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永仁の壺(3)

 「壺」の製作者は、唐九郎の長男なのである。長男は第二次大戦前に父と共に作陶に励んでいたが、やがて出征することになった。父の唐九郎は、万一の場合の形見に残しておこうと思ったのだろう。2個の同じような形をした出来の良い壺を大事にしまいこんだ。長男は戦死することなく無事に帰国した。

 唐九郎はしまいこんだことも忘れていたらしいが、10年ほど過ぎてその壺がひょっこり出てきた。原色の「陶器辞典」編纂の時にその壺が古陶磁として表紙を飾ったのである。写真でもあり、長男もその時は気がつかなかったようだ。

 さらに唐九郎は、目利きとされる人や骨董収集家をも利用する。長男創作の2個の壺のうち一個を鳥取県の金持ちに古陶磁だと言って高額で買い取ってもらうのである。
 そんなことも小山さんの耳に入って来て、もう一個の方もぜひ日本に残しておきたいものだとの気持ちがさらに大きくなって重文指定に至るのである。

 「重要文化財」に指定された翌年の昭和36年にその展示会が、東京のデパートで開催され、それを見た長男はこれは俺の作品だ、間違いないと申し出たのである。しかしこんな年号を入れた覚えはないとも主張した。その時、唐九郎はパリに行っていた。どういうことなんだよオヤジと問い合わせを出した。唐九郎は窮してしまったという。
 彼は、この重文指定を利用して、もっと壮大なる演出を計画していたようなのだ。セガレも馬鹿なことを言ってくれたものだと嘆いていたらしい。やがて唐九郎は全ては私のやったことですと表明した。だが、これは思いもかけぬ絶大な効果をもたらしたのである。重文級の陶作ができる男として、ありがた過ぎる評価をいただいた。超一流作陶家になってしまったのである。

 年号の謎は、唐九郎自身が長男の壺に書き込んだのである。
 文化財保護委員会で審議の際に、古文字の専門家が、永仁2年(1294年)に、こんな字体は有り得ないと拒否したが、陶磁専門の小山さんが押し切ったのだという。
 小山さん自身も文字のところの釉薬の流れ方がおかしいなとは感じていたらしいのだが。後の祭りだった。



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by watari41 | 2014-10-30 17:08 | Comments(2)

永仁の壺(2)

 小山さんが「壺」を重文に推薦した背景には、同情すべきいくつかの伏線があった。
 当時の日本はまだまだ貧しかった。古来の美術品がが海外に買われて流出が激しかった。少しでも国内に留めておこうとする気持ちが大きかった。そのためには国が指定する文化財になれば売買が不可能になる。そんな潜在的心理が大きく作用したようだ。

 それと並行するような形で、唐九郎さん側に大きな演出があった。「陶器辞典」という原色の冊子を発行して、その表紙にかの「壺」を載せ世間の注目を大きく引いた。
 唐九郎さんには、生涯を通じてみると壮大な野望があり、そのデザインに従って動いていたかのようにも見えるが、実際にはその時の思いつきでやっていたらしく、しかし後になってみるとあたかも一貫性があるかの如く見えてくる。悪巧みなのだが、そのこと如くが成功しているのだから驚くしかない。

 小山さんと唐九郎さんは、180度異なる対局にいた。片やあまりに率直・実直な人であり、こなた野心満々たる人なのである。
 加藤唐九郎なる名前そのものを、戸籍上巧みに作りあげた。祖母の籍に入って加藤をもらい、さらには同姓同名が2人いた町に移りすみ、まぎらわしいので最も若い自分が名前を変えますと唐九郎をつけた、結局は陶芸家にふさわしい名前を得てしまうのである。

 ウサンクササはさらに続く、出来の良いものが焼けると、それを粉々に割ってしまい、リュックに詰め込んで、林の中に埋めて、さも古代の窯跡があったかのように見せかけるのだという。地元の人達はそんなことを見ており、あいつはイカサマ師だと言ってたらしいが、一旦有名になってしまうと今度は地域の恩人ということになるのだからおかしなものだ。

 当のご本人は、学者というのは破片を有難がるものだとうそぶいてたようだ。
 そんなものが、東京の有名美術館に〇〇窯跡出土として飾られていたというのだから恐ろしい。化学分析機器なども発達していなかったので、そんなことも可能だったのだろう。 
 さらには、白洲正子さんなど著名人との対談を重ねて、自分の知名度を上げていく。

 さて、肝心の贋作「壺」であるが、それは唐九郎さん本人の作ではないというのだから、奇奇怪怪で、これを巡る話は実に面白い。

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by watari41 | 2014-10-26 10:55 | Comments(2)

永仁の壺(1)

 知り合いの女性が陶芸を始めたとは知らなかった。展示会をやるんですという案内をいただいた。小生は陶作を見たところで理解できるセンスは持ち合わせていない。というよりも芸術的感性がもともとゼロなのである。見学したが初心者とその先生の違いがなんとなくわかる程度である。

 関連して思い起こすのが、昭和35年に起きた「永仁の壺」事件である。当時は陶芸界というより社会的大事件として関心が集まり興味を持ったものである。
 この贋作を作った加藤唐九郎は、一躍時の人となり、著名陶芸家への階段を駆け上ることになる。
 偽物を重要文化財にしてしまったのは、政府の文化財保護委員会の小山富士夫である。この人は大変な非難を浴びたのであるが、一切弁明らしいことをせず委員会を即座に辞任して、日本各地の窯を巡り陶作にいそしむことになる。
 事件に関する見方は様々であるが、作家の村松友視(正式には「示に見」だがIME辞書にない)氏が2004年に新潮社から刊行された「永仁の壺」がわかりやすくて面白い。
 
 著者が居酒屋で、偶然に手に取った「ぐい呑み」が出来の良いもので、作者をきいたら「小山富士夫」ということで興味を持ち、種々の偶然も重なり、この事件を調べ始めるキッカケとなる。ところどころにフィクションもあるのだろうが、作家らしい視点からのもので実話である。

 悲劇の人というのは、生涯どこまでもつきまとう。真面目すぎる人にえてして多いものだ。この小山さんも、若くして奥さんを2人も亡くしている。さらには後年にこの「壺」事件に巻き込まれてしまうのである。

 贋作者の唐九郎とは若い頃に同じ陶芸の道で知り合う。知人というより友人に近い関係だった。小山さんは陶芸学者へ、一方の唐九郎は陶芸作家への道を辿るが並々ならぬ野心家だった。結局は唐九郎に騙されてしまうことになる。
 重要文化財に推薦する時に、当の本人に一度確かめているのだと言うのだから、始末の悪い悲劇なのだが、小山さんは騙された自分が悪いと、一言も非難めいたことを言わなかったのだから並みの人間の出来ることではない。

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by watari41 | 2014-10-22 16:14 | Comments(2)

退屈

 「清貧の思想」で知られる中野孝次さんが、現代人は「退屈」をしらなくなってしまったとおっしゃったことがある。

 現代に生きる我々はやたら忙しくて退屈している暇がない。中野さんが言うのはそういう意味での退屈とはまた異なることみたいだ。

 ご存じ「旗本退屈男」は剣の達人であるが、天下泰平の世にあっては、腕のふるいようがなく退屈しているという設定である。自分の能力を使ってないのが退屈なのか。

 少し昔のアメリカ映画で、公園などでおばあさんが椅子に座って居眠りをしている光景がよくあった。何と暇なんだろうと思いながら見ていたが、もう当該年齢になった私などもそんなことをやってみたいものだと思っている。

 退屈とは、すなわち余裕を生み出す源泉なのかもしれない。わけのわからないことにあくせくと動いていることが多い。わたしなども先日数えてみたら驚いた。20を超える団体に顔を出しているのである。
 あっちこっちから、その会合の案内状が届く。どの団体でも会合を予定する日時は似たようなものなので、一日に5つもの行事がかさなることも珍しくはない。
 こんな余裕のないことでは駄目だろうと我ながらあきれかえる。

 退屈とは単にひまをもてあますことではなくて、相当に深遠なる意味があるようだ。
 人間を人間たらしめているもののようでもある。生きている間に退屈を経験しておかないといけない。

<以下はかなりややこしい、読まなくても結構です(Wikiより転載)>
 退屈に陥った人が知るのは、みずからの有限性という悲惨事であり、気晴らしによってその事実から目を逸らそうとしている。ハイデガーは『形而上学とは何か』の中で次のように述べている。「深き退屈は、現存在の深淵を沈黙せる霧のようにさまよい廻り、すべての事物やすべての人間そしてそれらと共にある、人それ自身をも、一緒に一種不思議な無関心の中に陥れるのである。この退屈が全体としての存在事物を顕示するのである」。だからといってこの悲惨事から目を背けようとしても、かえっていっそう悲惨になるだけである。なぜならこの悲惨事のどこが悲惨なのかがわかっていないからだ。すなわち退屈が内に秘めている教育学的可能性に目を向けていないのである。

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by watari41 | 2014-10-17 09:06 | Comments(0)

アメリカの戦い(終)

 戦争は時にとんでもない夢のような技術革新を産むことがある。
 原子力も一時は、無尽蔵のエネルギーを提供してくれるやに思われたことがある。しかしそういうことにはならなかった。人類の科学力はそこまで進歩していなかったということを70年も過ぎてから我々日本人は思い知ることになる。核兵器と同様に取り扱うべき代物なのであることをスリーマイル島が最初に示し、その後のアメリカ原発は厳重な管理体制化下にある。従って電力が安いコストで得られているわけではない。

 かつてアメリカには戦わずして勝利した偉大なものがある。ソ連との冷戦に勝ったのである。一戦も交えることはなかった。経済力でソ連を崩壊させたのである。
 現在の様に石油価格が高騰していれば状況は違っていたのかもしれないが、当時は極端に安かった。結果的にはそういう戦略のようにも考えられるが、当時のアメリカは石油価格を意識していなかったはずだ。現在のロシアは勢いづいている。石油はどう考えても高すぎる。

 オイルショックの時に、灯油18リットル当たり350円となって驚愕したものだが、そんなことも現在ではうそのようだ。朝、夕は寒くなったので買いに行ったら2000円もした。

 現在のアメリカは中国と闘っている。ソ連と同様にまだ一戦も交えてはいない。中国では経済を社会主義市場経済という異形の国力で対抗しているが、石油をあまり産出していないので、その価格高騰が、人権問題と並んで中国が立ち行かなくなる要因となるかもしれないと考えている。
 中国もそんなことは百も承知なのだろう。風力発電に力を入れ、かつてのシルクロード一帯に林立する風車は60万kwというから、原発一基分に近い。
 アメリカでも次なる対抗戦略を練っているはずだ。

 現在のアメリカが戦っているのがイスラム国である。その軍資金が高騰した石油にあるのだというから皮肉である。イシラム国にはいろんな見方がある。今の私には何が正義なのか残念ながらよく理解できない。
 以上4話を書いたが、こんな話にあまり興味をもたれてはいない。このあたりで打ち切ることにする。

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by watari41 | 2014-10-12 09:15 | Comments(8)

アメリカの戦い(3)

 広島の被害状況が余りに凄まじいので、スティムソン、トルーマンは次のような声明を発している。
 「単なる兵器ではなかった。戦争遂行の必要性をはるかに超えるものであった」
 「このような兵器を所有し使用したことは、我々の理性と感性に大きくのしかかった」
 本音であったろう。戦後の1950年に朝鮮戦争で劣勢に立たされたアメリカはマッカーサー将軍が、原爆の使用をトルーマン大統領に求めたがこれを却下している。

 戦後に、このようなものは一国で専有すべきではなく国際管理に付されるべきものである。との考えを米国は示しているが、ソ連の存在がそれを許さなかった。
 
 しかし、その技術は容易に漏出するとも予測されていた。東西冷戦にも中立で冷静な科学者がデンマークにいた。原子模型で有名なボーア博士である。多くの学者から慕われていた。彼のもとに集まる人たちの間で情報共有がなされるだろうと考えられていた。事実その通りになった。

 「ヘンリー・スティムソン」副題(アメリカの世紀)は、著者の中沢さんが実によく調査して書かれた大作である。読んでいて疲れる。これ以上の紹介は冗長になるので省略する。
 2014年4月に刊行されている。
 私が勝手に(アメリカの戦争)とした。以下はその後米国の現在に至るまでを、小生なりに解釈したものである。

 後にアメリカは、原爆投下の理由を、これによって多くの米国兵士の命を救ったとしているが、後付けの理屈にしかすぎない。

 第二次大戦後、アメリカは世界各地で積極的に参戦しているが、決定的な勝利をおさめていない。朝鮮戦争では引き分けた。ベトナム戦争では敗北、湾岸戦争では勝利なのかもしれないが以後のイラク戦争を継続して考えるなら勝ったとはいえない。アフガン戦争でも勝ったのかどうかはわからない。世界の警察官としての役割だなどの説明もあるが納得できるものではない。余計な戦争に首を突っ込んでいるともいえる。




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by watari41 | 2014-10-07 16:18 | Comments(0)

アメリカの戦い(2)

 1942年、アメリカの原爆開発が佳境に入った頃、陸軍の使途不明金が多すぎると、これを調べ始めたのが、後に大統領となり広島・長崎への投下を決断することになるのトルーマン上院議員なのだから興味深い。この時にスティムソンは、トルーマン氏に直接電話をして、私の責任で全てを掌握して進めていることなのでと話したところ、調査を中止したということである。

 1943年、原爆が完成していないのに、最初の投下をドイツではなく日本と決めているのである。爆発の威力がどの程度なのか半信半疑だったこともあり、木造家屋の東京が第一候補だったのである。ドイツでもし不発弾となると、開発者の手にわたり開明されることを恐れたのだともいう。一般的には人種問題があったとされているが、著者の中沢さんによると、記録にはそういう記載が一切なく、多少の疑念もあると書いている。
 それはそうとして原爆の完成前にドイツが降伏してしまった。日本しか残っていない。その東京が45年3月の大空襲により壊滅した。現場の判断だがスティムソンはがっかりしたと記している。無傷で残っている大都市は第一候補に京都、第二候補に広島となった。
 京都に落とす事には、スティムソンも反対し、ルーズベルト、そして終戦間際に大統領となるトルーマンの了解も取り付けた。戦争に勝ってもアメリカは歴史的汚名を被るだろうことを理解していたのである。彼は戦前に2度来日しており、京都にも立ち寄っている。

 では広島に投下することにためらいはなかったのだろうかということになる。大いに苦悩したと記されているが、最後には手段を選ばずということだったのだろう。日本の玉砕戦法などに大いに苦戦しているとの認識で、原爆やソ連の参戦があっても、日本を降伏させられるか自信が無いとしていた。

 スティムソンは早めに降伏させる条件として天皇制を存続させるという項目をいれれば、強硬派も納得するとわかっていたようで、ルーズベルト大統領には進言しているが、同盟国であるスターリンは当然ながら、無条件降伏しか認めない。ソ連は参戦したかったのである。
 7/Eに最後の機会があり、ここで日本が降伏していれば、原爆投下もなかったし、ソ連も参戦できず60万人の日本人シベリア抑留の無かったし、北方領土問題だって出てこなかった。

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by watari41 | 2014-10-02 17:38 | Comments(0)