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イルカとクジラ

 海洋生物に関する考え方が、これほどまでに西欧と異なることを再認識させられたのが今回のイルカの追い込み漁の禁止に関することである。
 日本人は海の恵みを存分に享受してきた。川のものでも海のものでも何でも食べる。特に鯨からの恩恵は大きかった。
 海洋国家ゆえんのところである。
 対するに大陸国家では、陸上の生き物が重要である。数万年前の洞窟に描かれた生き生きとした動物がある。フランスなどでの壁画発見が相次でいる。感謝のしるしとして野牛を描いたものなのであろう。
 追い込み漁が残酷だと言うのならば、牛・豚の撲殺はもっともっと残虐である。しかし昔からそのように野牛などに接して来た歴史を見れば、当然のこととして殺して食べる事を厭わないはずだ。
 日本にはそのような習慣がなかった。馬と同居したり、牛なども人間の同伴者であった。労働力として可愛がった。
 その名残は現在にもある。肥育農家と言われる方々は実に丁寧に牛を扱っているのである。いずれ殺される運命にあるのだが、それまでを大事に育てている。
 先日、町内会で氏神様の祭典用の太鼓を修理した。お店の人は、これは和牛の革なんですとおっしゃる。米国の牛皮では使い物になりませんと。放し飼いなので、至る所アブカに刺されていて、傷だらけの革しかとれないのですと言う。なるほどと感心しながら聞いていた。
 そういえば、鯨には捨てるところが一つもないのですと小学校の頃に教えられた記憶がある。そのヒゲが和製の弦楽器の何であったかは忘れたが、無くてはならないもので、在庫があとわずかしか残ってないのですと報道されたことがあった。
 刀の柄も滑りにくいようにと、ザラザラの鮫の皮を使用していると思った。
 極端に言うと、海の生物に対するというか動物への接し方のDNAが根本的に違うということなのであろう。

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by watari41 | 2015-05-23 20:56 | Comments(0)

仙台真田氏

 山頂付近の火山活動がやや活発化している宮城県山麓の蔵王町に、真田幸村の子孫が代々続いていることが、地元紙河北新報に度々取り上げられている。

 大阪夏の陣で大活躍した真田幸村が落城の寸前に仙台藩の家臣である片倉小十郎(2代目)に子供をあずけたのである。その子孫が連綿と続いている。
 片倉小十郎は仙台藩内で現在の白石市一帯に一万八千石を得ているが、その一部である300石を与えたのである。

 筆者が不思議に思っていたのは、如何に豪胆な伊達政宗といえども、敵将の子供を家臣があずかるということを、徳川幕府を憚って許すはずがないだろうということだった。
 ところが意外なことからその疑問が解けた。

 先般、大阪の堺市に住むクラスメイトだったコンジョウ(根性)氏に案内してもらい、南宗寺という由緒ある寺を尋ねたのである。
 そこに何と徳川家康の墓があったのだ。日光東照宮がその墓であることは誰でも知っているが、ご本人の遺体は南宗寺に眠っているというのである。どういうことかと言うと大阪夏の陣で真田幸村などの活躍があり、家康は本陣を去らざるを得なかった。逃げ惑う家康の駕籠をこれまた大坂方の勇将・後藤又兵衛の一隊が見つけた。取り巻きを蹴散らして駕籠に槍を突き入れ手ごたえを得た。しかし又兵衛は武士の情けと中を改めずに、そのまま立ち去ったのだということだ。
 やがて重傷を負った家康は、近くの南宗寺に運び込まれるが、まもなく息を引き取り、そこに埋葬された。当時は公然の秘密とされたが、やがては忘れ去られた。
 大きな墓所だったが、現代になってから朽ち方が激しいので、当時の財界人が寄付して、墓を作りなおすことになった。昭和40代に松下幸之助を筆頭に関西のお歴々の名前がが並んでいる大きな墓石表には「徳川家康公之墓」と書かれている。
 石もまた見事なものである。宮城県丸森町に最近は採掘禁止となった高価な石があるが、肌艶がそれに似ている。もっと立派なものなのかもしれないが。

 家康の死を知った政宗は、もはや誰の遠慮もいらないと真田氏の子供を受け入れたのである。さて以降の家康の替え玉(影武者)は、一年を過ぎずして死亡してしまうのである。死因は公式記録によると天ぷらの過食によるものという話である。

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by watari41 | 2015-05-15 21:55 | Comments(0)

仙台真田氏

 山頂付近の火山活動がやや活発化している宮城県側山麓の蔵王町に、真田幸村の子孫が代々続いていることが、地元紙河北新報に度々取り上げられている。

 大阪夏の陣で大活躍した真田幸村が落城の寸前に仙台藩の家臣である片倉小十郎(2代目)に子供をあずけたのである。その子孫が連綿と続いている。
 片倉小十郎は仙台藩内で現在の白石市一帯に一万八千石を得ているが、その一部である300石を与えたのである。

 筆者が不思議に思っていたのは、如何に豪胆な伊達政宗といえども、敵将の子供を家臣があずかるということを、徳川幕府を憚って許すはずがないだろうということだった。
 ところが意外なことからその疑問が解けた。

 先般、大阪の堺市に住むクラスメイトだったコンジョウ(根性)氏に案内してもらい、南宗寺という由緒ある寺を尋ねたのである。
 そこに何と徳川家康の墓があったのだ。日光東照宮がその墓であることは誰でも知っているが、ご本人の遺体は南宗寺に眠っているというのである。どういうことかと言うと大阪夏の陣で真田幸村などの活躍があり、家康は本陣を去らざるを得なかった。逃げ惑う家康の駕籠をこれまた勇将の後藤又兵衛が見つけた。取り巻きを蹴散らして駕籠に槍を入れ手ごたえを得た。しかし又兵衛は武士の情けと中を改めずに、そのまま立ち去ったのだということだ。
 やがて重傷を負った家康は、近くの南宗寺に運び込まれるが、まもなく息を引き取り、そこに埋葬された。当時は公然の秘密とされたが、やがては忘れ去られた。
 大きな墓所だったが、現代になってから朽ち方が激しいので、当時の財界人が寄付して、墓を作りなおすことになった。昭和40代に松下幸之助をはじめお歴々の寄贈者名が並ぶ大きな墓石には「徳川家康公之墓」と書かれている。
 石もまた見事なものである。宮城県丸森町に最近は採掘禁止となった高価な石があるが、肌艶がそれに似ている。もっと立派なものなのかもしれないが。

 家康の死を知った政宗は、もはや誰の遠慮もいらないと真田氏の子供を受け入れたのである。さて以降の家康の替え玉(現代では影武者という)は、一年を過ぎずして死亡してしまうのである。死因は有名過ぎる天ぷらを食べたという話である。

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by watari41 | 2015-05-15 21:55 | Comments(0)

執念

 罪なき人が犯罪者に仕立て上げられ、無罪を得るまで半世紀を要してしまうということがある。
 これからお話しようとしているのは、これとは逆に本来は人命救助の「英雄」だった人が他人にとって替わられ、それは自分なのだと証明するために60年間も活動を続けている、今年90歳のご老人のことである。ご町内に住んでいる。

 昭和29年のことだからだいぶ昔のことになる。阿武隈川の渡し船がひっくり返った。定員10名程度の小舟に26名を乗せて、ほろ酔い加減の船頭があやつっていたのである。もちろん当時でも橋はあったのだが、工事中で自動車もきわめて少ない時代なので、車は大きく迂回し、人々は渡し船を利用していた。
 強風の引き起こす波に煽られて転覆したのである。折よく堤防道路に通りかかったその人は、ロープを体に巻きつけて、転覆船まで泳ぎ着き、船べりにつかまっている人諸共に、駆けつけてきた地元消防団の人達と一緒になって船を引き寄せたというのである。
 それでも、老人や幼児など数名の死亡者がでたが、大半の方は助かった。
 その救助に当たった男は、事態を見届け終わると名も告げず自宅に帰ってしまったのである。

 当然ながら、誰が助けてくれたんだろうということになった。2日後くらいになって、その船に乗客として乗っていた22歳の保安隊の男が救助者として大きく地元紙に掲載された。警察からも表彰を受けた。保安隊の男は北海道で勤務していて休暇で実家に帰り、その船に乗り合わせていた。誰ともわからない救助者に警察としても都合がよかったにちがいない。

 ところが、地元消防団は独自に捜索していて、隣町に住んでいる川に飛び込んだ男を知っている人がいたというのである。消防団副団長がやってきて、表彰したいからと自宅まで来たそうなのである。だが、それからいくら待っても何ら音沙汰が無いというのである。当のご本人も忘れかけていたようだ。
 それこそ半世紀も過ぎてから、過去の事を調べようとしたのである。時すでに遅かったのである。
 類推するに、当時、消防団が警察に行った時には、もう救助者を決定したから余計な動きをしないでくれといわれたのであろう。自衛隊の前身でもある保安隊は当時はあまり人気がなくて、機会があれば取り上げてほしいとの要望が警察にもあったのだろう。

 90歳の男は年数をかけて調べ上げた冊子を渡してくれた。すさまじい執念である。内に秘めた善行としてあの世にゆけばという人もいるが、それはそれで価値あることだ。
 

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by watari41 | 2015-05-06 16:37 | Comments(0)