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世界遺産の古墳

 「通称:仁徳天皇陵」などは、とっくの昔に世界遺産だと思っていた。
 数年前に実物をみたことがあった。堺市にかつてクラスメイトだった根性君と呼ばれた男がすんでいる。案内してもらった。生きているうちに一度は見たいと思っていた。聞きしに勝る巨大なものである。途中の車中で聞かせてもらった彼の一生も面白いものだった。巨大製鉄会社に勤務した後の関連会社である電気会社などの思い出話は彼の本領を発揮していかんないものである。大きな自宅も奥さんのお陰で所有するに至った。敬虔なクリスチャンである美貌の奥さんと教会で知り合った。50年前には結婚式の案内状をもらったことを思い出した。彼は俺もキリスト教徒なんだよというが、何かが違うと思うのは学校時代を知っているからなのかもしれない。2018年の関西空港に大打撃を与えた台風は彼の屋敷にある大きな木も折ってしまったようだ。

 話を世界遺産に戻すと正確には、誰の陵墓なのかはわからない。はっきりしているのは、当時すでにそれだけの土木技術が存在していたということである。全国各地に同様な陵墓が存在するので、確かな設計図があったにちがいない。西暦300年頃である。その少し前には卑弥呼がいた。いずれどこかで陵墓の図面が発見されるのだろうと思っている。我が町にも全長40m足らずの小さなものだが前方後円墳が存在している。
 
 その昔に盗掘されて金目のものはなくなっているのだろうが、陵墓全体にわたる広大な面積の自然は当時のままに残されていると考えられる。明治以降の150年は特に天皇陵墓とされるところは、立ち入り禁止となっているのでどんな世界になっているのか興味がある。それこそドローンでも飛ばして調べられないものかと思う。大蛇がいるとの説もある。それなりの生態系があるのだろう。考古学的な意味合いも大きいのだろうが、それ以外にもいろんな不思議が詰まっているにちがいない。ピラミッドみたいに、重力を支えるような構造的な仕組みや、内部空間が至るところにあるのかもしれない。堀を掘削して盛土したにしてはボリュームが大きすぎる。

 仙台空港のある名取市には雷神山古墳という200mに近いものがある。後世にはその大王にあやかろうと、一部が墓地として開発された。しかし現代に至り既に作ってしまったものは仕方がないが、以降は禁止となり全体が公園整備された。数十もの墓が古墳の上にあるのが奇妙な光景となっている。



# by watari41 | 2019-05-17 16:59 | Comments(2)

風水

 人口3万人足らずの我が町にドラッグストアが4店もある。そのうちの2店は最近になって開店した。
 2系統の大手チェーンの店がそれぞれに前からあったものと、最近になってできたものとである。対抗心が強いのであろう。最後にできた店の場所は、どうみても「風水」が良くないところなのである。私はもちろん占いなどはできない。その場所は国道沿いで立地条件は申し分がないところなのだが、そこにできた店舗は10年と持ちこたえたところがなく、いずれも撤退している。いろんな店があった。果物屋、ヤーメン屋、蕎麦屋、ホームセンター、スーパーなど、新しい店が出来るといつまで続くのかと話題になる。スーパーは最初のうちは評判がよかった。しかし、過信があったのかもしれない、閉店の理由は魚の鮮度が落ちて客足が遠のいたというのである。そのスーパーの売りは鮮度の良い魚が安く買えたということだった。自滅したのである。場所に見放されたかに見える。

 その場所は「風水が悪い」などとは誰も言ってはいない。しかし、そのような閉店が連続して起こるのは何かがあるのだろう。風水に科学的な根拠があるわけではもちろんない。おそらくは昔からの経験則がそのように言わせているのだろう。
 似たような話に鬼門に神社を置くなどというのもそのようなことであろう。仙台では国宝の大崎八幡宮がそうだとされる。神社を置く事で風水が改善されるのだとか。

 京都が街全体として風水が良く千年の都を保ち得たとされる。風水の理にかなっているそうだ。桓武天皇の時代であるが、その前に長岡京とか転々と都を移したが、伝染病などの流行で移転せざるを得なかったとされる。

 我が町では、最近開店したコンビニが大繁盛している。前々からそれは予測されていたというのだ。全国展開している最大手なのだから経験上わかるのであろう。道路の配置とか場所柄がほぼ外れることなく当たるようになったのだろう。占師がみてもそうなるのだろうが、今や統計学がそれに変わっている。
 それにしても、現代に生きる科学的なはずの我々にも悪い場所の理由がなかなか見つからない。



 

# by watari41 | 2019-05-08 22:04 | Comments(0)

小出義雄さん

 名選手、必ずしも名監督にはならずということがある。
 逆に名監督だった人が、過去にたいした選手ではなかったこともある。小出義雄さんは、日本史上最高の女子マラソン監督と称えられることであろう。

 まだ有名にはならなった頃、さる地方の旅館に泊まった時に小出義雄さんの宿帳をみた宿主が、大変にいい名前をお持ちだ。将来はきっと大きな仕事をするにちがいないと言われたそうだ。このことはずっと後年に有森選手がオリンピックでメダルを取ってから、本人が記者に語り記事になったものを読んだ記憶がある。
 熱血指導の様子は、到底凡人にできるものではない。素質を見込み鍛えられるだけの根性をもった選手でなければ指導に堪えられない。高橋尚子さんなど良い選手に恵まれたともいえる。
 姓名判断が当たったということになるのだろう。占いというのも馬鹿にできないことがある。
 筆者の同性同名者等は単純なこともあり全国に数千人もいるのではないかと思う。いまだ有名になった人を聞かない。

 最近では、箱根駅伝の青山学院大学原監督が何度も同大学を優勝させて、名指導者であることを世に知らしめた。同じようなことを誰がやっても成功するわけではない。
 指導者の情熱とか、人間性とかさらには運という特殊なものまでが作用することになる。

 このところ注目しているのは、楽天イーグルスの平石監督である。則本、岸のエースピッチャーが抜けて戦力が落ちているにもかかわらず結構な成績をのこしている。名監督と言われるようになるには選手も期待にこたえる必要がある、今シーズンのイーグルスに望みをかけている。
 解説者がときどき「試合の流れ」という非科学的なことをおっしゃることが多くなってきた。いわば運なのであろう。何事にもつきまとうが、流れを引き寄せるのも名監督の素質の一つなのだろう。平石さん頑張ってほしいものだ。

# by watari41 | 2019-04-29 18:03 | Comments(0)

「仙台都」構想

 東京一極集中の是正が言われて久しいが、一向に止まらないのは、地方の力が弱いからに他ならない。
 大阪都構想というのは、その意味で正しい。
 しかし、これを言うのが革新勢力なら話がわかるが、右派勢力がこれを唱えているところが複雑だ。人間関係のからみとか利害関係があって、制度を見直すというのは大変なことだ。
 東京が都としてまとまっているのに、弱体の地方がバラバラでは勝負にならない。大阪ひいては関西の地盤低下が叫ばれたのはもう半世紀以上も前のことである。その頃に私も滞在していたのでよくわかる。
 だが大阪市は、大阪府の人口比率で30%程度しかないので、市が中心になると言ってもなかなか大変である。

 これに比べると仙台は宮城県人口の50%近くを占めており、こちらの方がやりやすいはずだが、誰も言いださない。面積の広いことがあるからかもしれない。仙台への集中が起こっている。
 行政に素人の私などは、仙台中心街に行くといつも不思議に思っていたものだ。県庁と市役所がいくらも離れておらず議会もある。田舎から出かけて行くと何がどう違うのかもさっぱりわからなかった。無駄な事この上ないとも思っていたものだ。

 宮城県よりも仙台の方が、全国的な知名度ははるかに高い。昔は仙台藩として一つにまとまっていたことにもよるのだろう。しかし当時を知る人が死に絶えてもなおかつ、仙台という名前に魅力がある。宮城と宮崎県が間違いやすい。もともとあった仙台近郊の宮城郡をそのまま県の名前にしたようだ。その宮城のルーツを辿った人がいて、仙台郷土史に書いていた。千葉県の昔にあった今はないのだが宮城地域からやってきた人たちが始めらしいのだ。そんなことはどうでもよいのだが、地方が力を持つ仕組みを作るのが先決だと思う。
 かつて道州制度が唱えられたが、経験のない過去になかったことをやるのは難しい。一過性の騒ぎに終わってしまったことがる。
 仙台藩への郷愁もあって、「仙台都」は案外にうまくいくのではないのかと思っているが、たわごとにすぎないのだろうか。

# by watari41 | 2019-04-24 16:17 | Comments(0)

思い入れ

 大震災で居住禁止区域となった。我が町の海岸一帯に、日本最大級の太陽光発電所ができつつある。
 昨年、その工事中に、人骨が発見された。行方不明になった方の一人ではないのかと思われたが、調査の結果、600年前の室町時代の女性であるとされた(推定年齢20~30代)

 一時期は話題になったが、忘れてしまっていた。
 数日前に、町内に居住する被災者の一人でもある男が訪ねてきた。私が多少郷土史に詳しいと聞いてきたのでということだった。初対面ではあったのだが、彼はその一族の家系調査マニアとして有名だという。昔からの文書は津波でなくなってしまったが、その後調査を続けているということで、詳細なノートを持っていた。あまりにも本気なので親戚からは、アンタ、ノーベル賞でも取る気なのかとからかわれているのだとか。
 その男曰く、室町時代に、その海岸一帯に住んでいたのは自分の家を含めて5軒しかなかったはずなので、見つかった遺体は、もしかすると先祖のものではなかろうかと、警察まで確認に行ってきたというのだから驚くしかない。人骨は普通は土の中で消滅してしまうものだが、条件がよいと残る場合がある。
 我が町以外でも、復興工事中にみつかったものがある。東松島では、縄文時代と推定される津波から逃げる途中の子供を抱いた状態の人骨が発見されたり、堤防の基礎を掘り下げて出てきた骨が江戸時代だったりといろいろある。
 我が町で室町時代の骨を特定しようとしている男は、私に古文書関連で、その時代のことを知る手がかりはないのかとやってきたのである。
 中世である当時は、この辺りを支配していた殿様である武石氏の墓でさえ、未だにどこにあるのかがわかってはいない。

 私は知っているはずもない。ただその男の情熱というか、思い入れは伝わってきた。
 DNA鑑定でも頼んでみたらと言ったら、30代以上も遡ると養子をもらったり、何やかんやでわからなくなるとか。


# by watari41 | 2019-04-19 13:27 | Comments(0)
 台湾で忘れられない人に「鄭成功」(テイセイコウ)がいる。明王朝末期の将軍で、日本では江戸時代初期に当たる。
 彼の父が、長崎の平戸に来た時に日本人女性との間に設けた子供である。7歳まで日本で育つが、父のいる中国へと旅立った。聡明だった彼は21歳にして父親同様に明朝の将軍に任ぜられる。当時台湾を占拠していたオランダの東インド会社とも戦っている。
 その頃に大陸では、満州に勃興した清王朝の勢いが増大して明王朝は滅亡した。彼の父は清王朝に投降したが、「鄭成功」は台湾に渡って抵抗を続けた。時に日本は三代目将軍徳川家光の時代である。徳川幕府に援軍を要請した。家光は大いに食指を動かしたが、側近たちはこれを諌め結局援軍を出すことはなかった。
 「鄭成功」は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の話を当然聞いていたであろうし、戦国時代に鍛えられた日本軍の強さも知っていた。
 しかし、日本は鎖国政策に入っていたし、「鄭成功」の望みはかなわなかった。清王朝に投降した彼の父は後に処刑されるが、そのわずか2年後には「鄭成功」も39歳にて熱病に罹り死亡してしまう。現在の台南市に政権をうちたてたがごくわずかの期間でしかなかった。しかし台湾独自の政権を最初に打ち立てた開発始祖として国神の一人になっている。
 彼は明王朝の将軍となってから、平戸にいた実の母親を大陸に呼び寄せた。しかしその本来の居城だった泉州の城が、彼の留守中に明軍に攻められ陥落するときに母親は自害して果てた。
 そこから、およそ半世紀後に日本では近松門左衛門が人形浄瑠璃をそして歌舞伎にもなる『国姓爺合戦』が空前の大ヒット作となったのである。17ケ月連続公演という歴史的記録を打ち立てた。「鄭成功」が将軍となった時に国姓爺という名をもらったことに由来するものである。
 日本では歴史で「鄭成功」を教えず、国文学の分野でしか教えられないのは残念である。
 彼は台湾のオランダ軍と戦った時には、福建省のアモイ沖合の島を拠点として海戦を行った。
 ずっと最近になってからのことだが21世紀になる5年ほど前に、そのアモイに在職した会社が中国進出最初の会社を設けた。中国が経済的に急発展する直前のことだった。まだ路上に人々がタムロしていた記憶がある。

# by watari41 | 2019-04-12 16:48 | Comments(0)
 最初に台湾へ降りた時に驚いたことがあった。旅客機が高度を下げてゆき雲間から地上の光景が見えてきた。細かく区切られた田んぼがあった。一瞬の間、ここは日本ではないのかと思ったものだ。
 明治以来、日本式の農業技術が取り込まれているから当然のことなのだと納得した。
 台湾の恩人ともされる日本人が多くいる。東北出身の人も多い。
 岩手県水沢市(現在は奥州市)出身の後藤新平が有名である。民政局長官として赴任し、台湾の実情をつぶさに調査した上で思い切ったインフラ改革を断行して台湾発展の基礎を築いたということだ。
 水沢市は幕末までは仙台藩の領内だったので、宮城県、そして岩手県に思いをはせる台湾人も多いのだろう。東日本大震災の時には、数百億円もの義捐金が送られてきたことは記憶に新しい。我が町にも億円単位の分配があり、小学校の体育館に「台湾義捐金配布所」という大きな看板が掲げられ行列ができていた。
 さて後藤新平は、その後に東京市長となり離任した半年後に関東大震災が起きた。復興計画立案には後藤があたるべきということになる。彼は東京を近代的な都市として復興すべく壮大なプロジェクトを提案した。実施するには当時の国家予算に匹敵する金額が必要なこともあり、一部が採用されたのみでお蔵いりとなってしまった。彼には大風呂敷というアダ名がついた。

 日本と台湾は同じ島国として、共通項がかなり多いのだろうと思うのである。1950年代以降は毛沢東に敗れ、台湾に逃げ込んだ蒋介石の漢人国家ができたが、昔からの住人でいる現地人も次第に力をつけてきていた。李登輝さんをはじめとする方々である。国家体制も異なるので台湾は独立国家たるべきだというのである。現在の蔡政権もそういうことなのだろうが、公言できないのは大陸からの武力攻撃を受ける恐れがあるからなのだ。現在では蒋介石一統の子孫たちは、大陸との平和的な統一を望んでいるとされる。

 台湾には富士山を越える高い山や山脈がある。近代まで開発が遅れていたこともあるが、豊かな山林資源が残っていた。日本の古社寺の修復には巨木を必要とする場合が多いが、もう現代の日本にはそんな木は残っておらず、台湾から運んだ巨木で修理された寺院もある。
 昭和の宮大工として有名だった西岡常一さんは、木材にもこだわた。1970年頃、台湾へ原木を見にいった。亜熱帯性の気候なので、平地は暑いが、標高2千m近くになると、日本と似たような気温となり、島国の湿潤さもあって、良質なヒノキの林があったのである。

# by watari41 | 2019-04-07 13:10 | Comments(0)

意外な「令和」

 わずか2文字に一億民が固まりぬ。
 「令和」が発表された一瞬の間のこと、誰にも異和感があったのだろう。意外だと思った方がほどんどだったと思う。記者クラブの全員がキーボードから手を離して茫然たる様子がテレビで切り取られていた。
 年号もお相撲さんの「しこ名」みたいなもので、最初は変だと思っても長い間には慣れてくるものだ。

 発表まで、厳重な報道規制がしかれたが、知っていた人は結構いたようだ.
 ネットの中には、フェークまがいの情報があふれているが、その中でオヤと思ったのはNHKのベテラン美人記者が、最もはやく事前に情報を掴む可能性があるという内容だった。
 当日は、朝からテレビを見ていた。当然ながらその記者は、そんなことを言うはずがない。一言漏らしたのは、9時30分に庭に出た首相が桜がきれいであるということを発した言葉を引用して、そんななかに秘密があるのかもしれませんねなどと、とぼけていた。筆者は前述のフェークまがいの記事が気になっていたので、やはり知っていたのかと思ったものだ。
 11時40分に年号の発表が終わって、そんなに時間がたっていなかったが、その記者は出典となる万葉集のその部分の全文活字を掲げていた。やはりそうだったのかと思ったものだ。
 信頼のおける記者の何人かには漏らされていたのだと思う。もちろん正式発表まで厳重に伏せておくのは暗黙の了解事項である。時事解説で有名な方も、今日の民法テレビで逐一選定状況を知っていたという話をしていた。
 当日に官邸まで山中教授とか宮崎緑さんなどを呼んできたのはセレモニーでしかなかったのであろう。

 メディアが朝から晩まで、ここまで煽りたてると、一億人はいっせにその方向を向いてしまうのが日本人だということを改めて認識できた。名前をつけられる新天皇その人も直前までは知っていない。生まれたての赤子に対して親が名前をつけるようなものだが、その文字に縛られるのは、天皇本人だけではなく日本の歴史そのものが、好むと好まざるを得ずその文字に制約を受けてゆく。

# by watari41 | 2019-04-02 21:52 | Comments(0)
 先日の河北新報記事に、この数年で仙台空港への台湾からの観光客が10倍にもなっていると報じられた。
 以前から台湾と日本には計り知れないシンパーシーがあるのを感じていた。
 日本の基本的な文化は大陸や朝鮮半島からきているが、その後の千年ほどで独特な島国文化が醸成されたとされる。台湾は明治時代の日清戦争によって大陸の清国から日本へ割譲された。当時の台湾は未開の地に近かったが、日本が持てる力を投入して近代化を行った。第二次世界大戦後に台湾は放棄されたが、そこに大陸で敗れた蒋介石の軍が逃げ込み現在に至っている。

 1950年頃の毛沢東軍は圧倒的で、台湾の蒋介石も簡単に陥落するかと思われたが辛うじて生き残ったのは、ある旧日本軍人のお陰だとされている。一年ほど前の農業新聞のコラムで読んだ旧陸軍中将根本量さんという人がその方なのである。
 1945年の終戦時に、根本中将は満州の関東軍で一方面を受け持った守備隊長だった。ソ連軍の侵攻は8月15日の終戦を迎えても、なお攻撃の手を緩めず、彼の率いる軍はやむなく応戦しながら、4万人近い民間人と軍隊を引き連れて南下撤退し大陸の天津の辺りまで後退した。この間に中国軍の援助を求めるべく、蒋介石と八路軍(毛沢東)に使者を送ったそうだ。ソ連と近かった毛沢東はこれに応ぜず、蒋介石軍が助けてくれたのだという。
 日本への最終引き揚げ船団に間に合って、配下の全員が無事に帰国できるという奇跡的なことがあった。そのままソ連軍の捕虜となっていたら軍人はシベリアでの過酷な運命が待っていたし、民間人も岸壁の母で有名な興安丸の帰国船を待つしかなかったのである。

 根本さんは、蒋介石に大変な恩義を感じたのである。その後、大陸の戦況は毛沢東が優勢となり蒋介石も台湾であわやという状況に追い詰められていることを知った。なんとか助けてやりたいという彼なりの義憤にかられたのであろう。横浜港からの密航漁船を内密に日本の知りあいに容易してもらったのである。当時はまだ日本国内はGHQの占領下にあり、元軍人の出国が許されるわけなどはない。家族には釣りに出かけてくるといってそのまま出港したのである。

 台湾に辿りついた彼は蒋介石の軍事顧問となった。当時の戦況は大陸のすぐ近くにある金門島で激しい攻防の最中だった。根本さんは有能な指揮官だったようで、目と鼻の先にある福建省のアモイからの毛沢東軍の猛攻を凌ぎきったのである。ついには、台湾占領を諦めざるを得なかったのである。
 今も金門島は台湾の管轄下にあり、台湾本島は守られたのである。

# by watari41 | 2019-03-28 17:00 | Comments(2)

あれから8年(後)

 大震災の被害を受けた沿岸の各市町村では、地震発生時刻の2時46分の黙祷を中心とした追悼式が行われた。東京国立劇場での追悼式の模様も巨大スクリーンで同時中継された。祭壇の中央に立つ「慰霊」の標柱も全国統一になったのかもしれない。同じものだ。

 震災後、数年間は我が町の復興は、他市町村に比べて大きく進んでおりますとのアナウンスが度々首長からあったが、いまいちピンとこないところがあった。いまから考えるとこれは、大震災での瓦礫処理が早く進み、目に見える「物」の復旧への着手が早かったからなのである。そのことが復興が進んでいるという表現になっていた。
 人間が住むべき環境が整えられつつあったのだが、環境条件が出来たからと言って、直ちに人が住み着くわけではない。原発以外の地区でも土盛りなどによって、周囲の光景がまったく変わってしまった。
 人の想いは一朝一夕にして変わるものではない。遺体が流れ着いたところなのでもう住みたくはないなど人それぞれである。
 もう安全なのだから住んで下さいと言われても、なかなか戻りがたい。
 被害の大きかったところほど、如何に安全対策を施しても人口減少率が大きくなっている。

 反面というのもおかしいが、8年前を契機に大きく様変わりしたところがある。仙台の次にある「長町駅」東側の、昔は国鉄の巨大な貨物ターミナルがあったところである。20年ほど前にターミナルが廃止され、大きな面積をもつ「再開発」の用地となっていた。長町の次には「太子堂」という新しい駅までつくり、用地整備がすっかり終わったのだが、その土地に全く買い手がつかなかったのである。何度かの値下げを繰り返してきたが、一向に売れる気配がないのである。もう仙台の発展も終わってしまったのかと思っていたのである。
 それが3.11を契機とするかのように変貌した。今や立派なマンションが立ち並ぶ、仙台でも人気の場所になった。すべての土地が売り切れた。そのキッカケが、仙台の海岸地域に住んでいた方々の仮設住宅となったことにあったようだ。その人々は、こんなに便利なところがあったのかと思ったようだ。そんなことが伝わったのだろうか不動産屋・住宅会社が次々と土地を購入した。
 それまでの仙台は、山の手の方向に住宅団地が作られ高級住宅街として好まれる傾向にあった。中心街からわずかの距離でしかない長町には場末感が漂っていた。そこには私も在職していた大きな古ぼけた工場とか、貨物列車の操車場、雑然とした居酒屋街などがあり、おまけにストリップ劇場まであった。下町そのものだった。半世紀以上も前の事を回想している。

# by watari41 | 2019-03-15 21:50 | Comments(0)

あれから8年

 2011.3.11 その時4歳だった子供に、かすかな記憶が残っているとしても、その子は今年小学校を卒業する。すなわち12歳以下の子供には大震災のことがわからないということになる。

 歳月の経過は恐ろしい。大人の世界でも風化現象が叫ばれている。風評被害の面からすれば良いことだが、放射能は容易になくならない現実がある。3月2日夜11時からのEテレをみていて驚いた。福島県での震災関連死が今も増え続けている。故郷を追われた方々が今も4万人いる。かつて住んでいた家は朽ち果てつつある。もはや帰還することは文字通り困難というか不可能だろう。除染したとされる黒い袋に入った土が至る所に山と積み上げられ不気味である。
 メルトダウンがどれほど恐ろしいものであるかが、折に触れ伝えられる。その回収を当初は安易に考えていたようだ。今となってはチェルノブイリの「石棺」が正しい選択だったようにも思える。当初は日本の技術力を信じたのであろう。ロッボットを開発してデブリ回収をするということだった。3年程度の開発期間でというものだが、とてもそんな程度のことでないのがよくわかった。8年かかってようやくデブリらしきものが見えてきた。

 こんな中で宮城県の女川原発再稼働の住民投票の是非が議会に諮られているが、再稼働を考える事自体が恐ろしいという認識がないようだ。確率はきわめて低いのであろうが、宮城県が廃墟になる可能性もゼロではない。

 学校も大震災遺構となるところと、全く新規に建て替えられたところに分かれる。いずれも生徒数の減少数が著しいが、結果として地域の学校として持ちこたえられなくなったのが遺構として残る事になった。仙台の荒浜小学校や山元町の中浜小学校である。中浜小は全員が屋上に避難したが、もう少し津波が高かったら全滅の危機にあった。石巻の大川小学校の如き悲劇をかろうじて免れた。
 新しくなった学校も立派すぎというのもおかしいが、現在の人口減少状況が続くと、建物寿命の前にいずれ廃校の危険性が感じられるところもある。
 同じ県内でも地域格差が極端に大きくなりつつある。同じ町内でもこれまた同様である。被害の大きかったところはコンクリートの立派な構築物ができて、一見して復興したかにみえるが人はどんどん離れている。

# by watari41 | 2019-03-06 21:54 | Comments(0)