明治150年(4)

 明治戊辰戦争は、仙台藩にとっては戦う必要のないものだった。
 過去に必要な戦争というものがあったのかは不明だが、歴史上、幾度もの戦争は後になって考えてみると、何故に戦争になってしまったのかわからないものが多い。
 戦争の発端には意外なものが多い。
 ベトナム戦争も数十年後に当事者である、アメリカのキッシンジャー氏とベトナムのザップ将軍の衛星による対談番組があったが、お互いの誤解に基づくものだったようで、ベトナムは焦土となりアメリカ人が何十万人も戦死した。
 しかし世界史は戦争の歴史でもあり勝者が利益を得ている。日本も戦国時代には同様である。

 江戸時代の260年間は、内戦はもちろん外国とも戦っていない。奇跡的なことなのかもしれない。
 外国では、この間も種々の戦争が勃発している。ドイツとフランスの戦争とかイギリスは7つの海を支配すると言われた如く、世界各地で植民地戦争を起こして勝ちまくった。

 それでは幕末の内戦とは、どういうことだったのかということになる。
 その昔の「関ヶ原」での東軍と西軍というようなことでもない。
 薩長土肥と言われる、当時でいえば革命勢力であったろう。当初は長州が京都での市街戦だけで、平和裏に成功するはずだったようだが、不運なことに会津藩が指揮する幕府側が長州派遣軍に勝ってしまった。ここから事態がおかしくなった。

 江戸幕府が無血開城したのだから、もう戦う必要はなかったのだが、長州軍は私怨ともいうべき会津藩を叩かづにはいられなかったのであろう。東北諸藩が揃ってまで会津藩も江戸城同様の扱いを申し出ているが聞き入れられなかった。
 結局は東北のリーダーたる仙台藩62万石も戦う他はなかった。
 福島県の「いわき」と「白河」に援軍を出したが、惨敗し大量の戦死者を出した。
 仙台藩の最南端まで攻め寄せられ、降伏するしかなかったのである。

 藩祖、伊達政宗公の廟から2代目忠宗公の廟へ行く途中に、戊辰戦争で戦死した仙台藩士多数の名前を刻んだ碑がある。
 一方で官軍の戦死者は、靖国神社の戦没者記録に名前が残された。すなわち祀られ神となったのである。


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# by watari41 | 2018-05-14 21:34 | Comments(0)

明治150年(3)

 明治以来、我が家も5代に渡り苦難の道を歩んできた。
 高祖父は維新の時に44歳、稼業は順調だった。とは言っても官(領主)のお墨付きの仕事である。
 旧街道筋に面していたこともあり、往来者の監視であるとか、店もあって塩など現代でいう専売品を扱い、質屋も兼ねたり、官命の荷物を運搬したり、さらには周辺町民への司法権まで与えられていた。いかめしい役職名がついていた「検断」である。仙台藩特有の役職名らしい。おそらく藩内には何百名もいたのであろう。田舎にゆくと「庄屋」と呼ばれる方々と同様なことらしく、町場にある庄屋さんなのだ。町内の仕切りをまかせられていた。明治33年に生まれた祖父の末弟は、周囲の年配者から検断さんの孫さんだと一目おかれていたらしい。
 必ずしも世襲ということではなかったのであるが、江戸時代を通じて幸いにも11代に渡り260年間この役職をいただいていた。

 明治維新を「ごいっしん」とこのあたりでは言っていたようだ。何もかもが変わってしまった。
 民間ベースでやっていた「紅花」の取引管理だけはまかされていた。紅花栽培も盛んだったのである。この町場からは6kmほど離れた阿武隈川河畔の今泉村に市場がたっていた。維新後に今泉村市長という珍しい役職名をもらったのである。通勤も大変だったのであろう。50歳を前に引退している。
 新しく一家の長についたのは、高祖父の長男30歳である。(私からすると曾祖父の兄になる)
 新規事業に乗り出したのである。現代でいう宅急便をはじめた。江戸時代には官業として荷物を運んでいたが、今度は民間事業としてやろうとした。だがものの見事に大失敗してしまった。明治10年、家と屋敷をすっかり他人に売り渡して本人は夜逃げ同然に北海道を目指した。もう一旗あげるつもりだったらしいのだが、為すことなく札幌にて大正元年に70歳で没した。

 やむなく弟(私の曽祖父)が一家を背負うことになった。幸いにも白石市に大富豪の親戚がいたので、そこから借金して家と屋敷を買い戻したが、莫大な借金を抱えることとなった。曾祖父一代では到底払い切れず、祖父の代まで親子二代50年におよぶ苦闘が続くことになる。
 詳細は以前にこのブログに記載したことがあったので省略する。



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# by watari41 | 2018-04-30 11:48 | Comments(0)

明治150年(2)

 明治維新から75年が過ぎた昭和18年に、我が町から仙台に向かって荷車をひいた男が歩いていた。荷物はなく空車であった。
 仙台の第二師団から「徴用」の通知がきたのである。「物品の赤紙」みたいなものである。
 一町民が軍の命令に逆らうことなどは出来るはずもない。男は奥さんから昼食のにぎり飯をもらい出かけたのであった。維新の頃と違っていたのは、阿武隈川、名取川、広瀬川に橋がかかっていたいたことである。だが25kmの道のりは変わらない。男の息子は昭和一桁の生まれなので当時の状況をよく覚えていた。個人で荷車を持っているのは当時としては裕福な家だった。

 日清戦争、日露戦争、太平洋戦争と維新から150年の前半は国をあげての戦争の時代でもあった。
 太平洋戦争は、維新以来かかげてきた「富国強兵」政策の総決算ともいうべきものであったが、完膚なきまでにたたきのめされた。
 その反省もあったのだろう、後半は一転して稀に見る平和国家となったのだから不思議なものである。戦う力が無くなったからとも、また戦地に赴いた人は食料もなく、バカ馬鹿しい戦いをしたものだという深い反省の念に捉われたこともあったのだろう。戦争は虚しいと思った人たちが多くいた。

 ところがトップにいた文官は、責任を感じなかったのであろう。戦時中の大臣が、価値観の一転した戦後において総理大臣になるのだから誰もが驚くと同時は当たり前のこととして通用したところに日本の不思議さがある。

 最後の海軍大将と言われた宮城県出身の「井上成美」は、一身にその責任をとるかのように、戦後はひっそりと生活しその生涯を終えている。当時でも個人個人の考えに大きな差異があった。前者は岸信介で長州の人である。いわば維新の勝ち組、井上は負け組だった。
 昭和33年頃だったろうか、岸首相はアメリカを訪問し、アイゼンハワー大統領とポトマック川でボートに乗った写真が新聞一面に大きく掲載されたのを記憶している。「日米新時代」だと語っていた。
 いみじくも、節目の首相はいずれも長州だと知った。初代は伊藤博文、50年目には桂太郎、100年目は佐藤栄作、150年は安部普三。


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# by watari41 | 2018-04-24 14:58 | Comments(0)

明治150年(1)

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 明治維新から150年である。東北人として、これは率直に「祝うべきことなのか」という論調がある。「維新」という言葉に飾られているが、何のことはない薩摩・長州による暴力革命だったという見方がある。
 「・・何がめでたい」という佐藤愛子さんのベストセラーもあった。年月を重ねることに意義があるわけではない。
 写真は仙台藩主伊達慶邦公が150年前に降伏調印式のため、前日に仙台からこの館まで来たのである。一泊したのは城下の上級武士である石井覚左衛門宅である。
 現代の亘理城には、面白いことに2枚の看板がかかげてある。
 左には「亘理要害跡」(臥牛城跡)、右にあるのは「亘理城址」(仙台伊達藩戊辰戦争終焉の地)と書いてある。
 「要害」の看板は10年ほど前に、道路から見えるところに何の表示もないのがおかしいと、当時の文化財委員会が建立したものである。江戸時代に幕府は全国統制のため、一国一城令を発した。仙台藩だけは例外として2城が認められ、仙台青葉城と片倉小十郎の白石である。それ以外は石高に応じて、要害、館、柵などと名付けられた。
 しかし、この「要害」看板に平成の商工業者が黙っていなかった。亘理より格下の5千石の船岡館が、いまや堂々と船岡城址公園としている。何故「城」という名称を用いなかったのかという論争が起きて、さらに看板をもう一枚、商工会が建立することになったのである。
 亘理は2万4千石を領有していた。仙台伊達62万石は分散支配体制をとり、各地をそれぞれにまかせていた。青葉城の周囲には、江戸城周辺に構える大名屋敷同様に、亘理伊達氏も数万坪の仙台屋敷をもっていた。早朝に出発すると25kmの距離なので、昼頃に到着する。(つづく)

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# by watari41 | 2018-04-18 11:37 | Comments(0)

悪妻

 安部首相夫人「昭恵」さんが歴史的な「悪妻」の地位を獲得しようとしている。名誉なことではない。
 世界三大悪妻は有名だ。ソクラテス、モーツアルト、そしてトルストイの妻である。
 日本にも悪妻と言われる人がいる。有名なのは「北条政子」源頼朝夫人である。源家を滅亡させ、実家に政権をもたらした。しかしし新しい武家政治の始まりである源頼朝を支えた功績がある。
 室町時代には「日野富子」足利義政夫人がいる。戦国時代の始まりである応仁の乱の火付け役であり足利幕府を消滅に導いた。夫である将軍義政は銀閣寺を残した功績がある。だが日野富子は悪妻中の悪妻と言われている。
 次の時代には「淀殿」がいた。知られすぎていて書くまでもない。
 海外では、哲学者や芸術家の奥さんであるが、日本では権力者夫人が多い。
 日本でも文豪夏目漱石夫人の鏡子さんの悪名高いが異論も多い。

 近代政治家夫人には、目立ちたがり屋もいたが、賢夫人と言われる方々が多い、夫の足を引っ張るような人はいなかったように思う。
 安部昭恵さんは公の場に出て自由奔放に振舞っているのを、名だたる官僚たちが忖度してしまった。
 震災後の東北にもやってきて防潮堤の高さを低くしようとする住民運動に賛同したことなどもあり話題を呼んだこともある。

 今回の森友学園には弁明の余地がない。我々もこの一件がなければ、あのように異常な教育を実施している学園の存在を知らなかった。
 戦後70年にしてあのような時代錯誤があるとは思ってもみなかった。籠池さんのペテン師的才能が絡んで、その渦中にはまり、あらざる影響を及ぼしてしまった。
 落ち目の朝日新聞がおそらくは社運をかけたのであろう、あのように徹底した権力との対決姿勢がなければ、事件はうやむやになっていた可能性が高い。
 長期政権には、とかく負の側面が多すぎる。
念のために申し上げておくと、悪女ではない。悪妻である。

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# by watari41 | 2018-03-26 21:01 | Comments(0)

皇帝の必要な中国

 習近平さんが、とうとう皇帝になった。中国は皇帝を必要とする国家なのかもしれない。ラストエンペラーが1912年なので百年ほどの空白があった。
 その間というより、それ以前から西欧列強の侵攻を許していた。1840年代のアヘン戦争でイギリスの近代化された大砲軍艦には勝てずにズタズタにされ、多額の富を搾取された末に、香港・マカオなども百年間の租借という、いわば植民地化されていた。海洋帝国国家のイギリスにとっては十分すぎる成果を得たのであった。

 遅れて近代化に成功した日本は、日清戦争に勝って多額の賠償金を得て、より一層の軍需産業にまい進して、朝鮮の併合とさらには中国本土へと侵攻して、日米開戦となりその結果はご存知の如くである。

 中国は19世紀にイギリスに痛めつけられたのであるが、より最近の20世紀の出来事である日本に対しての記憶がまだ冷めやらない。

 巨大な国家を統治するには,皇帝が必要なことは2千年前にローマ皇帝カエサルが示した。それ以前のローマは現在でいう共和制に近い。しかしカエサルはルビコン川を渡ったで表現されるようなことで軍隊を首都に入れて、投票の結果とはいえ事実上の皇帝となった。歴史で教えるのは、アウグスティスが初代であるが、カエサルがその礎を作った。それを強固にしたのは、クレオパトラと組んだアントニウスを、名目上の指揮官ではあったがカエサルの養子だったアウグスティスの功績とされたからである。
 カエサルは弟子でもある共和政派のブルータスに暗殺されたことは誰でも知っている。
 習近平さんが今後どうなるかは誰にもわからない。しかしチベット人を大弾圧しているのは許しがたいことだ。
 

 

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# by watari41 | 2018-03-15 14:54 | Comments(0)

あれから7年

 昭和30年だった。戦後10年にして、もはや戦後ではないと言われるほどに復興が進んだ。
何百万もの死者と、荒廃した都市が立ち直り、それ以降も目覚ましい発展を遂げた姿をこの目で見てきた。
 対比して
 震災後7年を経て、莫大な復興資金が投じられたが、現地はどのようになっているであろうか。
 人が戻ってこない。かつては数千人が住んでいた海岸の街は今も荒涼たる平原でしかない。
 ところどころに家が点在しているが、もともとの住人はほとんどが内陸部に移り住んでしまった。

 復興とは何かと改めて問われている。
 何十兆円もの資金は、巨大な防潮堤や土盛り工事、そして内陸部の田畑であった土地を評価額より2桁も高価に買い、復興住宅と称するマンションの如き建物になった。復興長者と言われる人も出ている。
 浜通りにもともと住んでいた筆者の年齢以上の老人は、この近代住宅に戸惑いを感じている。鍵をかければ外部と遮断される。もっと工夫の余地があってもよかったのだろう。例えば、ベランダを共通にするとかの意見もあったようだ。しかし結果論である。仮設住宅の時はよかったという話もある。一歩外に出ると誰かしらがいたと。

 海、陸、河川が接する境界領域を海岸エコトーンといい、海水と淡水が混じり合い多様な環境と生物が存在していたのが震災前だった。これらが一旦は破壊されたが、自然の回復力はすごいもので失われた動植物が復活しつつあるが、これを邪魔しているのが現代人の復興とされる、コンクリートと他所から運んだ山土なのかもしれない。
 これらを地域住民と観察し研究している学者もいる。行政にはいろいろと提言もしているが、先日のフォーラムでは、なかなか思い通りにならないと言っていた。
 自然と防災と人間の生活という三つの課題に対する難しい問題に直面しているともいえる。

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# by watari41 | 2018-03-06 21:33 | Comments(0)

(続)老いたり

 列車に乗ると席を譲られることが多くなった。
 はじめは違和感をもっていたが、最近は遠慮しないことにしている。

 お若く見えますなどとお世辞を言われて真に受けているところもあるが、本当に若い人からみればかなりの老人にちがいない。
 寒くなると、頭から冷えてくる。頭髪の大事さがよくわかる。そして体の芯まで冷たくなるようだ。帽子がはなせない。足も冷える。
 今年の寒さは身にこたえた。
 「老いてますます盛ん」などという言葉もあるが、文字通り言葉でしかないことを実感している。
 後期高齢ポイントを過ぎるとこれまた一年ごとに体力の低下がわかる。

 同輩の方々も急激に老けこんでいる人が多くなった。平均寿命の差異のごとく高齢者では男女間に5才程度の開きのあることがわかる。
 根気も続かなくなってきた。
 近隣の85才男子が2月に相次いで亡くなった。そのうち一人は、昨年の老人会で俺は片足立ちがOKなんだと実演して見せたものだ。急にガタガタときてあっけなかった。私は弔辞を読む役である。いつ読まれる側になるのかわかったものではない。
 物忘れの人も多くなったのだろう。我々年代向けに巨大な新聞広告がでている。効き目はないものと思っている。お金に余裕のある人は試しているのだろう。物忘れが改善したなどと聞いたことがない。

 精神年齢だけが若いつもりでいる。
 昔からみれば多少は判断力がついているのかもしれないが、それもこれも思いこみである。

 おそらくは健康寿命すれすれのところにきているはずだ。
 先日の葬儀で「釈○○」という3文字だけの法名をみた。新鮮な感じがした。普通の人はこれだけで十分だと思った。
 院・居士でないと駄目だなどというのは現代人の不遜な考えなのだろう。
 そんな自問自答も老いたる証なのだろう。


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# by watari41 | 2018-02-28 21:24 | Comments(0)

老いたり

 先日、地方紙の読者投稿欄に、筆者と同じ年代の方で同様に退職後の日々を綴った方がいたようだ。
 その方が曰く、読み返してみると、十年前には結構良いことを書いていたと思うが、最近のものは全く駄目だ。つくづく老いたりと思うというような投稿だった。

 筆者も全く同感である。NHK特集で山中先生も登場する「人体」の中で「脳」の話があり、最後の数分のみを見た。
 新しい脳細胞が、いくら年齢を重ねてもどんどん出来ているというようなことだったが、実感としては全然そんなことを感じていない。

 だが生物学上は、新しい細胞に常に入れ替わっているのだろうが、それについてゆけないというのが実態なのかもしれない。それが我々の思う老化なのではなかろうか。

 新しい細胞を生かせなくなった。古い細胞は無くなってゆく。これが現実なのかもしれないと思う。
 今日も町内会の葬儀があった。享年87歳の男子、筆者とは十歳とちがわないが、ここ数年は寝たきりの状態だった。最後は生命維持装置みたいなものをつけていた。
 いまだ、町内会長の小生は弔辞を読むことになった。亡者をよく知るだけに、さらりと書いたつもりであるが、若い遺族の方々には、えらく感謝していただいた。 まだ筆者も多少は大丈夫なのかと思ったものであるが、お世辞と捉えないところは、おめでたくなってきているのかもしれない。
 恥ずかしいとか、隠すところなど何も無くなってきた。秘密を沢山もっていることが若さの特権なのかもしれないと思う。
 我々には、まっさらの細胞がどんどん増えてきているのだろう。認知症老人を見て赤ちゃんがえりしているなどといわれるが、そういうことなのだろう。

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# by watari41 | 2018-02-05 19:24 | Comments(0)

或る官と民

 筆者の居住している所は、農村と分類される。
 かつては大規模農家も多かった。現在、私はその町内会長である。
 その中の、とある一軒での出来事です。
 そこは表玄関が旧国道に面している。立派な門をくぐり、100坪に近い大きな母屋、さらに隣接する作業場、納屋、倉と続き、裏門を抜けると次の公道までに達する70m巾ほどの、大きな畑があった。屋敷畑みたいなものだ。裏門から次の公道まで、畑の中に作業用の軽トッラクがすれ違える立派な私道もあった。

 だが、今やこの辺りも住宅地になってきたので、畑も売り払い、高齢となった家主は農家を止めた。
 その私道を町に寄付したのである。200坪に近い道路となった土地である。
 ところが問題が発生した。その道路に家主が手作りした雨水の側溝がついていたのである。素人工事だったので壊れ始めた。
 今や町道となっているのだから、町が新規に側溝工事をやるのが筋であると言う家主側の主張である。土地も寄付していることだしという言い分である。

 ところが、町は寄付を受ける時に手抜かりがあったことに気がついたのである。道路として寄付される時に調査不十分であったと。
 家主側は、工事をやるくらいはできる十分な資力の持ち主だが、町でやるべきと譲らない。町としては、やりたくない工事の一つなのだろうが、ようやく始まった。小生の目には千万円に近い大工事に見える。こんな調整もお役目の一つである。

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# by watari41 | 2018-01-18 21:19 | Comments(0)

二刀流

 「五輪書」は二刀流の元祖、宮本武蔵が晩年に著した剣法の極意である。
 現代では「五輪」と言えばオリンピックであり、5つの大陸のことだが、武蔵の時代には、地、空・・・など人間の周囲5つの環境を表す。「五輪書」に特に哲学的な意味などは持っていない。
 日本で野球が盛んになったのは、前にもこのブログに書いた記憶があるが、投手とバッターの一騎打ちがメインであり、チームとして合戦の様相を呈するから、戦国時代の好きな日本人の感覚に訴えるものがあることだ。

 大谷翔平選手は、武蔵同様に日本では、いまだ誰も達成していない、野球のメインである。投打の二刀流に挑戦中である。
 MBAではベーブルースが実践して、かなりの成績を上げた。長年破られなかった年間60本、生涯714本ホームランでむしろ名高い。

 評論家諸士も、いずれは一本化するだろうと見ているが、二刀流の目標を達成してほしいものだ。
 投打ともに超一流選手となり、その引退後に「回想記」を書いてほしいものだと思っている。
 花巻東高校は、菊地雄星投手とかすぐれた選手を育てている。監督に人を育てる術があるのだろう。

 世の中には、いろんな二刀流がある。甘党であり辛党という人も結構多い。スイーツ好きな横綱もいた。文字には書きにくい二刀流も結構いるようだ。

 二刀流以上になると多刀流とはいわず、万能選手とされるのも面白い日本語の形式である。テレビを見ていたら中学校時代の若乃花が勝てなかった他校の相撲選手がいたそうである。何故その人が力士にならなかったのかというと、もともとは他の競技選手で相撲クラブの選手が足りなかったので、応援で主将出場したというのが面白かった。

 野球にしても剣術にしても、一瞬の勝負である。剣道の一本などはスローでみないと素人には判別がつかない。
 ホームランを打った瞬間なども、スローの解説があってようやくわかる。
 運動神経、反射神経全てが優れている天才にだけできるのが二刀流なのだろう。

 筆者の如き凡人には、あれもこれも出来ませんという二刀流が世の中の大半である。

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# by watari41 | 2018-01-07 17:36 | Comments(0)