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不毛なる多忙

 a0021554_17350376.jpgこの歳になっても読みたい本は無数にあるのだが、人に勧められたものは優先的に読んでしまう。まして読んで下さいと進呈されると目を通さないわけにはいかない。
 2007年に刊行された「リーダーシップの旅」光文社、13版を重ねているのだから根強く読まれていることになる。こういう学問というか研究があるということを知らなかった。
 私などにとっては耳の痛いことがたくさん書いてある。「不毛な忙しさにとらわれている」というのである。どういうことかというと、

 「ネットワークが広いし、忙しいと自分でも思い、自分は必要とされているのだという満足感も抱いている。そういう自覚症状があれば、あなたは「アクティブ・ノンアクション」というワナにかかっている。毎日が多忙にもかかわらず、本当に必要で意義のある真の充足感をもたらすものについては達成できていない。行動しているように見えて実は何もやっていない。危険な落とし穴にはまりこんでいる」

 そのものズバリを指摘されているようなものだ。
 「厄介なことには、「できる人」と周辺から評価されている。そのワナから抜け出せない。さらにはワナにはまったなどとは考えてもいない。社会的動物たる人間はネットワークにいると安心する。信頼されていれば尚更である、どっぷりとつかることになる」。

 その結果どうなるかといえば、
 「新しいものを創出したり、現状を変えるようなリーダーシップがとれなくなってしまう。そのようなチャンスが巡ってきても多忙を理由に背を向けてしまう。その危険なワナには慣性力があり加速度がつく」

 意味のない無駄な時間が過ぎてしまい、一生をやたら棒にふる方々が多い。
 気がついてもそこを抜け出す勇気がないというのである。それは人生のグランドデザインが描けていないからであると。

 いちいち、お説ごもっともである。頭では理解できても、はたと困ってしまうのが我ら凡人なのである。こんなことを知らないでいるよりも知っている方がまだましなのかもしれないと思っている。

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by watari41 | 2015-09-23 17:42 | Comments(4)

2015年楽天イーグルス

 かみ合いの悪い一年だったと総括できる。チグハグだった。外人選手が今頃になって打ち出している。則本投手の好投を何度もフイにしてしまった。
 まだ少し試合数を残してはいるが、オリックスとの最下位争いが続くのだろう。
 それにしてもオリックスは強大な補強をして優勝候補だったが、それに比べると良く戦ったのかもしれない。

 大久保監督の辞任が取りざたされている。私の知っている範囲では、就任当初から地元での評判は決して良いものではなかった。我々の野球知識や感覚は、実戦やテレビ観戦でしかなく、それ以外のことは地元メディアを通じて伝わることを解釈するしかないのだが、大方の仙台人は小生同様の感じを持っていたようだ。

 実践の采配を見る限りでは、特におかしなことは無いようにも思っている。誰が監督でも似たようなものだったのだろうが、結果の責任は問われるのであろう。

 かえりみると一昨年の日本一は、なにもかもがうまくいった。星野監督の魔力にかかったように選手が動いた。チームにも良いムードが漂っていた。実力以上のことを成したのかもしれない。監督の力は偉大なりと言えるのかもしれない。ファンの力をも最大限に引き出し、選手にもそれが伝わる好循環を生んでいた。神がかりとも言える状態に近いものだった。

 今期は残り少なくなったとはいえ、最後の頑張りを期待している。こんな順位にもかかわらず多くの観客を集めていることに私などは驚いてすらいる。
 愛着を抱かれる球団になったのだと思う。これまた球団の成長の一つなのかも知れない。


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by watari41 | 2015-09-13 17:29 | Comments(0)

遊びの世界

 我々より一世代前までの男は、遊んでくる・遊びに行くというと、これは女遊びのことであった。遊びはイコール女という図式だったのである。

 「遊び」という日本語は意味深長である。機械にも遊びが必要なのである。歯車には微妙な遊びがないとうまく動かない。その他の機械でもバックラッシュと呼ばれる、動き出すまでのわずかな遊びを持っていることは誰もが知っている。別の日本語で表すと空隙とか余裕とかになるのだろうが、遊びと表現するほうがピッタリくる。
 逆に遊びが大きすぎると、機会はガタツキ摩耗が激しくなり壊れてしまう。適当な遊びが必要なことは、人間社会から機械の世界まで同じなのである。同様な意味では潤滑油などもそれに相当するのだろう。

 「遊び」の王者は、映画になり、パチンンコになり、競馬・競輪などの賭け事へと広くなっていった。もちろん昔からの遊びが消滅したわけではない。遊びが多様化し興味の対象が広がったということであろう。高齢化社会も拍車をかけている。週刊誌なども盛んに煽りをかけているのが目につく。

 「遊び」がゼロになると機械は壊れる。人間だって壊れる人が多くなったように思う。遊びゼロの歯車は動けないし、動くと壊れる。人間もそうなったのだろうか。由々しき社会問題の根本がありそうな気がしている。

「遊び」の王様は今やゲームかもしれない、一大消費分野となって日本経済を支える有力産業に成長した。
 大人もはまる人が多くなったゲーム機械の数々、日経平均株価にDeNAが採用されたというのは象徴的な出来事である。ゲームには遊びがない。不思議な日本語の使い方になってしまったが、問題点の一つだと考えている。

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by watari41 | 2015-09-08 14:02 | Comments(0)

東京五輪エンブレム

 2度あることは3度あるのではないかとも不吉な予感のする白紙撤回だった。
 呪われたなどとは思いたくもないが、気休めでもいいから御祓いでもしてもらったらどうだろうかと思う。
 日本で世界に唯一といえばおそらくは「家紋」なのだろう。極めて優れたデザイン性も兼ね備えている。
 家紋は公式の場合に用いられたが、日用道具には、これとは別に他家道具と混同しないように、簡単なマークを用具の裏に印していた。我が家の場合には、〇印を2つ少し重ね合わせた簡素なものだった。

 家紋には美しいものが多い。伊達家の竹に雀とか徳川家の葵の紋、最高の紋は菊のご紋章である。
 江戸幕府が、一般の人にも家紋を認めたのが、現在に残る家紋の芸術性をさらに高めたようだ。西欧では貴族にしか認められていない。

 東京オリンピックのエンブレムデザイナーは独創性があると思っていたようだ。日本には無数にある家紋を何故参考にしなかったのだろうかと思う。
 九曜の紋などは、単純にして明快であり、それなりに品がある。これを並べ変えてTの文字デザインにしたらどうだったろうかと、芸術性ゼロの私の左脳が考えた。

 丸に十の字の島津家の紋も単純だ。十の頭を取れば、そのままエンブレムになりそうだ。おそらくこんなものは誰だって考えるのだろう。私の脳力ではこんな程度だが、世界的なデザイナーが考案するのだから、こんなものではダメなのだろう。

 話がこじれないうちに早々に決めてもらいたいものである。
 簡単なものほど、難しいとは昔の人は物事をよくわかっていた。


 

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by watari41 | 2015-09-01 22:04 | Comments(0)