<   2013年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧

仙台時間

 もう死語になってしまったが「仙台時間」を聞いて懐かしいと思う方は相当な年配者である。
 50年前には立派にまかりとっていた言葉である。
 会合の定刻になっても人が集まらない。開始時間が30分くらい遅れることを当たり前としたものである。仙台時間だから仕方ねっぺ。
 全国的にも〇〇時間と呼ばれるものはあったのだろうと思っている。
 もちろんビジネスの世界では、こんなことはあり得ない。列車だって定時に走っていた。だが田舎の会合では通用していたのである。先に来た人たちは世間話に花を咲かせていた。地域のコミニュケーションが計られていたというべきだろう。
 現代社会では、もちろんこんなことはあり得ない。そのかわりにコミニュケーションが無くなってきているのは疑いようもない。近頃はお年寄りを訪ねて、地域でこんなことがあるよと話をすると大変に喜ばれる。
 専門家は、現代の地域コミュニティは、開業医の待合室にあるなどとおっしゃる。その通りなのかもしれない。駅の待合室だって今や椅子が数個しか置いてない。

 時間の正確さと反比例するかの如く人情も薄くなってきているのかもしれない。時計の正確さと安さには、ただただ驚くしなかない。昔の柱時計の如きは、今や縄文時代の如き感覚すらしている。一日に一度ネジを巻いてラジオの時報に合わせていた。翌日にはもう10分もくるっていたりする。

 大昔には、年・月・日を司るのは権力者であると天体観測に力を入れていた。
 現代人は時間に支配されてしまったかのようでもある。時計とテレビの時報を見て、合っていると安堵したりしているが、現代人からみればこれは当たり前のことでもあろう。
[PR]
by watari41 | 2013-06-26 17:08 | Comments(0)

アテルイの敗北

 福島県南相馬市から宮城県亘理町にかけて海岸線沿い40kmにおよぶ地帯に古代製鉄を物語る鉄滓(カナゴとかカナグソあるいはノロと呼ばれている)が、いろんなところで見つかる。
 何時、誰が、どんな目的でなどはわからないままであった。
 本格的な発掘調査が行われたのはわずか30年ばかり前のことでしかない。福島県が実施したもので、概要が判明した。
a0021554_20203585.png著者:飯村均(福島県文化振興事業団)、発行:新泉社、書名:律令国家の対蝦夷政策。2005年発刊。
 この発掘で、鉄滓は2mもの層状になり、発見されたものだけで総計千トンを超える大規模なもので、炉の跡も多数見つかり一大製鉄基地をなしていたのである。年代は西暦670年頃から870年頃までのもので、坂上田村麻呂将軍が10万の軍勢を率いてアテルイと戦った800年頃に製鉄の最盛期を迎えていたことが判明したのである。
 単純に考えても、万余の軍勢が武装するにはおびただしい「鉄」が必要なことは当然である。しかも現地でこれを調達出来ればこの上ないことである。
 先に放映されたNHKドラマ「アテルイ」では、岩手県の現地でも製鉄している様子が出ていたが、南相馬市の規模からすると比較にならないものであっただろう。すなわち大和朝廷軍の物量に圧倒されたのだということがわかる。
 大化の改新(645年)以降に宮城県中部辺りまでは比較的早く律令制度が取られたようだが、一般に蝦夷と呼ばれた東北の人々、わけても岩手県の人々は、大きく文化の異なる朝廷側に服することをいやがったのである。この遺跡をみると、如何に朝廷が東北侵略を本気でやったのかが見てとれる。
 遺跡は、鉄滓の見つかり状況などから宮城県南部にも確実に存在するはずであるが、県が異なるので、福島でしか発掘されていないのは残念なことである。 
[PR]
by watari41 | 2013-06-20 20:54 | Comments(4)

政宗の汚点

 「十人を殺すと殺人だが、百万人を殺すと英雄となる」誰が言ったことだか。
伊達政宗は、宮城県北の佐沼城で、老若男女を含む2500名を虐殺した。
戦国時代も末期のことである。当時の城主を追い落す策略として、政宗は民衆の一揆を煽ったのである。城主を追い出し謀略は成功したかに見えた。
 しかし、豊臣秀吉はこの状況を見逃さなかった。政宗に一揆の鎮圧を命じたのである。城主の抜けた城に籠った群衆はとまどった。政宗に煽られ、今度は政宗から攻められる。城内は怨嗟の声に満々ていたのだろう。こうなっては逃げだす者がいると事の次第が露見してしまうと、全員の首をはねたのである。
 城から少し離れた位置に首檀と言われる、小高い丘がある。今も気味が悪いとあまり人が近づかないようだ。
 わが郷土史のバスは、これを遠望して過ぎた。

 古今東西を問わず一旦、戦争状態になると、軍人・民間人を問わず多数の被害者がでる。人道上という言葉はあるが、実際には何でもありのことになってしまう。仙台・東京の大空襲もそうである。原子爆弾に至っては、決定したトールマン大統領だけではなくアメリカの汚点として記録されよう。
 南京大虐殺にしても、数字の多少はあるのだろうが、事実であろう。
 他国との戦争であろうと内線であろうと、戦争が開始されれば惨いことになってしまう。
 慰安婦問題なども、こんな戦時下での出来事である。70年を過ぎて尚重大問題視されているが、日本の汚点であることは間違いない。
[PR]
by watari41 | 2013-06-15 22:26 | Comments(3)

二人の殿様子孫

 伊達騒動は仙台領内でそれぞれに2万石を有していた「涌谷伊達氏」と「登米伊達氏」の領有権争いが発端であわや本藩62万石が取り潰しの危機にさらされた事件である。

 我が町の郷土史会は、先日貸切バスで当地を訪問し現在の当主お二人にお会いしてきた。私と同年代の殿様の子孫である。
 登米伊達さんは、当時と変わらぬお屋敷にお住いである。広大な庭園があり、居宅は350年前のものである。補修はなされているものの、近代住宅に住む我々から見ると何とも不便なことに見える。維持管理の大変さは言うまでもないことだろう。ご自分で植木の剪定までされているようだ。お住いは私有地でもあるので税金なども支払う必要があり、現在もご当主は勤務を続けられている。下々の私などが同情してしまう。
 庭園には400年物であろう見事な赤松の巨樹が沢山あり、さらに60種類のつつじを眺める様はたとえようもないくらいだ。拝観料でもいただきましょうかと当主は笑う。
 自宅の近くには、伊達騒動当時の殿様のこれまた立派な御霊屋がある。その鍵を開けていただくと、内には重厚な作りのもう一つの建築物がある。屋根が極めて重そうである。それにしては柱が細い。重量を巧みに分散する仕掛けがあるのだという。一般には見学出来ないものを拝見した。

 登米を後にもう一方の主役である涌谷へとバスは向かう。代々の当主が眠る墓地で、ご当主と説明役である忠臣のお一人に迎えていただいた。騒動当時の殿様は逆臣原田甲斐に斬られて死亡し伊達本藩を救ったとされ、立派な五輪の塔や御霊屋がある。
 事件当時に忠義を称えらえたのはよいが、その後に仙台本藩が幕府より命じられた日光東照宮の改築を涌谷伊達家に丸投げしたのである。多額の財政支出を余儀なくされ窮乏してしまった。その後の領主の御霊屋は粗末なものとなり、敷地は用意されたものの墓石ですまされてしまった。
 そんなことも一因なのだろうか、明治維新の時に涌谷伊達氏は、旧来の姓である亘理氏へと改名した。
 涌谷の殿様は500年前には我が町の領主だったのである。そんな往時を偲びお寺の本堂でお布施を差し上げ、会員一同はお経に聞き入った。こちら涌谷町の現代の殿様は忠臣のお蔭もあるのだろうか悠々として見えた。

 未だ発見されていないが、我が町のどこかに九曜の紋が入った何百年も前の領主の墓石があるはずだ。
[PR]
by watari41 | 2013-06-09 12:08 | Comments(0)