先日、我が町の中央公民館で標記の記念式典があった。
 なんで、こんな田舎町でイスラエル大使・公使などが来訪して式典が開かれるのか不思議に思われるだろう。町内会長など招待を受けた町の名士も多い。筆者もその一人である。
 舞台には、保育所の児童100名以上が並んでいた。最初に両国国歌の斉唱が児童によって歌われ式典が始まった。

 大震災がきっかけであった。震災の4日後に「セリアさん」という在日インドネシア人女性がボランティアとして我が町に来たのである。もともとイスラエル大使館と親交のあった方で、親善大使という肩書をもっていた。
 当時は原発の爆発が次々と起こり、東京からこの町にくるのは極めて危険な状況で、大反対を受けたがセリアさんの意思でやってきた。
 セリアさんは、そのような大混乱の状況では児童の心のケアが何よりも重要だと知った方なのである。最初に始めたのが保育士への指導だった。これまで述べ百名以上もの実績があるらしい。その資金援助をしたのがイスラエル大使館なのである。それで招待者の中には事態が飲み込めた人も多かったようだ。

 震災直後には、沢山のボランティアが我が町にも来ていただいた。そのなかで国家とのつながりができたのは珍しいことであろう。そのためもあってか、復興省やオリンピック担当省から2020年の東京オリンピックでは我が町はホストタウンの一つに選ばれたのである。イスラエルの選手宿舎が出来ることになる。今年になってから町長と職員がイスラエルに出張してその協定書を結んできた。

 イスラエルには誰もが知っている受難の歴史がある。ユダヤ人の国家なのだ。2千年も前の西暦70年にローマ帝国に攻められて滅ばされた。最後の砦には1千名もの人が城を枕に討ち死にした。歴史上最初の集団自決とされる。領土を占領されユダヤ民族は世界各地に散った。13の部族があり、そのうちの一つが行方不明で日本へ流れついているとの伝説もあるくらいだ。

 ユダヤ人は世界各地で生き延びるために懸命に頑張ったのだろう。富で世界を支配すると言われるロスチャイルド家、歴史的物理学者アインシュタインなどなど。ユダヤ人は世界各地で存在感を示している。
 しかし建国わずか70年なのである。

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# by watari41 | 2018-10-13 13:05 | Comments(0)

「帝国」日本(9:終)

 だらだらと長いシリーズになってしまった。
 丁度一年程前にNHKラジオ放送番組で平川先生の講演があった、(一時間)
 そこで、ご自身の経歴を語っていた。九州久留米市の中学校を卒業すると高校にはゆかずに郷里の偉人が創業したブリジストンの東京工場に就職した。
 平川さんの家が貧しかったというわけではない。日本は高度成長期にも入る頃なので本人の意思というきわめて珍しい話である。定時制高校に通い、法制大学の夜間を卒業して、その間に新聞記者なども経験したようだ。30歳頃になって、ようやく東北大学大学院に入る。卒業後には大学の助手を経て、東北大学教授となる。同大学の東南アジア研究所長を定年後に宮城学院女子大学学長となった。
 このように他の研究者とは異なる道を辿ったので、現場主義がきわめて強いのだとおっしゃる。
 紹介した近刊「戦国日本と大航海時代、秀吉・家康・政宗の外交戦略」副題:日本なぜスペインの植民地にならなかったのかは、朝日新聞にも大きく取り上げられ話題をよんだ。参考文献がただごとではない。聞いたこともなかった戦国時代の外国との交渉記録がたくさんある。説得力のある著作なのだ。

 
  平川先生とは関係なくなるが、歴史に興味を持つ一人として、古代日本を知るには中国や朝鮮の文献に頼るしかない。誰でも知っているようなことだが、西暦240年頃の「魏志倭人伝」に登場する「卑弥呼」、西暦400年頃の朝鮮高句麗の英雄的王である「好大王碑」の文に倭国が百済と結び新羅を攻めたので、助けを求められたので大王はこれを打ち破ったとある。
 この頃の日本は応神天皇の時代とされ、南朝鮮を蚕食し現在の釜山あたりに「任那」日本府があったとされる。慶州には前方後円墳があり、これまで朝鮮経由で日本に来たと思われていたが、逆ではないのかとも推測される。
 それから300年近く過ぎて663年天智天皇の時代に、百済が攻められて日本に応援を求めてきたので、大船団を派遣したが惨敗した「白村江」の戦いがあった。

 延長戦になりそうなので打ち止めにする。


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# by watari41 | 2018-10-08 14:32 | Comments(0)

「帝国」日本(8)

 昔から人間は海に出る事を怖がってはいない。海の向うに大きな可能性を見出していたからである。
 平泉金色堂の柱に見事な螺鈿(らでん)がある。使われている大きな夜光貝は、沖縄以南の海洋にしか存在しないといわれる。
 つまりは、平泉政権が直接に秋田の港から船を出して東南アジアに乗り出していたのか、あるいは九州、京都などから手に入れていたのだろうか。どちらなのかはわからない。しかし、このような螺鈿は平泉にしか無いことから、直接東南アジアから手に入れていたとする方が納得性がある。
 当時は勃興期にあったカンボジアのアンコールワット政権と交流があったのか、あるいはインドネシアのジャワ島に栄えたボロブドゥール政権の末裔と関係があったのかもしれない。いずれも仏教で一大繁栄を遂げている。

 徳川政権に至る頃には、仏教は日本人の体に染み込んだが、キリスト教にはなじまないというか、日本が征服される恐れを抱いてしまった。
 仏教もそもそもは、聖徳太子の頃にそれまで存在していた神道が、かなりいかがわしくなってきていたので、仏教による国家を作ろうとしたのがそもそもの始まりとされる。現在も残る法隆寺をはじめ、百年後には奈良の都に東大寺など立派な寺々ができた。現在の葬式を司る寺ではなくて学問所としての寺である。空海・最澄・円仁・徳一大師などの日本仏教の始祖とされる巨人が出て国家の基礎が確立した。

 しかし200年ほど過ぎた平安末期になると、これら偉人たちの賞味期限が過ぎてしまったのか、法然・親鸞・日蓮などの新興勢力が出て来て一般大衆に普及するようになる。丁度この時期に撹拌大師が出て空海を見直すのである。真言宗も立派に大衆化できるものであるとして、全国に広げた。そうでなかったら、空海は高野山に埋没した地域密教になったであろうと言われている。

 仏教勢力も軍事力をもった。平清盛の時代に奈良寺院の仏僧が力を持った。これを嫌った平氏一門の平重衡は、奈良の巨大寺院をことごとく焼き打ちしてしまった。鎌倉時代になり東大寺大仏殿などが再建された。

 比叡山も力を持ち、織田信長がことごとく焼き払ったのは誰でも知っている。徳川家康に至り仏教勢力を完全に封じ込めた。
 鎖国はしたが日本は「帝国」としての存在感を示していた。

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# by watari41 | 2018-10-02 17:18 | Comments(0)

「帝国」日本(7)

 平川先生の本から、すっかり脱線してしまったが筆者の話を続けることにする。
 大航海時代のマゼランやバスコ・ダ・ガマなど西欧人の活躍は、良く知られているが同時代に「明国」もまた東南アジア・アフリカを中心に大船を出している。アメリカ東海岸にコロンブスが到着した頃に、「明」の船がカナダに着いたとの説もある。木造の古船が発掘されたことがあった。
 大モンゴル(元)帝国を滅ぼし、それを引き継いだ「明国」は、陸上では当時世界最強だったようだ。
 その後に出来た「清国」も西欧列強より「眠れる獅子」として恐れられてきたが、産業革命に乗り遅れ、1840年のアヘン戦争で脆くも敗れてしまう。
 日本は古代より、支配者が中国皇帝へ朝貢して「王に封じる」ということで満足してきた。これを崩したのが「北条時宗」で果敢に闘い、日本がこの時から独立したということになるのだろう。
 織田信長は、アフリカの黒人を家来にしたという記録があり、伊達政宗は西欧の白人女性を愛人とした最初の日本人とも言われている。いずれも宣教師によるご機嫌伺いの「献上品」のようだ。ただ記録によれば信長配下のアフリカ人は戦場でも大活躍している。(信長公記やそのアフリカ人を探しにマダカスカルへ出かけた民法テレビ番組もあった。)

 世界の歴史は、16世紀に覇をとなえたスペイン(イスパニア)から次第にイギリスが7つの海を支配するようになる。スペインが最後まで植民地としていたのは、フィリッピンとカリブ海のキューバなどわずかなものになった。

 アメリカが軍事面で外に乗り出すようになったのは、ずっと後のことになる。第5代大統領のモンロー主義(1823年)により、外国の干渉も受けず、干渉もしないというものだった。
 しかし内戦である南北戦争(1860~65)などもあり、実力のついた軍は対外姿勢も次第に強行なものとなってゆく。
 1898年には、フィリピンやキューバなどでおこっていた独立戦争にアメリカが加担して、米・西戦争とされるものが起きる。最初にアメリカ軍艦に攻撃したのはスペインで、アメリカ世論が喚起された。しかし実力はあまりに違いすぎ、米軍のほぼ一撃でスペインは敗退した。(このあたり1941年の日米開戦と似たような話である、ただ大日本帝国は多大の損害を出しながら長期に戦った。)
 フィリッピンは独立を果たしたかにみえたが、アメリカの保護領となった。

 「明」も「清」も、当時はフィリピンを軍事力で征服することはなかったが、制海権があったと主張しているのが、現在の習近平政権が唱える、東シナ海の九段線と称するフィリッピンやベトナムの領海を通る不可思議なものなのである。

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# by watari41 | 2018-09-26 20:43 | Comments(0)

「帝国」日本(6)

 秀吉の時代、貿易と外交は大名が独自に行えた。
 足利将軍の室町時代初期に全国を統制できたことがあったが、戦国時代になるともはや自由になった。特に九州の諸大名は独自に船を出し交易していた。ヨーロッパに渡る拠点港であるマカオやインドのポンペイ、アフリカ西岸の港には、驚くほど多数の日本人がいたとされる。一説には貿易時の代金のかわりに奴隷として売られたのだという。特に若い女性が高く売れたらしい。

 鎖国によって、これらの人々は海外に取り残されてしまう。その子孫は当然残っているはずだ。スペインに支倉常長の随員が帰国せずに留まり、今も日本を示すハポンさんという姓が有る如く、アジア・アフリカ一帯に広がっているはずだ。
 タイで山田長政が活躍しその墓があることで有名だが、アンコールワットにも日本語の落書きが見つかったことがある。400年前の観光客か?

 日本は400年前には、世界に広く知られた存在だった。キリスト化したいくつかの大名は日本の王として振舞っていた。明(中国)と並ぶ「帝国」としての存在感をもっていた。そのことを信長の時代にフロイスから知らされた。秀吉も意識して行動した。周辺国を属国化しようとして、書簡を送っている。琉球、台湾、フィリピンなどへである。特にスペインが属国としていたフィリピン総督は恐怖心を持った。500人の守備隊しか連れてきていない。総督は丁重な断りの手紙を送ってきた。大名のなかには、独自にフィリピンを占領しようとして80漕の軍船をだしたが、悪天候にはばまれ引き返した例もある。

 秀吉は「明」を対等な帝国として、これを征服しようと考えたようだ。征服後には現在の上海に近い寧波に都を移し天皇を住まわせて、東南アジア一帯ににらみをきかせ、日本には秀頼を置き、自分は天竺(現在のインド)を攻めようという構想を持っていた。
 現実には30万人の軍を動かしたが、朝鮮と満州の国境を超える事ができなかった。「明」軍の応援部隊が入ってきたためである。秀吉の死後に実権を握った家康が明国と和議を結び撤退をさせた。

 このような情勢も日本に来ている宣教師を通じて、逐一本国であるスペインに送られていた。日本は軍事大国であるとして一目も二目もおかれていたのである。スペインの勢いにも陰りが出てきた。1588年に無敵を誇った艦隊がイギリスに敗れたのである。
 スペインは方向転換して、貿易とキリスト経による日本制圧へと舵を切った。家康は宗教を恐れた。若い頃に三河での一向一揆にてこずり、信長、秀吉時代の本願寺との戦いに苦戦したことが頭にある。
 キリストを禁じると共に、日本国内ではお寺による檀家制度を設けた。国内統治の知られざる一面であろう。

 

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# by watari41 | 2018-09-19 16:36 | Comments(0)

「帝国」日本(5)

 話を再び江戸時代初期に戻すと、家康の政宗に対する警戒感は相当なものだった。
 関ヶ原合戦では、東軍について100万石というお墨付きまでもらったが、ささいなことにケチをつけられて、62万石止まりに終わってしまった。信長の後は秀吉、そのあとは家康と、天下人が死ぬと次の実力者に変わる事を家康は身をもって体験している。

 家康は六男忠輝に政宗の娘「いろは姫」を迎えているが、これがまた忠輝自身が将軍への野望を持つことになってしまった。政宗をバックにすれば可能だと思ったのである。
 1615年の大阪の陣では、政宗軍が敵の勇将後藤又兵衛を打ち取るなど手柄を上げていたが、忠輝は大名としての参陣が遅れてしまった。大阪にとどまった家康からきびしい詰問を受けて、そのいいわけに政宗謀反のことを口にした。忠輝からの話なので誠かもしれないと思い用心深い家康は半信半疑ながら秀忠へ仙台への出陣準備を申しつけた。秀忠は全国の徳川方の大名に書状を送った。その一つが細川藩に残っている。結局は忠輝のウソだということが判明し、事件とはならなかったが、忠輝は大名を改易され、悲惨な最期をとげた。

 翌1616年、家康の臨終が近いことを、側室で政宗に好意を持っていたお勝の方が早馬で知らせてくれた。駿府に駆けつけるべきか否かを迷っていた。政宗側近は暗殺の危険もありと反対が多かったが行く事を決めた。結果的には幸いだった。
 家康から、お前は信用できる男だ。これからの秀忠をよろしく頼むと願い死んだ。秀忠は貿易を諦め、キリスト教の入ることを防ぐことに傾注した。いわゆる鎖国である。長崎にのみオランダの窓口を開いた。
 そんなこんなもあって、それから4年後の1620年に支倉常長がキリシタンとなって戻ってきたときには、もはや政宗とて禁教令に反することはできない。支倉常長キリシタンを認めれば、本当の謀反となってしまう。秀忠の幕府が集める全国からの軍勢に勝てる見込みはない。

 政宗は、支倉を田舎のどこかでひっそりと暮らすようにしたはずだ。まためくらましのために、支倉は帰国後にすぐ死んだことにして、宮城県内の5ケ所ほどに墓を作った。筆者も3ケ所はみている。

 支倉の奥州王家臣としてヨーロッパでの堂々たる態度は、「帝国日本」を印象づけることにも役だったのであろう。

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# by watari41 | 2018-09-14 12:48 | Comments(0)

「帝国」日本(4)

 話を江戸時代から、いきなり現代に飛ばしてしまい恐縮だが、1945年米軍のマッカーサー元帥は「大日本帝国」を軍事制圧し占領した。
 かつてアステカ帝国を占領したスペインが、宣教師を後に連れてきたように、元帥は占領した日本人が再び戦争をしないようにするために、全国民を「キリスト教徒」にしてしまうという、壮大な計画を立てて実行に移した。元帥は16世紀時代の野心に飛んだ人間とは異なり、敬虔なクリチャンであった。軍人でありながら平和主義者だったといわれる。

 終戦直後の日本は極端な紙不足だったにもかかわらず、一千万部という膨大な聖書を印刷して配布し、さらに3千人もの宣教師を送らせたのである。まずは天皇からキリスト教徒にしなければと、お付きの従者を改宗させた。また都合のよいことに片山内閣が誕生した。片山首相はキリスト教徒だったのである。この首班指名にもマッカーサーが干渉したのかもしれない。だが片山内閣はわずかしか持たなかった。戦前にも日本には何万人かのキリスト教徒がいたとされる。だが、アメリカから送りこまれた宣教師は「上から目線」だったとされ、日本人改宗計画の大きな失敗要因になったのだろう。
 
 皇太子(平成天皇)にも、その教育が必要だとバイニング婦人を家庭教師につけたのである。
 このような状況を見ていた日本人でイギリス大使や外相も務めた吉田茂は、元帥には平身低頭して仕え、信任を得てゆき首相となるのである。吉田は米軍占領下では何事も出来ないことを知っていた。日本人として「臣茂」と称していたごとく大かたの人々と同様に天皇を尊敬していたのである。吉田も内々では、キリスト化などは無理と思っていたようだ。しかし、そんなことはおくびにも出さず、私が首相になることをお許しいただけるでしょうかというような書面を元帥に出し許可を受けて戦後3代目になる第一次吉田内閣を作る。それまでは東久邇宮、幣原内閣といずれも短命内閣だった。吉田もこの時は一年で終わる。

 現憲法草案の時にも、いちはやく吉田はそれを見せられたという。そしていやがる日本人を説き伏せる役も引き受けた。GHQ憲法に反対なら天皇を東京裁判にかけるとも言われたようだ。マッカーサーは日本が再軍備することを嫌がった。第一次大戦後のドイツが不死鳥のようによみがえり第二次大戦では屈強なナチス軍になった前例がある。
 しかし、現憲法はマ元帥の大失敗作とされる。まもなく起こった朝鮮戦争に日本人を使えなくなったからである。元帥はアメリカ議会に喚問され、どうしてああいう憲法を押し付けて、精強だったはずの元日本軍人を使えなくしたのかと責められた。
 元帥は、やむなく、あれはみじめな敗戦を経験し平和を希求する、戦後最初の民間人首相だった幣原氏の提案だったと逃げたのである。
 そのお陰で、日本人はベトナム戦争にも参戦することはなかった。

 大失敗を知った元帥は、朝鮮戦争で釜山が陥落寸前まで、追い込まれた時に毛沢東の人民解放軍が,海を渡り日本に押し寄せることを恐れ、第二次吉田内閣に命じて数万人規模の警察予備隊を募集した。(後に自衛隊となる)・・・本筋からそれてしまった。

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# by watari41 | 2018-09-07 17:12 | Comments(0)

「帝国」日本(3)

 1613年、支倉常長がサンファンバウチスタ号で出航できたのは、ギリギリのタイミングだった。
 徳川家康は、貿易の夢をなかなか捨てきれないでいた。東北どころか江戸湾にも外国船が入ってきていなかった。仙台に貿易船が来るのであれば当然江戸にも来る。政宗も家康も利益を得ることになるからだ。

 しかし、家康は政宗への警戒心を捨てていなかったのも事実である。大阪には当時、豊臣秀頼がいてあなどりがたい勢力を確保し続けていた。これに政宗が加担するとなれば相当に厄介なことになる。
 ここはひとつ、政宗に恩を売っておこうと思ったようだ。その2年後に家康は秀頼討伐の軍を上げたのである。大阪方で建設した鐘楼にケチをつけて軍事衝突するように仕向けたのである。「国家安康」と刻んだ文字が家康の名前を分断する不吉なものだという、言いがかりをつけた。あまりにも有名な話である。大阪方にはキリシタン浪人が多数集まった。これらを一挙に軍事制圧したのである。

 一方、常長の出向に当たっては宣教師「ソテロ」は様々な工作をした。彼は西欧の事情に詳しいのであるから仕事がしやすい。向うでは日本を帝国とみなし、家康が皇帝であり、政宗が「奥州王」として通用する十分な下地があった。
 したがって「奥州王」がスペイン王や、ローマ教皇に親書を送るのは一向に差し支えないということになる。和紙に金粉をまぶした黄金にかがやく政宗の書状が残っている。

 キリシタンの禁教は、政宗だって十分に承知している。それを踏まえて、貿易と同時に宣教師を派遣してほしいという書簡である。
 政宗はうまくすれば、仙台藩を現在でいう「特区」みたいにしたいと考えたのかもしれない。日本の中では仙台にだけキリスト教を認め同時に貿易もできるというものである。家康だって江戸の周辺に特区を作る計画があったのかもしれない。
 「ソテロ」は、この計画が実現すれば日本での「大司教」になれることを夢見ていたようだ。3者3様の思惑を乗せて、常長、ソテロそして故国に帰るビスカイノと共に船出した。

 (昭和50年頃の頃だった。常長の壮挙を詳細に研究している学者がいて、東北大での講演を聞きに行ったことがある。その方の研究によれば、出港当日、石巻市「月の浦」は、海底の深度、潮の干満からみて、午前5時でなければならず、その日は大潮であったことを突き止めたと聞いて小生は感嘆に絶えなかった記憶がある:このブログで前に書いたことがあるかもしれない)

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# by watari41 | 2018-09-02 11:03 | Comments(0)

「帝国」日本(2)

 豊臣秀吉や徳川家康は「貿易」に多大な関心を持っていた。各大名も同様だった。莫大な利益を生じたからである。外国の品物と日本の産物を交換する。外国産品は珍しくて国内では高価に買われた。
 ただし、キリスト教は駄目だといった。
 九州の諸大名は、領主自らがキリスト者となり、日本の将軍配下ではなく、ローマ教皇配下の如くになるのが顕著になってきた。
 スペインがこれら大名に一声をかけて、教皇の指令だとして蜂起させれば、武力強国日本をたちまちに占領できると考えたのである。

 したがって、貿易は宣教師を送ることと同時でなければいけないと迫ってくる。日本側は貿易はやりたいが、キリスト教は困るとして、駆け引きが続くことになる。それまで、すでに国内に入ってしまった宣教師で、目に余るものは処刑するとしたのが、秀吉時代の26人の殉教者とされる方々である。16世紀は海外の状況が逐一日本の権力者にも届く時代になっていた。

 スペインが侵攻した南米のアステカ王国や他の諸国も、一族が虐殺された上に多大な財宝が奪われた。ここではキリスト教の布教前に簡単に武力制圧ができた。圧倒的な軍事力の差があったからだ。占領した後から宣教師を送っている。
 ましてや、日本はマルコポーロ(13世紀)の時代から「黄金国」とも言われている。西欧諸国からみればこれ以上に魅力的な国はない。
 偶然にもスペイン高官だったビスカイノ総督がフィリピンから当時のスペイン領であったメキシコに向かう途中で、船が房総半島沖で遭難して、日本に打ち上げられ総督は家康と面会することになる。総督の江戸滞在中に伊達政宗などとも接触があったというのである。ビスカイノは、家康が貿易志向だったのを知っていたので、東北に良港を見つけるためとして太平洋岸の測量を申し出た。家康了解のもとに、三陸沖にいたビスカイノの船が航行中に、江戸初期の大震災とも言われる1611年の大津波に遭遇するということがあった。今回の大震災で、ビスカイノの記録が改めて認識されたのだった。

 伊達政宗は、地理的関係もあり海外貿易には最も出遅れていた。なんとか出来ないかと考えていたときに、天才的というか山師的な宣教師である「ソテロ」から願っても無い申し出を受けた。(このあたりは、遠藤周作氏の小説にくわしい記述がある)

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# by watari41 | 2018-08-28 12:09 | Comments(0)

「帝国」日本(1)

 戦時中の大日本帝国の話ではなく、400年前に日本は欧州から「帝国」とされていたのだから面白い。
 500百年前の戦国時代の日本は各地での争いが続いた結果、当時の世界では最強の軍事国家になっていたようだ。
 織田信長の時代に日本にやってきた宣教師ルイス・フロイスは、天下を制圧しつつあった信長が実施した十万騎の馬揃えというのを見学している。世界広しといえども、こんなことをやれる国はない。
 その後に天下統一をはたした豊臣秀吉は、30万の軍勢を朝鮮に送った。当時の明王朝を征服する陣を九州にはっていた。
 フロイスは、日本は帝国であるとすとレポートを送った。

 当時の帝国といえば、神聖ローマ帝国しかなかった時代である。スペイン・ポルトガル王は、そのなかの一人でしかない。
 そんな時代背景をもとに書かれた新刊が、著者:平川新(宮城学院女子大学学長) 中公新書 2018年4月25日初版 900円
 「戦国日本と大航海時代」平川先生は、東北大の東南アジア研究所長、国際災害科学研究所長などをへて現職にある。

 日本の戦国時代を少し遡るとコロンブスが1492年にアメリカを発見した。その後アフリカ南端の喜望峰回りや、南米のマゼラン海峡発見によって、1500年代は世界一周の大航海が可能になったのである。
 時、あたかも欧州では、マルチン・ルターによる宗教改革が勢いを増して、イギリス、オランダなど新教の国家が増えつつあり、ローマ教皇は危機感を強めつつあった。その時に軍事力があり、まだ旧教の国家だったスペイン(イスパニア)とポルトガルに教皇は条約を結んだ。世界の半分づつを両国に与える。領地の切り取りや植民地化は自由とする。その代わりに旧教を広めよということである。
 大まかには南北アメリカは、スペインに中東からインドはポルトガルといった具合である。フィリピンはスペインが占領したが、日本はその境界線上のようだった。どちらにも権利ありということで両者がやってきていた。
 領地獲得と旧教布教が一体ものだった。植民地化したところには宣教師を置いた。だが先にa0021554_12162421.jpg宗教で人々の心を掴んでしまうと、軍事占領はやりやすかった。

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# by watari41 | 2018-08-23 17:07 | Comments(0)

ご支援のお願い

 私は今年から敬老会の仲間入りです。(年寄りの冷や水というのかもしれませんが)町内の各種活動に今だ顔を出している。
 20くらいの役職を抱えている。
その一つが亘理町を「被災地から熱気球のまちへ」というものである。

https://readyfor.jp/projects/watari-gbp

このURLをドラックしてなぞり青くして、右クリックすると、そのなかに上記のページに「移動」するという文字が
あるので、そこを左クリックすると、募金のページへと飛んでゆく。

 3千円からである。老人にはきついかもしれない。
 目標金額はかなり高いが、事務局が頑張っている。

 多少、ややこしい操作ではあるが挑戦してみてはいかがでしょうか。
 目標金額をクリアーできない時は、全額が個人に返還されるという仕組みである。
 「クラウドファウンティング」という言葉を聞いたことがある方々も多いであろう。

 パソコンやスマホの操作訓練として、いじってみてはいかがでしょうか。
 今現在の時点で、集まっている金額がリアルタイムで表示される。

 「レディフォー」(readyfo)という組織が、各種団体からの依頼を受けてインターネット上で、
必要な資金を集めるのである。もちろんreadyfoは手数料で稼いでいる。

 どんな団体が、どんな名目で、どの程度の資金を集めているのかも、眺めてみるとよいでしょう。
 小生の所属する団体名は「わたりグリーンプロジェクト」といい、津波で失われた海岸林の再生が
主たる目的で、ここより派生した「熱気球など」種々の事業も行っている。

 URLから見ていただくとわかりますが、理事長をやっている男は、小生が在職しでた会社で10年ほどの後輩である。
 亘理町の海岸地帯に自宅をもうけたが3.11大震災で被害を受けた。
 この事業を興すに当たり、先輩も手伝っていただきたいといわれば、一肌と言わないまでも、半肌くらいはぬがないといけない。

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# by watari41 | 2018-08-04 17:33 | Comments(0)