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珍しい人

 昭和10年生まれの男がいる。小学校を4年までした行ってないんですと言う。そんな馬鹿なと思った。義務教育のはずなのに何故?
 その男は、昭和20年の終戦の時に夏休み中だった。当時の国民学校が普通の小学校へ転換する時に、名簿から名前が抜け落ちてしまったというのだ。
 学校からの呼び出しがかからないことを幸いに子沢山の貧しかった親は、手間取りというか作男に出してしまったのである。(この辺りの大農家では作業人員を補うために、他者を住み込みで雇っていることが多かった)
 今の世の中なら大問題となっているはずだが、当時は戦後のドサクサにまぎれて、誰も詮索する人などもいなかったようだ。

 雇主は、あまりに子供なので気の毒がり、最初は農作業ではなく幼児の子守をもっぱらやらせてもらったそうだ。

 戦後の農家の動力源は現在のようにあまり電力はなかったので、もっぱら発動機を使っていたのである。ダダダーという勇ましい音を発して結構な馬力があった。軽油を使っていたと思う。脱穀機を動かすなど昭和30年ころ私も使用したことがある。
 頑丈な構造なのだが、結構故障したものである。その男は、修理にきた当時のエンジニアの手元を良くみていた。ここが大半の故障の原因かと点火プラグの分解修理を覚えてしまったというのである。

 当時の農家では、発動機が故障してしまうとそのまま畑に投げておいたものである。それを見つけては、男は直してあげるといい、結構な小遣い稼ぎになったようだ。80%くらいは直ったそうだ。動かなくなるとまた呼ばれると言う具合だったらしい。

 生活の知恵を身に着けるのが早かったのだ。年に一度程度は顔を合わせることがある。ヒ孫にも恵まれ、わけが分からなくなるほどに酔っぱらうのである。これもひとつの人生だ。

 現代社会で、こんな生活の知恵を身に着けようとすれば、何があるのだろうかなどと考えたりしている。


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by watari41 | 2014-06-30 10:24 | Comments(0)

どちらも日本人

 「東京都議会で汚いヤジを飛ばす議員」、「W杯で敗戦後も清掃する人々」どちらも日本人である。問題だと指摘され、また賞賛してもらえたのはいずれも海外からだった。
 日本では当初、いずれのこともあり得る事だと、そんなに話題にはならなかった。
 外国から指摘されてあまりに品性にかけることだと大問題化した。極めてレベルの低い国家であると認識されたようだ。一方で、W杯の出来事はモラルの高い国民だと広まった。
 どちらが本来の姿かと言えば、両方共に日本人で間違いない。
 同じ顔をしているが、極端に言うと多民族性が同居しているのかもしれない。

 中東では、同じイラク内でも民族によって考え方も行動様式も異なり、これらのことが内戦となりおびただしい犠牲者を出している。いっそのこと民族毎に国家が分裂してしまった方が話が早いような気がしている。

 似たようなことが現代史で、ユーゴスラビアにあった。結果的にはボスニアとか民族毎に独立国家となったが、それでも内戦が続いた。

 日本では、ある時期に民族の大融合があったのだと解釈するのが妥当なのだろうと考えている。従って様々な人々がおり、何でもありの国家・国民となったのかもしれない。八百万の神々が並立していてこれらを崇拝してやまない。さすがにイスラム教だけは日本人には苦手のようだ。

 ではいつ頃に日本人の融合が始まったのか、「和をもって尊しとなす」の聖徳太子の時代から、長い長い年月をかけているのだろうと思っている。日本にもおびただしい内戦があった。戦国時代に調略ということがあった。敵対相手からの裏切りや、闘わずして勝つなどの策略である。民族間同士の戦いでは有り得ないことだ。大きく言えば騙し行為である。こんなことも脈々と続いているのかもしれない。
 現代は表面的には民主国家となったが、様々な問題を抱えているのは言うまでもない。

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by watari41 | 2014-06-26 19:47 | Comments(0)

感性

 小林秀雄さんは、「科学」と「精神」についても面白いことをおっしゃっている。
 「科学」とは物事の法則を明らかにすることであり、一つの法則が発見されると、それは発展し続け限りなく発達してしまう。
 「精神」とは心の動きを示すもので、科学とは別物である。これを物理的に解き明かそうなどとされるが無理である。
 科学技術が異様に発展した現代社会を予言しているかのようでもある。人間の精神状態が追い付いておらず、それこそ精神病と言われるものが多くなったことを言い当ててもいるようだ。

 美人を前にすると、現代人なら当然ながら誰しも「この人は美しい」と思う「感性」を持っているものだ。これを科学的に解き明かそうとすると無理がある。目鼻立ちや顔の位置関係だとか、胴体や足の比率だとか、肌の色素がどうだとかの話になるが解析は困難というより土台無理なことである。
 人間の感受性は、これらを瞬時に理解してしまう。
 また、その美しさは表面的なものか、内部からにじみでているものなのかまで感じとってしまうものだ。小林さんのいう事を私なりに理解したものである。間違った解釈かも知れないが。

 また「もののあわれ」という表現が昔から使われてきた。現代人には、うら寂しいみたいな感覚で捉えられているが、ものの本質は何かということを昔の人はこういう表現で行ったというのである。現代に生きる我々は科学的なことを逸脱している話だと、例えばオバケのことなど誰も相手にはしない。
 そんな感受性を「大和こころ」という。戦前には大和魂などと勝手な解釈変更がなされてしまったが本来の意味は異なる。日本の気候風土などから長年かけて醸成されてきたものである。日本人ならだれしも持っている感覚なのである。

 科学万能みたいな時代に生きている我々は、こんな感覚を失いつつあることを自覚させられる。


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by watari41 | 2014-06-21 17:51 | Comments(2)

質問力


a0021554_11313885.png 1902年に生まれて、30年も前に亡くなった小林秀雄さんの新刊本が今頃でている。(2014.3月新潮社刊行) 何故かと言うと、講演とその質問の応答集だったことがある。我々の一世代前の「知の巨人」でもあるが、「書く文字」と「話す言葉」は全く異なるもので、講演を文字にすることを許さなかった人である。録音はもちろん、速記さえも許可しなかったのいうのだ。

 当時、怒られるのを覚悟で録音しておき、遺族の了解も得てここに出版がなったというのだから面白い。小林さんの意をくんで生の声のCD版も販売されている。
 最近では作家の対談そのものが、文字になっているのだから小林さんは頑固だったのだ。

 今から50年も前に、我々と同じ世代の人達に対する講演録で、今にして読んでも大変に示唆に富んだもので、私などのド凡人には、たまらなく面白いものである。

 その講演集で私は、今時の言葉でいうと「質問力」だと理解したが、良い質問というのは講演者の言わんとすることをきちんと理解したうえで、なおかつ講演者の言い足りない分を聞いてくる。こういう質問だと、回答する必要などないことになる。質問者は後援者と同じレベルに到達しており、確認のための回答を得るに他ならないからだという。

 小生などは、講演を聞いた後で、誰も質問者がいないと、講師に失礼かと思い余計な質問をしてしまう。バカ丸出しである。

 小林さんは何故、文字と言葉の違いにこだわるのか、それは「古事記」を研究して以来のことであるとおっしゃる。本居宣長という江戸時代の人が、古事記が編纂されて以来約千年ぶりくらいに本格的な研究をされている。現代人から見ると古事記は信ぴょう性にかけるおかしなものだということで片づけられてしまうが、古事記は代々の人が暗誦で伝えてきたものを、漢文字が日本に伝来した時に、その言葉を無理くり漢文字にしている。従って当時の人の心境になって、言わんとすることを当時の言葉に立ち返り、それを理解するしかないのだとおっしゃる。本居宣長の研究でも知られる小林さんの話は説得力がある。

 

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by watari41 | 2014-06-16 20:36 | Comments(2)

花子とアン

 このブログを読んでいる人などは、きわめて限られたもので、およそ百名の方々の名前と顔はほぼ一致するものだった。

 ところが、ある時からこの数字が一桁増えたので驚いてしまった。
 何のことはない、朝ドラの影響なのである。主人公の学友が柳原白蓮なのである。その白蓮と美智子様の関係で検索すると一発で出てくる。そこを辿って小生の「回想」に入ってくる方々が多い。
 ど凡人たる小生のブログなど実にくだらないものなのだが、人づてに読んでくれた方の紹介で広がっているようだ。もちろん、小生が他人に紹介するなどという心臓の強いことなど出来るはずもない。

 テレビの影響たるや甚大なものがある。「白蓮」に関するものは多少出来がよかったものなので読んでもらっても安心とは考えているのだが。

 バラエティ番組を見ていたら絵などを描かせて「ド凡人」・「才能無し」などと芸能人をおちょくるものがあった。小生の作文は、中級のド凡人と認識しているが、うぬぼれかもしれない。中には読んで褒めてくれる人もいるが、お世辞か、本当ならその人は失礼ながら才能無しということになるのだろう。小生もそんなレベルでしかなかったが在職の頃に相当に訓練された。
 しかし、考えていることをそのまま表現できるほどの高さでないことは確かだなことだ。
 生涯行きつことなどできない目標でもある。

 もう一つ、読者を増やしている入口が「天才囲碁少年」である。6月8日のNHK杯で、まず一勝をあげた。順調に才能を開花させている。
 才能があっても、それはプロの壁を突破できない程度のものだったり、高段者にはなれないものだったり、あるいはタイトルに手が届かないレベルだったりといろいろある。一力遼君は16才にして七段となり最後の壁の直前まで到達した。宮城県出身のプロ棋士は57年ぶりとか。私と同じ世代に石巻出身の阿部さんという高段者がいた。
 私は「才能なし」の下級部類でしかない。60年間もやってて、やっとこ田舎初段である。

 本題からはずれた話になった。ド凡人が書くのは、こんな程度のものだ。それにしても翻訳者の村岡さんはすごかった。朗読家としても凄い。その口調を何となく記憶している。
 

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by watari41 | 2014-06-10 11:37 | Comments(2)

田舎町の大都市化

 先日、我が町の町長選挙があった。投票率49%の低さに衝撃を受けた。
かつてのどんな選挙にもなかった低すぎる投票率なのである。参議院選挙などと比較してというのもおかしいが、そういう大型の選挙に比較すれば、最も身近な選挙では想像もつかなかった数字である。

 大都市での首長選挙並みの投票率でしかない。田舎町の意識が大都市化してしまったのである。数十年前の町長選だと我々も相当にヒートアップしていたものである。
 しかし現代社会はクールになりすぎてしまった。
 どうにも物足りないものがある。関心がなくなってしまっていると言うのが実態である。田舎町がそれでは困る。隣は何をする人ぞになってしまった。
 小生は、この欄でも触れたことがあったが、3種類の住民が存在している。
   1、原住民(3代以上に渡って住み続けている:江戸っ子などの基準で)
   2、新住民(現在の世帯主が新規に住宅を求めて住み着いた)
   3、移動住民(アパートや官舎などに住んでいる方)
 仙台に近い田舎町なので、2から3のウエイトが高くなってきている。

 保守系新人2人が立候補すると、公明党と共産党がどちらに付くかで大勢が決してしまう。今回は一方に偏ってしまった。それを自民党が追認するという形でなってしまったのが新聞紙上にみる県内版の指示・推薦情勢で、その通りの票数結果である。

 少し昔なら、お互いの立候補者のことを十二分に知り尽くしている有権者が70%くらいはいたものだ。その上で義理と人情を天秤にかけたりして投票していたものだった。そんな時代がむしろ懐かしくもある。

 民主主義の危機とか何だとか昨今は騒がしいが、投票のフリーハンドぐらいは持ちたいものだが、投票率の低さと相まって投票所に行くまえから固定化されてしまっているのは気がかりである。

 

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by watari41 | 2014-06-05 21:22 | Comments(0)