専門家の見方

 冒険家の植村直巳さんがマッキンリー登頂後に消息を絶ったが、氷壁より足を踏み外してしまったという見方に、ほとんどの人はうなづいたものである。
 しかし、登山家であり医師でもある今井通子さんはある雑誌に、遭難の原因は突然の心筋梗塞に襲われたのが原因であろうと考えるとの興味ある一文を載せてていた。巷間、伝えられている足を踏みはずというようなことは、一般の登山に素人の人ならわかるが、彼がそのような初歩的ば誤りを犯すはずはありえないということなのです。突然の病気、それも通常の腹痛などではなくて、耐え難い痛みを伴うものとしては心筋梗塞に襲われたと考えるのが妥当だというのです。専門家にしてはじめて言える事だと納得してうなずいたものである。1984年の遭難で、もう20年も前のことである。同世代の人なので印象に残っている。
 似たようなことであるが、新聞、テレビに報道されることで一般の方々はそのまま記事の内容を受け取っても専門家がみてこれはおかしいと思われることが多々あるのではなかろうか。一例として「一万ボルトの電圧が流れている」という表現をよく見るが、これは正しくない。「電圧がかかっている」が正しい表現である。流れるのは「電流」である。電気工学を多少かじった私としては、いつも気になることである。
 同様に、動植物に関してやその他、いろんな専門家がいるわけであるから、その人たちがみておかしいと感ずるようなことがたくさんあるのだろうと思うものである。
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# by watari41 | 2004-07-21 17:04 | Comments(5)

名宰相

 昭和20年代、当時の首相「吉田茂」さんは新聞ではさんざんに叩かれていたものです。悪評惨憺たるもので、子供心にもひどい総理大臣がいるものだと思っていたものです。それがいつの頃からか「名宰相」だったと言われるようになりオヤと思ったものでした。同様のことが「佐藤栄作」首相にもあって、在任中の評判は散々だったのですが、辞めていばらくしたらこれまた「名宰相」になっているのです。政治家にとって、在任中の評判と歴史的評価とでは180度も違ってしまうことがあるようです。
 ひるがえって、小泉首相はどうでしょうか、現在では多小支持率が落ちていますが、就任早々には80%もの支持があり、すごい人気でした。ここでハテと昔のことを思い出したのです。もしかして、小泉さんは歴史的評価は全く得られないのではなかろうかと考えたのです。日本人にとって時の政治を批判をもって語るというのは、それは正しいことで何ら責められることではないのですが、歴史がそれを間違いでしたということになると、はたして現状を正しく認識できているのかどうか疑問を持たざるを得ません。
 昨日、鈴木善幸元首相が亡くなりました。在職中は外交オンチだとかいわれて、さんざんに叩かれて辞職に追い込まれたと思いました。今朝の新聞論調は「和」の政治を目指したとか「行政改革の道筋をつけた」などおおむね好意的です。死者に鞭打たずということもあるのでしょうが、在職中にこんなことを書いてほしかったと本人は思っているのではなかろうか。
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# by watari41 | 2004-07-20 19:05 | Comments(0)

うさぎ小屋

 日本の住宅は「うさぎ小屋」だと言われた時代がありました。多くの人が自嘲ぎみに卑下し自らも口にしたものでした。
 しかし、これは大変におかしなことで、昔から日本人は小さな空間に自らの「宇宙」を作ることを得意としてきたところがあります。4畳半に全ての家財道具を押し込んで、中に座っていて、手を伸ばせばすべての用事が足せることを自慢にする人がいたり、盆栽などはまさに、壮大な景色を一点に凝縮した小宇宙を形成しているのだとおもいます。日本独自のものなのではないでしょうか。
 「根付」という小さな芸術品があります。これもまた昔から日本人が愛用しており、古いものは大変な骨董的な価値もあるようです。
 また日本では、詩よりも短歌や俳句が重用されてきており、これまた短い言葉に宇宙を凝縮させようとしているのだと思います。
 外国人から言われたからといって、何も大きな家、大きな物ばかりがよいものだとはいえず、それなりの価値観や歴史的背景なども考える必要があるといえそうです。最近は、あまりうさぎ小屋という言葉もきかなくなりました。これには、フラットテレビに代表されるような、大きくても場所をとらない電気器具や携帯機器に見られるような超小型化が時代の風景を変えているのかもしれないと思ったりしているところです。
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# by watari41 | 2004-07-19 17:18 | Comments(4)

日本地図

 仙台市博物館での伊能忠敬の日本大図展も今日で終わる。私は同様の展示を東京赴任の時に見ているので今回は行かなかった。江戸東京博物館で見たのだが、詳細極まる内容に驚いたものである。わが町の海岸沿いにある小さな地区名までこと細かに記載してあった。
 伊能忠敬の情熱もさることながら、幕府の強力な後押しがあったようだ。測量地に当たった各藩も協力をさせられたというが、表面上の体制は別としてありがた迷惑だったようである。防衛上、秘密にしておきたい入り江の状況など、すべてわかってしまうからである。忠敬隠密説などもあったようだ。
 忠敬の義父は仙台藩の医師であり、当地の測量に当たってはその力が大きかったのではないかと言われるが、実態はどうも違うようだと民間の歴史研究家である友人から聞いた話である。実際に宿泊した家での言い伝えなどを調べてみたいと言っていた。研究成果が楽しみである。
 地図の正確さは天体観測技術が優れていたことにあり、これもまた当時の西欧の技術と肩を並べていたようである。

(話は違うのですが、私のメールが昨夜から送受信共に不通になってしまい、プロバイダに尋ねようにも休日で困ったことになってしまった。サーバーにつながらない。いじっているうちに、昨夜来の10通以上もの到着メールを消してしまい迷惑をかけた人もいるのではないかと思い心苦しいことである。しかしグログは通常通り発信できるので便利なものである、改めて見直した)
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# by watari41 | 2004-07-18 09:55 | Comments(2)

確率のこと

 仙台の南、名取市を流れる増田川の上流にダムがある。4百年に一度の洪水にも耐えられると聞いたことがあった。ダムが出来てから昭和61年に「8.5」豪雨というすさまじいものがあった。それから10年もしない平成6年に「9.22」というこれまたすごい雨があって、ダムは耐えきれないということで両者共に放水され、名取市ととなりの岩沼市は洪水にさらされた。4百年に一度のことが10年のうちに2度起こってしまうという「確率」はいかほどなのだろうかと考えたことがあった。
 数年前からは、天気予報にも「確率」が導入されている。しかしこれは分かりにくいという評判である。確率20%の時はどうすべきか。傘を持つべきかどうか迷ってしまう。
20%の意味は、このような気象条件の時には、5回に一回は雨が降りますということなのだそうで、いかに低い確率であろうとも雨が降るということはあるわけで、気象庁に文句を言うわけにはいかない。その数字を見て判断を下す人の自己責任ということになってしまう。
 洪水のことと同じように、低い確率の降水予報でも連続して雨が降るということはありうるわけである。
 多少、理屈っぽくなってしまったのですが、今回の平成16年新潟、福島豪雨と名付けられた災害をみて思い出したことです。為すすべのない被災者をみていて同情を禁じえません。
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# by watari41 | 2004-07-16 16:36 | Comments(0)

郷土の歴史(3)

 安永年間(1770年頃)の人口記録がある。純農村のとなり村であるが「男」1178名に対して「女」860名で、女性が極端に少ない。現代の人口常識みたいになっている、女性が男性に対して若干多いということとは全く逆でありその差は大きい。この村は10ケ所の小さな集落に分かれているが、いずれも男性人口が女性を上回っているのである。
 そのとなりの半農半漁の村では、「男」564名、「女」464名である。かなり不自然な数字である。
 江戸時代は、その全期間を通じて人口は3千万人ほどで一定していたというが、男女のバランスは大きく崩れていたのではないかと思う。
 悲惨な話ではあるが、当時は出産時に間引きが行われていたといわれるが、この数字をみると、それが実際であったことと思わざるを得ない。女性がその犠牲になっていたのである。
 この両村も昭和の合併で、今では同じ町内であるが独特のちがいは残っている。
 「安永の書き上げ」といって仙台藩は領内に当時の各地のことを詳しく記録しておくように命じ、それを提出させた。そのために各種の事柄が現在まで正確に伝わっている。またそのことからいろんな類推もできる。
 いつの時代によらず、正確な記録を残しておくことは大切である。
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# by watari41 | 2004-07-15 09:01 | Comments(0)

郷土の歴史(2)

 明治維新の時に、わが町から3千人もの人たちが北海道に新天地を求めて移住した。戊辰戦争で伊達仙台藩は賊軍となり、その支藩であった2万石余を有する、この城下の侍達も身の振り方を決めなければならなかった。その時に殿様をはじめとして、家中は挙げて北海道の原野を開拓する道を選んだのである。
 百姓となって農業をやるなら、このあたりには当時はまだまだ未開の原野みたいなところはたくさんあったはずである。何故だろうという疑問があった。北海道に移住した藩はいくつかあるが、これほど大掛かりなものはない。
 その解答がみつかったと思ったのは、移住した人の子孫の書いた本にあった。最大の理由は「士族」の身分を保証するということにあったようだ。当時にあっては武士の誇りは何物にもかえがたかったようだ。
 艱難辛苦の末に開拓が成功して、現在の伊達市が生まれた。だが士族の称号は明治の中期にはなくなってしまっているようだ。
 移住した人たちは、郷里に限りない愛着をいだいているという。わが町の私よりやや上の年代の方であるが、昭和20年代に仙台の高校野球部が札幌に遠征したことがあったそうだが、Kさんという珍しい苗字だったこともあるのだが、一人の関係者が近づいてきて、郷里の方ではないのかと尋ねられたそうで、そうですと言ったところ大変に懐かしがられ、いろいろと様子を聞かれたとか。
 しかし、この人は移住者の子か孫のはずだが、ふる里の話を子供の時から繰り返し聞かせられていたのであろう思う。
 
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# by watari41 | 2004-07-13 13:09 | Comments(2)

郷土の歴史(1)

 わが町に「三十三間堂遺跡」というのがあります。小高い山地に整然と並んだ礎石群があり、江戸時代には仏教関連施設のものと考えられたようで、このように名づけられたそうです。しかしこれを物語る文献資料などは一切無くて長年の間、謎の遺跡とされてきました。大正時代から学術調査がされてきましたが、なかなかわからなかったのが、昭和も末になってようやく明らかになりました。
 9世紀頃の役所の跡だったというのです。当時は多賀城に陸奥国府が置かれ要所に郡衙(グンガ)と呼ばれる出先機関があったようです。その中でも最大規模のものだったようです。敷地は10万坪以上の広大さで、礎石群から数百メートル離れた雑木林に政務を司どった正殿の柱穴などがあって確定されたということです。礎石群の用途はそこに倉庫が建っており、税として集めた米倉だったというのです。
 何らかの史料でも残っておれば、このようにてこずることはなかったのでしょうが、書いたものが無いというのは、いろんな憶測をよんで勝手な想像を膨らませてしまいます。平家に関係したものだとか数々の伝説も生んでいたようで、歴史的事実がどかに吹っ飛びそうなこともあったようです。
 この場所は平地から、かなり急坂をを登ったところにあるので、何故こんな不便な高台に思ったのですが、この少し前に仙台平野に貞観の巨大津波がきて、多賀城も被害を受けたことからの教訓かと推測した。
 現在は昔からの名前も残して「「三十三間堂官衙遺跡」との標識が立っている。
 
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# by watari41 | 2004-07-12 15:03 | Comments(8)

聖書のこと

 昭和30年代半ば、20才を過ぎた頃に「聖書」に関心を持ったことがあって、一冊購入した。少し目を通しただけでさらに読んでみようという気は起こらず、捨てるわけにもいかないだろうと、そのまま本当のお蔵入りをさせてしまった。
 ある時、その蔵の整理をする機会があって書籍類を眺めていたら、大正末期に発行された「旧約聖書」がでてきた。ほとんど傷んではいなかった。おそらくは父が購入して、あまり読むこともなく、蔵に入れてしまったのではなかろうかと思う。
 さらに驚いたことには、明治初期に発行された「旧約聖書」もあったことだ。これには祖父の名前が書いてあり、友人からもらったとある。明治30年頃のようだ。この本が発行された頃はまだ禁教の名残があったのだろうか、外側がすべて黒く塗りつぶされている。表裏の表紙、そして側面までもが黒い。当時は人に見られることもはばかられたのだろうか。何人もの手を経て祖父のもとにきたようで、それなりには汚れている。しかし祖父もまた熱心に読んだとは思われない。いろんな祖父の書き物が残っているが、これに触れたものはない。
 父祖3代、同じような年代の時に同じようなことに興味をそそられたことがわかり、おもわずおかしくなったことがあった。
 この回想記もいずれお蔵入りさせておこうかと思う。
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# by watari41 | 2004-07-11 10:06 | Comments(2)

同時代の人々

 在職当時のこと、同じような内容の特許が日本と外国とから、ほんの数日のちがいで出願されているのを目の当たりにして驚いたことがありました。
 洋の東西を問わず、同じ時代には似たようなことを考えている人が多いのだと思います。17世紀から18世紀にかけて西洋で数学が大いに興った頃、日本では「和算」という形で大発展をとげていたのも面白いことです。有名な関孝和という人は、円周率を小数点以下10桁近くまで求めていたといわれ、後に続いた人たちはそれをさらに発展させて、西洋との差はほとんどなかったといわれているようです。
 思想面でも同時期に、西洋では専制君主の圧制に耐えかねた人々の間から自由への思想が芽生えて、フランス革命へとつながっていきますが、日本でもやはり同じ頃に秋田の安藤昌益という人が幕藩の搾取を体験してこれでは人々が救われないと、自由を求めた「自然真営論」を書いているのは注目されます。しかし当時の強固な幕府の体制を揺るがすようなエネルギーにはならなかったようです。
 ごく最近では、昔の山岳信仰を物語る熊野地方一帯が世界遺産に指定されましたが、熊野参詣のピークは千年前の平安時代だったそうでラッシュといってもいいような状況だったとか。丁度同じ頃には西洋でも聖地巡礼が盛んだったという話が最近の中央紙のコラムにありましたが、前々から頭にあったことがらと一致することでしたの今回、ここに書いてみました。
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# by watari41 | 2004-07-09 15:29 | Comments(2)

回想健康法

 7月6日の河北新報朝刊に、お年寄りに「回想法」を、という記事が出ておりました。水沢でそのシンポジュームがあったというのです。回想法は若い日の思い出を呼び起こし語り合うことで元気を取り戻す健康法だというのです。高齢者がもつ力を生かしていくのも回想法であるそうだ。高齢者の介護予防策にもなるようだ。水沢市には「語りと回想研究会」というものまであるという。
 私のブログの表題である「回想」はそんなことまで考えたものではなかったが、この記事を読むと同感するところが多い。そんな年でもないのに人の顔は憶えているのに名前がなかなか出てこないことがある。数日前のことを思い出せないなどなど。頭の老化現象は進んでいるようだ。
 その前日の7月5日の記事に、読み書きと簡単な計算が記憶力を向上させるとのことが記載されていた。今話題の研究でもあるようだ。
 脳をたえず使っていると前頭機能が向上して若返るのだという。そんな難しいことをするのではなくて、簡単な計算でいいそうだ。脳の健康が増進するのだという。
 回想法も似たようなものなのだろう。昔のことを正確に思い出すのは案外と難しいことなのかもしれない。記憶をたどることで脳の活性化が計られるのではないのかと思う。
 新聞を読んで意を強くしたものである。
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# by watari41 | 2004-07-07 21:14 | Comments(3)