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心の除染

 我々日本人は、具体的目標ができると、特に技術系のことに関しては、きわめて速く目標を達成してしまう。今回の放射能汚染問題も、研究室レベルでは、数々の成果が出ており、国家的意思が固まれば除染作業は急速に進むのではないかとの期待を持っている。

 何しろ、これまではそんな研究をすること自体がダブー視されてきた。日本の原発は事故を起こすことはあり得ないのだから、そんな研究をすると自体、やはり原発は危ないのではとの危惧の念を持たれてしまうと言うのが、その理由で、そんな研究者には、戦前の特高警察の如き監視員がついて見張られていたというのだから、何とも驚くしかない。我々一般人には原発安全神話を骨の髄まで染み込ませられていた。

 電力会社にとっては、原発は極めて魅力的な発電方式なのである。安いコストでできる。それは、海上も含めた周辺の安全や、使用済み核燃料を処理してもらうためにフランスに送る際に、巡視船の護衛をつけたり、、いろんな経費を国がまかなっているので、結果的には安くでき、電力会社の利益は多くなる。電力社員は我々から見ても優雅な生活を送っていたと思っている。

 わが町をはじめ多くの市町村のガレキ放射能は、通常レベルなのであるが、何故か受け入れ先が、少ない。全国の自治体では少しでも危険なものは拒絶するという態度なのである。

 ガレキや排水の除染が進んだとしても嫌なものは嫌だということで受け入れ候補地の選定は暗礁に乗り上げそうだ。そこに住む人間の「心の除染」と言ったものが、今や最も重要なこよになってきているのだ。

 センセーショナルな話には飛びつくが、地味な話には付き合ってくれない。何もかも放射能は危険だという概念から抜け出すには、根気よくデータを示し続けるしかないのであろう。

 物理的放射能被害を受けたのは数十万人、風評放射能被害などもそうだが、心の汚染を受けてしまった人は、おそらく一億二千万人の全国民なのだろうと思っている。
 もっと冷静に考えて、少なくとも心の除染だけは早く済ませてもらいたい。それには安全基準をしっかりと示すことが大切だ。それがないと前には進まない。
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by watari41 | 2012-02-26 22:57 | Comments(4)

手術

 冠動脈というのは、おぼろげにはわかっていたが、天皇陛下手術によるテレビの繰り返し報道によって、その実際まで詳細に我々に知らされた。こんなことでもないと、病気の一つ一つや治療・手術のことなどはわからない。

 もう8年も前のことになるが、天皇が前立腺がんを手術された時に、たまたま私も同じガンが見つかって切り取られた。ご病状の詳細は発表されなかったが、同病者としておおよその感覚はつかめたものだ。ガンの進行は中程度で、他に転移する一歩手前で処置されたのも似通っている。通常この種の初期の癌手術は3時間程度で終わるらしいが、7時間もかかってしまった。周囲の転移がありそうなところを焼き取るのに時間がかかったのである。
 私などは、体力がないのでこの手術で、何年か分もの寿命が失われたような感覚だったものだ。

 前立腺は切除すると、その部分の尿管がなくなるので、そこに細い人工のストローを差し込んで継ぐのである。人間というか動物の体がうまくできていると思ったのは、そんな時に備えてというのだろうか、男子シンボルの根本に尿管がたぐまっているというのだから驚いた。数cmは伸びるのだという。それを差し込んだストローの外周に沿って伸ばしてゆき尿管同士が合わさったところで、今回の冠動脈バイパス縫い合わせの如き作業で結合したのだろう。当時はそんなことを考える余裕もなかった。
 一週間程度してから、縫い合わせがうまく結合したかのレントゲン確認をして、局部麻酔をしてからオチンチンの先より、前立腺部分に入れてあるストローを抜き取って完了となるのである。

 愛犬家から聞いた話では、犬猫の前立腺癌も同様のことらしいのである。
 私は不覚にも、前立腺の働きなどはそれまで全く認識したことはなかった。物理的に男子機能を失ったのである。
 天皇陛下が前回のご病気の時に、今回の冠動脈の如き詳細な状況を放送できなかったのは、前記の如き憚られることからだったものだと思っているのである。
 このブログ「回想」も、前立腺癌の病後から始まったものだ。
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by watari41 | 2012-02-22 11:12 | Comments(4)

習性

 イノシシは、畑に張ってあるわずか1m程度の柵を飛び越えようとはしない。常に下からしか入ろうとしない。面白い習性を持っている。
 動物は少なからずいろんな習性をもっている。我々人間もその仲間である。どんな習性があるかというと、右ききの人が圧倒的に多いことにもよるのだろうが、左に曲がることを苦にしないというか、当たり前だと思っているフシがある。
 野球の各塁ベースの位置、スケートやトラックでの走るコースなど、これが逆に回るのだったら面くらうことになってしまう。運動会リレーで前のランナーからバトンを受け取り、逆回りした子供がいて、大ウケを狙ったのだろうが、失笑を買うことになったことを回想している。応援にきていた祖父母は何とも恥ずかしいとすぐさま帰ってしまった。今も語り草である。
 犯人逃亡の捜査でも、見失った時には、左に追いかけると大方は捕まえることができるのだそうである。人は無意識にそういう行動をとるという話を聞いた。

 先天的なものなのか後天的なものなのかよくわからない。そういえばフィギュアスケートの回転にしても、マオチャンなども左回りに回転している。
 そもそも地球の自転にしても太陽に対して左回りであることが理由なのだろうか。

 我々は頭で考えて行動しているようだが、無意識のうちに命令されているものがあり、それが習性なのでもあろう。「わかっちゃいるけどやめられない」という歌があった。これは習性というよりも惰性なのかもしれない。意識改革をなどと言うは易くして行うは難しである。

 目から鱗が落ちるということがある。上記のようなことも言われてみないとわからない。考えてもみなかったことである。人間の習性についてもあんまり考えたことはなかった。

 意識して探せば、もっと沢山の習性がみつかるのかもしれない。しょせんは動物であるということを忘れてはいけないのだろう。
 最も高度な知能ゲームと言われる将棋名人も機械に負けた。古今の名人の考えている様を徹底的に機械化した結果でもある。人間知能の習性を覚えこまれてしまったのだと思っている。
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by watari41 | 2012-02-17 20:20 | Comments(2)

浪費

 「もったいない」「節約」という概念が、我々年代以上の人々には滲みついている。アフリカの女性がこの言葉を口にしてノーベル賞をもらった時には驚いたものだった。

 しかし、日本の文化遺産として目に見える形で残されているものは、いずれも「浪費」の産物であると考えている。京都・奈良の古寺にしても、仏教文化とはいうものの時の権力者の浪費に他ならない。これらの古寺も江戸時代には荒れ果てていたそうだが、我々の鑑賞に耐え得るように修復したのが5代将軍綱吉の母である桂昌院が幕府の財政出動をさせたので、今に残ったというのである。浪費は悪いことのようにも思われるが、当時にあっては多額のお金が市中に出回り、元禄時代の経済が活性化して文化が花開いたのだという評価もある。

 岩手県平泉の金色堂にしてもしかりである。藤原清衡の仏心からの造営ではあるが、壮大な浪費だったと言わざるを得ない。しかし源頼朝も破壊することをためらい後世への歴史として伝わるものを建造した。

 昔の絵巻物などもそうである。源氏物語絵図・保元平治合戦図屏風など世界的名画も待賢門院璋子という白河天皇と鳥羽天皇から寵愛された女性が絵巻物趣味で金に糸目をつけず、立派な絵を描かせたのが元になって、その技法が発達したのだというから面白い。

 海外でもそんなことが言えそうだ。ルイ14世の浪費が現代のフランス料理の基盤だったり、ドイツのノイシュヴァンシュタイン城なども狂人となった国王の文化遺産として残る。浪費にも両面があるようだ。

 我々個人が浪費したところでたかが知れているが、チリも積もれば山となる。国家全体としては大変なことになってくる。しかし蓄積された富をいろんなところで浪費してしまっている。
 現代の浪費には文化的価値が全くないのが残念である。目の当りにしたのは年金資産を浪費した保養施設があった。小渕首相の時には景気刺激対策だとして100兆円ものバラマキ浪費をしたが、どこかに吸い込まれたかのように消えてしまった。

 消費は美徳であるなどと一時期には言われたことを回想しているが、国家的消費は浪費にしかなっていないのは残念なことである。
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by watari41 | 2012-02-11 11:59 | Comments(4)

国民総背番号制度

 この制度案は、いつのまにか浮上しては消えるということを何回か繰り返している。
 最初に持ち上がったのは、佐藤栄作さんが首相の時だというからもう50年も前のことになる。その当時は現在のように、コンピュータも発達しておらず、何よりも大金持ちが全ての所得を把握されることをきらって、実現しなかったのだと言われている。

 現在では状況が全く違っている。私などでも10種類を超える番号を背負っている。在職していた頃には「社員番号」というのがあった。現在でも、自動車運転免許証番号、年金番号、健康保険証番号、病院に行くと診察券番号・・・各銀行の預金口座番号、白色納税者番号、・・・町の納税者番号・・・住基番号。大変な数だ。

 銀行口座などは、都市銀行であっても町の地方銀行ATMから簡単に残高照会や引き落としができるのだから、全国共通のシステム構築がなされているはずだ。特定の個人がどれだけの預金があるのかなどはたちどころに判明するはずだ。

 では何故、国民総背番号制度が実現できないのだろうか。これらのシステムを結びつければ簡単にできそうだ。何が問題なのだろうか、個人情報の保護なのだろうか。これとて私ごときものは、恥ずかしながらと言うか残念ながら隠しておくべきようなことは何もなくなった。公開されたところで何の不利益もない。大多数の方々がそういうことのはずだ。

 個人が沢山の番号を背負っているおかげで、ものすごい無駄が発生しているように思っている。だがそのムダで飯を食っている人もいるのだろう。住基番号には、その維持費だけで年間200億円ともいわれる。

 在職の頃、超ワンマン社長のいる会社と取引があった。東京での打ち合わせ中に20番を呼んでくれと秘書に命じると、山形の工場長が電話口にかしこまっているのであろう、出てくるのである。懐かし回想である。

 銀行や病院に行くと○○番さん窓口にお越し下さいとの人工の音声が流れてくる。気色の悪いことだが、そこだけのテンポラリー番号が与えられている。
 国民総背番号にしたところで、生きている間のテンポラリーNOにしかすぎない。気楽に考えることにしている。

 
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by watari41 | 2012-02-05 10:45 | Comments(4)