかならにものだろうかと思う。

 宮城県名取市の中心部を流れる増田川という一級河川がある。その上流に小規模の樽水ダムが昭和51年にできた。それでも180年に一度の400mmの雨に耐えるとされたが、それから15年ほど後の平成6年にその雨がやってきた降り続く雨をそのまま放流せざるを得ず、市内は水びたしになった。床上浸水の家が多く大変な被害額だった。9.22豪雨と呼ばれるものだった。その8年前にも8.5豪雨とされる宮城県に大きな災害をもたらした雨があった。この時はかろうじて樽水ダムは持ちこたえた。今回の広島・岡山などの千mmともなれば為すすべを知らなくなろう。

 過去の気象データが何もかも役に立たない時代を迎えてしまった。ありがたくない史上最高記録を更新し続けている。
 人間は風邪を引いて39度の熱を出すと重症である。今や大気の温度がそうなっている。具合の悪くならない方がおかしい。

 天気情報を見ていると、地上では豪雨が降っているであろう不気味な赤い筋状の帯が見える。何億トンかの水分を含んだ雲が存在することを示している。これを蹴散らすとか、有効活用することが現代科学の課題でもあるような気がしている。どこかで誰かが、そんなことの研究をしているのではないのかとも考えているが、国家的な課題でもあると思っている。莫大なエネルギーを必要とすることなのかもしれないが、現代日本には、そんな実力が備わってきているのではなかろうか。


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# by watari41 | 2018-07-25 21:49 | Comments(0)

敵に塩を送る

 上杉謙信が宿敵の武田信玄に塩を送ったのは有名だ。海の無い領地しか持っていなかった武田信玄は困っていたはずである。
しかし、これが美談かというと必ずしもそうではなかった。
 結果論であるが、信玄は天下取りをすべく万余の軍勢を動かし甲府から京都を目指した。途中でこれを阻止しようとした徳川、織田の連合軍を簡単に打ち破り、軍を進めていたが、まもなく信玄が脳卒中に倒れ目的を達することができなかった。
 現在の医学でいうと「塩分の取り過ぎ」による高血圧だったということになる。当時にあっては保存食である漬物などに塩は必要であり、全体的に日本人は塩分過剰だったのであろう。義に厚かった謙信は、もちろんそんなことを知るはずもない。
 川中島で幾度も闘い雌雄を決せられなかった信玄は、いともたやすく殺されてしまったということになる。謙信は労せずして勝ったのである。しかしその謙信も、まもなく脳溢血となり天下の覇者となることはできなかった。
 当時の医術には、塩が良くないなどということはなかったのであろう。むしろ命の源みたいに考えていたかもしれない。
 織田信長も本能寺で死んでいなくとも、高血圧で余命数年だったという説もある。
 江戸時代に入ってからも「塩」は重要な商品だった。

 現代人も塩分過剰とされる。旨いものというのは「塩分とたんぱく質」によるものだとされている。美食家と言われる人ほど塩分を取り込んでいるのであろう。この余剰な塩分など老廃物を体外に排出する役目を持つのが「腎臓」である。人間の体内に2つあるのは、この臓器を除いて他にはない。心臓のすぐ近くにあり、太い冠動脈からも離れていないが極く細い血管で連絡されているにすぎず、血圧が高いと腎臓を早く痛めるとされ、究極的な治療は人生の時間の多くをとられる人工透析となる。
 アフリカ大陸にあって、海のない国であるケニアの人々の塩分摂取量は極めて少なく、従って高血圧の人もいないとされる。

 寒いところである青森や秋田県が平均的に短命なのは、こんな理由だと言われてきた。腎臓の研究も進んでいる。この分野の世界的権威とされているのが東北大の伊藤教授である。私もその講演を一度聞いたことがある。その話もわかりやすかった。

 宮城県には塩の神社として有名な「塩釜さん」がある。先日、当地出身の神職さんがいたので、前もって予約して数十名の方々と共に正式参拝をさせていただいた。神様も当世塩分事情を御存じなのであろう。ご利益に「健康寿命の増進」があった。2千円の高額な桐箱付きお守りとさらに全員にお札をいただいてきた。

 最近は塩分控えめが流行語でもある。すべてにおいて取りすぎは良くない。ノンカロリーとかノンアルコールがもてはやされる時代である。「敵に塩を送る」は相手を考えてやったつもりが、かえって悪い事をしたというようなことの意味になるかもしれない。

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# by watari41 | 2018-06-20 21:19 | Comments(0)

77歳同級会

 今回は、かつて八幡製鉄に勤務していたカメチャンが幹事なので北九州市に出かけた。もちろん生まれて初めてである。
 門司港に面したレトロ街の重要文化財になっている旧三井クラブが会場である。関門海峡があまりにも狭いので驚いた。東西に走っているとばかり思い込んでいたが、このあたりでは南東の方面に行くと瀬戸内海に抜ける。
  近況の紹介では、在学中から「根性が大事や」と言っていた男が、今は老人クラブなどで「傾聴の会」のボランティアをしているのだという。彼の病気が心配で同伴してきた奥さんは、私の話を何十年も聞いた事のない夫が、そんなことを出来るんだろうかと思ったそうだ。しかし男には得てしてそんなところがある。一緒について行って、ちゃんとやっているのを見て安心したそうだ。男も悟るところがあったようだ。他人の話を聞く事は、自分を知ることにつながるんですよと。
 https://tettan2mc.exblog.jp/m2018-06-01/
 カメチャンも元気になった。60代の頃は、体調不良だったが毎朝のラジオ体操と、独自に考案したストレッチとか筋肉を鍛えることを続けた結果、見違えるばかりに元気になっていた。グループを組んでやっているそうで、皆さん調子が良いようで仲間がどんどん増えているそうだ。教祖様になれるんではないかと誰かが言っていた。

 今度のクラス会に当たっては、彼は200%の気づかいをしてくれた。それぞれの時間を調べ、翌日には海峡のお向かいにある下関市の長府観光に連れていってくれた。
 小生などはもちろん知らないところだ。宮城県人でもそこを訪れたことのある人は千人もいないと思う。
 長府は史跡の多さなどから観光産業に力を入れて、歩道は石畳がずっと続く、街中は至る所が石畳と塀があり風情万点である。全国でもここだけであろう。宮城県の中新田というところに、石畳の道があるが比べ物にならない。
 長府は、萩市を拠点とした長州藩の支藩である。萩ほどに知られていないのは残念だが、立派なところである。少し登ったところに功山寺というお寺があり、高杉晋作の像があった。幕末の三条実朝など京都の七卿落ちでも有名だ。明治天皇が宿泊したという簡素な和室もあった。長府のそもそもは、戦国大名の毛利輝元が子供がいないため養子をとったが、後に実子ができたので、養子を長府に別家としたのが江戸時代以降発展の経緯である。
 門司から下関へ船で渡ったところは「唐戸」と呼ばれる。源平合戦で平家と運命を共にした安徳天皇を祭った赤間神社なども参拝した。
 新幹線下関から博多へ、そして仙台へと長旅だった。博多空港は仙台より一回り大きい。



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# by watari41 | 2018-06-08 15:57 | Comments(2)

明治150年(5:終)

 明治維新最大の謎とされているのが、軍資金の問題である。
 グラバー商会が資金提供したのではないのかと推測する見方がある。先年、長崎のグラバー邸の大規模改修工事で屋根裏に多数の人が集まれる、密室の如きものが発見されたのである。その入口が女中部屋なのである。薩長の密談に利用されたのではないのかという推測である。
 坂本竜馬に多額の資金提供したのもグラバーであったと。
 その見返りは何であったかと言うと「取引額の拡大」である。

 日本が近代化すれば、商取引も増加してくる。その前に内戦状態となれば武器商売が増えることも見込んでいたのであろう。最初は長州藩を取り込んだ。しかし一藩だけではもたない。幕府に追い込まれお手上げ寸前になった。竜馬が出てくる。薩長同盟となり、さらには土肥もくわわる。

 グラバーさん個人の力では、たかが知れているが、バックについているのが、イギリスの東印度会社を統括するジャーディマテソン商会で極東の権益をすべてまかされていた。グラバー商会はその日本代理店みたいなものだったろう。資金はそこから出たとみられる。現在でもマテソン商会は世界の大企業500社に含まれている。

 世界史的に俯瞰すると、インドでは軍を投入して大虐殺の上で植民地化した。中国では1842年にアヘン戦争を起こして、麻薬の商売拡大と香港を植民地(実際には99年の租借)とする成果をえている。次にと狙ってきたのが日本である。

 日本は簡単には行かないとおもったのだろう。自らに内戦を起こさせる作戦にでた。その結末が明治維新なのだろう。英国人が表に出ることはなかった。
 当時はそれが常識だったのだろう。幕府側はフランスに援助を求めた。
 歴史は勝者によって作られるとされる。今後知られざる事実の出てくる可能性は高い。
 
 

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# by watari41 | 2018-05-24 15:46 | Comments(0)

明治150年(4)

 明治戊辰戦争は、仙台藩にとっては戦う必要のないものだった。
 過去に必要な戦争というものがあったのかは不明だが、歴史上、幾度もの戦争は後になって考えてみると、何故に戦争になってしまったのかわからないものが多い。
 戦争の発端には意外なものが多い。
 ベトナム戦争も数十年後に当事者である、アメリカのキッシンジャー氏とベトナムのザップ将軍の衛星による対談番組があったが、お互いの誤解に基づくものだったようで、ベトナムは焦土となりアメリカ人が何十万人も戦死した。
 しかし世界史は戦争の歴史でもあり勝者が利益を得ている。日本も戦国時代には同様である。

 江戸時代の260年間は、内戦はもちろん外国とも戦っていない。奇跡的なことなのかもしれない。
 外国では、この間も種々の戦争が勃発している。ドイツとフランスの戦争とかイギリスは7つの海を支配すると言われた如く、世界各地で植民地戦争を起こして勝ちまくった。

 それでは幕末の内戦とは、どういうことだったのかということになる。
 その昔の「関ヶ原」での東軍と西軍というようなことでもない。
 薩長土肥と言われる、当時でいえば革命勢力であったろう。当初は長州が京都での市街戦だけで、平和裏に成功するはずだったようだが、不運なことに会津藩が指揮する幕府側が長州派遣軍に勝ってしまった。ここから事態がおかしくなった。

 江戸幕府が無血開城したのだから、もう戦う必要はなかったのだが、長州軍は私怨ともいうべき会津藩を叩かづにはいられなかったのであろう。東北諸藩が揃ってまで会津藩も江戸城同様の扱いを申し出ているが聞き入れられなかった。
 結局は東北のリーダーたる仙台藩62万石も戦う他はなかった。
 福島県の「いわき」と「白河」に援軍を出したが、惨敗し大量の戦死者を出した。
 仙台藩の最南端まで攻め寄せられ、降伏するしかなかったのである。

 藩祖、伊達政宗公の廟から2代目忠宗公の廟へ行く途中に、戊辰戦争で戦死した仙台藩士多数の名前を刻んだ碑がある。
 一方で官軍の戦死者は、靖国神社の戦没者記録に名前が残された。すなわち祀られ神となったのである。


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# by watari41 | 2018-05-14 21:34 | Comments(0)

明治150年(3)

 明治以来、我が家も5代に渡り苦難の道を歩んできた。
 高祖父は維新の時に44歳、稼業は順調だった。とは言っても官(領主)のお墨付きの仕事である。
 旧街道筋に面していたこともあり、往来者の監視であるとか、店もあって塩など現代でいう専売品を扱い、質屋も兼ねたり、官命の荷物を運搬したり、さらには周辺町民への司法権まで与えられていた。いかめしい役職名がついていた「検断」である。仙台藩特有の役職名らしい。おそらく藩内には何百名もいたのであろう。田舎にゆくと「庄屋」と呼ばれる方々と同様なことらしく、町場にある庄屋さんなのだ。町内の仕切りをまかせられていた。明治33年に生まれた祖父の末弟は、周囲の年配者から検断さんの孫さんだと一目おかれていたらしい。
 必ずしも世襲ということではなかったのであるが、江戸時代を通じて幸いにも11代に渡り260年間この役職をいただいていた。

 明治維新を「ごいっしん」とこのあたりでは言っていたようだ。何もかもが変わってしまった。
 民間ベースでやっていた「紅花」の取引管理だけはまかされていた。紅花栽培も盛んだったのである。この町場からは6kmほど離れた阿武隈川河畔の今泉村に市場がたっていた。維新後に今泉村市長という珍しい役職名をもらったのである。通勤も大変だったのであろう。50歳を前に引退している。
 新しく一家の長についたのは、高祖父の長男30歳である。(私からすると曾祖父の兄になる)
 新規事業に乗り出したのである。現代でいう宅急便をはじめた。江戸時代には官業として荷物を運んでいたが、今度は民間事業としてやろうとした。だがものの見事に大失敗してしまった。明治10年、家と屋敷をすっかり他人に売り渡して本人は夜逃げ同然に北海道を目指した。もう一旗あげるつもりだったらしいのだが、為すことなく札幌にて大正元年に70歳で没した。

 やむなく弟(私の曽祖父)が一家を背負うことになった。幸いにも白石市に大富豪の親戚がいたので、そこから借金して家と屋敷を買い戻したが、莫大な借金を抱えることとなった。曾祖父一代では到底払い切れず、祖父の代まで親子二代50年におよぶ苦闘が続くことになる。
 詳細は以前にこのブログに記載したことがあったので省略する。



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# by watari41 | 2018-04-30 11:48 | Comments(0)

明治150年(2)

 明治維新から75年が過ぎた昭和18年に、我が町から仙台に向かって荷車をひいた男が歩いていた。荷物はなく空車であった。
 仙台の第二師団から「徴用」の通知がきたのである。「物品の赤紙」みたいなものである。
 一町民が軍の命令に逆らうことなどは出来るはずもない。男は奥さんから昼食のにぎり飯をもらい出かけたのであった。維新の頃と違っていたのは、阿武隈川、名取川、広瀬川に橋がかかっていたいたことである。だが25kmの道のりは変わらない。男の息子は昭和一桁の生まれなので当時の状況をよく覚えていた。個人で荷車を持っているのは当時としては裕福な家だった。

 日清戦争、日露戦争、太平洋戦争と維新から150年の前半は国をあげての戦争の時代でもあった。
 太平洋戦争は、維新以来かかげてきた「富国強兵」政策の総決算ともいうべきものであったが、完膚なきまでにたたきのめされた。
 その反省もあったのだろう、後半は一転して稀に見る平和国家となったのだから不思議なものである。戦う力が無くなったからとも、また戦地に赴いた人は食料もなく、バカ馬鹿しい戦いをしたものだという深い反省の念に捉われたこともあったのだろう。戦争は虚しいと思った人たちが多くいた。

 ところがトップにいた文官は、責任を感じなかったのであろう。戦時中の大臣が、価値観の一転した戦後において総理大臣になるのだから誰もが驚くと同時は当たり前のこととして通用したところに日本の不思議さがある。

 最後の海軍大将と言われた宮城県出身の「井上成美」は、一身にその責任をとるかのように、戦後はひっそりと生活しその生涯を終えている。当時でも個人個人の考えに大きな差異があった。前者は岸信介で長州の人である。いわば維新の勝ち組、井上は負け組だった。
 昭和33年頃だったろうか、岸首相はアメリカを訪問し、アイゼンハワー大統領とポトマック川でボートに乗った写真が新聞一面に大きく掲載されたのを記憶している。「日米新時代」だと語っていた。
 いみじくも、節目の首相はいずれも長州だと知った。初代は伊藤博文、50年目には桂太郎、100年目は佐藤栄作、150年は安部普三。


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# by watari41 | 2018-04-24 14:58 | Comments(0)

明治150年(1)

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 明治維新から150年である。東北人として、これは率直に「祝うべきことなのか」という論調がある。「維新」という言葉に飾られているが、何のことはない薩摩・長州による暴力革命だったという見方がある。
 「・・何がめでたい」という佐藤愛子さんのベストセラーもあった。年月を重ねることに意義があるわけではない。
 写真は仙台藩主伊達慶邦公が150年前に降伏調印式のため、前日に仙台からこの館まで来たのである。一泊したのは城下の上級武士である石井覚左衛門宅である。
 現代の亘理城には、面白いことに2枚の看板がかかげてある。
 左には「亘理要害跡」(臥牛城跡)、右にあるのは「亘理城址」(仙台伊達藩戊辰戦争終焉の地)と書いてある。
 「要害」の看板は10年ほど前に、道路から見えるところに何の表示もないのがおかしいと、当時の文化財委員会が建立したものである。江戸時代に幕府は全国統制のため、一国一城令を発した。仙台藩だけは例外として2城が認められ、仙台青葉城と片倉小十郎の白石である。それ以外は石高に応じて、要害、館、柵などと名付けられた。
 しかし、この「要害」看板に平成の商工業者が黙っていなかった。亘理より格下の5千石の船岡館が、いまや堂々と船岡城址公園としている。何故「城」という名称を用いなかったのかという論争が起きて、さらに看板をもう一枚、商工会が建立することになったのである。
 亘理は2万4千石を領有していた。仙台伊達62万石は分散支配体制をとり、各地をそれぞれにまかせていた。青葉城の周囲には、江戸城周辺に構える大名屋敷同様に、亘理伊達氏も数万坪の仙台屋敷をもっていた。早朝に出発すると25kmの距離なので、昼頃に到着する。(つづく)

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# by watari41 | 2018-04-18 11:37 | Comments(0)

悪妻

 安部首相夫人「昭恵」さんが歴史的な「悪妻」の地位を獲得しようとしている。名誉なことではない。
 世界三大悪妻は有名だ。ソクラテス、モーツアルト、そしてトルストイの妻である。
 日本にも悪妻と言われる人がいる。有名なのは「北条政子」源頼朝夫人である。源家を滅亡させ、実家に政権をもたらした。しかしし新しい武家政治の始まりである源頼朝を支えた功績がある。
 室町時代には「日野富子」足利義政夫人がいる。戦国時代の始まりである応仁の乱の火付け役であり足利幕府を消滅に導いた。夫である将軍義政は銀閣寺を残した功績がある。だが日野富子は悪妻中の悪妻と言われている。
 次の時代には「淀殿」がいた。知られすぎていて書くまでもない。
 海外では、哲学者や芸術家の奥さんであるが、日本では権力者夫人が多い。
 日本でも文豪夏目漱石夫人の鏡子さんの悪名高いが異論も多い。

 近代政治家夫人には、目立ちたがり屋もいたが、賢夫人と言われる方々が多い、夫の足を引っ張るような人はいなかったように思う。
 安部昭恵さんは公の場に出て自由奔放に振舞っているのを、名だたる官僚たちが忖度してしまった。
 震災後の東北にもやってきて防潮堤の高さを低くしようとする住民運動に賛同したことなどもあり話題を呼んだこともある。

 今回の森友学園には弁明の余地がない。我々もこの一件がなければ、あのように異常な教育を実施している学園の存在を知らなかった。
 戦後70年にしてあのような時代錯誤があるとは思ってもみなかった。籠池さんのペテン師的才能が絡んで、その渦中にはまり、あらざる影響を及ぼしてしまった。
 落ち目の朝日新聞がおそらくは社運をかけたのであろう、あのように徹底した権力との対決姿勢がなければ、事件はうやむやになっていた可能性が高い。
 長期政権には、とかく負の側面が多すぎる。
念のために申し上げておくと、悪女ではない。悪妻である。

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# by watari41 | 2018-03-26 21:01 | Comments(0)

皇帝の必要な中国

 習近平さんが、とうとう皇帝になった。中国は皇帝を必要とする国家なのかもしれない。ラストエンペラーが1912年なので百年ほどの空白があった。
 その間というより、それ以前から西欧列強の侵攻を許していた。1840年代のアヘン戦争でイギリスの近代化された大砲軍艦には勝てずにズタズタにされ、多額の富を搾取された末に、香港・マカオなども百年間の租借という、いわば植民地化されていた。海洋帝国国家のイギリスにとっては十分すぎる成果を得たのであった。

 遅れて近代化に成功した日本は、日清戦争に勝って多額の賠償金を得て、より一層の軍需産業にまい進して、朝鮮の併合とさらには中国本土へと侵攻して、日米開戦となりその結果はご存知の如くである。

 中国は19世紀にイギリスに痛めつけられたのであるが、より最近の20世紀の出来事である日本に対しての記憶がまだ冷めやらない。

 巨大な国家を統治するには,皇帝が必要なことは2千年前にローマ皇帝カエサルが示した。それ以前のローマは現在でいう共和制に近い。しかしカエサルはルビコン川を渡ったで表現されるようなことで軍隊を首都に入れて、投票の結果とはいえ事実上の皇帝となった。歴史で教えるのは、アウグスティスが初代であるが、カエサルがその礎を作った。それを強固にしたのは、クレオパトラと組んだアントニウスを、名目上の指揮官ではあったがカエサルの養子だったアウグスティスの功績とされたからである。
 カエサルは弟子でもある共和政派のブルータスに暗殺されたことは誰でも知っている。
 習近平さんが今後どうなるかは誰にもわからない。しかしチベット人を大弾圧しているのは許しがたいことだ。
 

 

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# by watari41 | 2018-03-15 14:54 | Comments(0)