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大阪の選挙

 「ガラガラポン」というか「ご破算で願いましては」ということを皆が期待していたのだと思う。
 改革とか革新という言葉が何度も言われてきていたが、仕組みが変わらないうちは、何にも変わらない、仕組み変えても成功するとは限らない。大阪都はこれからどう仕掛けていくかが問われることだろう。

 大阪の存在感が著しく乏しくなってきていた。
 私は昭和30年代の末に大阪にいたが、そのころからもう大阪の地盤低下が盛んに言われてきていたことを回想している。その時代からほとんど有効な手が打たれていなかったのだろう。大阪の存在感が大きければリニアモーターカーも名古屋で一旦打ち切りなどにはせずに無理しても大阪まで延ばしたのだろう。

 私が在阪の頃、松下幸之助さんは、神様みたいな存在になっており、いろんな警鐘を鳴らし続けていた。政治を変えなくてはならないと、政経塾を創設して今や総理大臣まで排出しているが、何も変わったところは見られず残念に思っている。期待を裏切られた。

 多くの人たちは、いずれは何かを変えねばと思っていた。そんなことに貢献したのが島田伸介さんなのだから何とも皮肉である。橋下さんは彼の番組に出演し知名度の上がったことが、知事に当選できた所以でもあったはずだ。しかし、いくらトップに立っても個人がやれる範囲というのは限られている。挫折してしまい何が何だかわからなくなってしまった方もいる。かつての東京都知事の青島さんなどだ。

 大阪市役所の不祥事というのか、あきれかえるような無駄遣いなどは過去に何度も報道されてきていた。逆に職員からみれば、きわめて居心地の良いところでもあったのだろう。平松さんは何がしかの改善実績を上げているのだろうが、現状打開にはそんな程度の努力では追いつかない課題が山積だったのだろう。

 橋下さんも教育改革では、やや強引すぎるところが目立つが、現実との妥協もあり得るのだろう。独裁という批判にもそれ相応に対応してゆくことだろう。

 ひるがえって、わが宮城県と仙台市の関係を見ると、同様なことが言える。仙台は政令都市になって日が浅いので、そんな矛盾もいまのところはあまり見られないが、顕在化してくるのだと考えている。主要な施設は仙台市に集中している。県民会館と市民会館など一つでよいはずだ。役所も議会も道路を挟んで向かい同士である。一緒にすべきという議論がいずれ持ち上がるのだろう。
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by watari41 | 2011-11-28 11:41 | Comments(2)

芸術の日?

 11月23日、勤労感謝の日である。戦前は新嘗祭といい、五穀豊穣を祈願する日でもあった。私は2011年のこの日、芸術の日みたいになった。午前に仙台の美術館でフェルメール展を見た。世界史に残る有数の画家として知られ、日本人には最も人気が高い。現存する絵は30点くらいしかないのだという。後世に贋作が多く、盗難にも度々合っている。ナチスドイツの最高幹部が贋作を購入したことでも有名だ。NHKもまた巧妙な贋作トリックの特集番組を組んだことがあった。
 私にはそんな芸術を見る目はないのだが、物語性に富むそんな画家の絵が仙台にきているのだから見物に行かない手はない。美術館はそんな人出で大変なにぎわいだった。駐車場の前には待ちの車の列が何百メートルにもわたって続いている。待ちきれないので午後から予定の東北大川内キャンパスの萩ホール駐車場に向かった。歩いても15分程度の距離だ。入場すると物見高い人の山である。フェルメールと同じ時代の有名な画家の絵も展示してある。300年以上も経過しているとは思えないきれいな絵である。どれがすばらしいものかは私には見分けがつかない。奥まったところにあるフェルメールの「青衣の女」の絵の前はこれまた行列で、わずかづつしか動かない。静かな光の天才芸術家と言われるだけに、たしかにすごいものだ。それでも死後にしか人気がでなかったようだ。
 その後に宮城県美術館の常設展示をみたが、私にも一桁以上のちがいがわかる。
 昔の著名な海外美術展は京都と上野だけで終わるのが常だった。私はたまたま昭和40年頃に京都岡崎美術館にミロのビーナスが来た時に見に行ったことを回想している。仙台にも来るようになったのだ。

 昼食は川内の学食でとった。バイキング風で最後のところで重さを計られ料金が算出される243円だった。
 午後は毎年、この時期に招待を受ける同級生の合唱を聞いた。クールルミエールという仙台でも指折りの合唱団である。「静かな光」という意味の名前であろう。偶然にも午前のフェルメールの絵とも合致する。結成50周年記念でもあるそうで、創設時から指揮者の戸田さんは80歳に近いのだろうが若々しい。
 私には音楽ももちろんわからないが、10年も聞いていると何となく感じがつかめてくる。ミサ曲が多かったが最近は日本の曲も多い。宮沢賢治の「雨にも負けず・・・」が見事な合唱になっている。日本の詩が西洋化したのか、西洋の曲が東洋化したのか、いずれともとれる。面白い。
 最後には震災の鎮魂を込めてフォーレのレクイエムであった。最初にピアノが梵鐘の如き音を出すのには驚いた。それに続く歌は、まるで読経のようでもある(アチラの言葉なので、お経同様に意味もむろんわからないのも同様だ)。鎮魂には洋の東西を問わない。電子オルガンが時に笛にも似た響きのでることがあった。
 また一つ鎮魂の儀式に出た感覚で会場を後にした。
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by watari41 | 2011-11-23 21:02 | Comments(2)

マンボウさんの回想

 今年84歳で亡くなられたマンボウさんが、日経新聞の私の履歴書に一か月に渡り連載されたのが5年前のことで79歳の時である。それが一冊の本にまとめられて回想記として刊行されたものを読んだ。
 精神科医であり、かつご自身も躁うつ病を患っていることを、面白おかしく書いている。いろんなことに手を出されて悔いなき一生だったようだ。晩年は動けなくなってきたが、娘さんが最後の博打をやりましょうとマカオに誘ってくれたので行ってきたが、もう静かに死なせて欲しいという心境だという下りが特に愉快だ。ユーモアとサービスの精神に溢れた方だったことが多数の著作でわかる方だ。

 私も町医者にうつ病と診断されたのが4年前のこと、それ以来薬をを飲ませられているが、別にどうということはない。本人には自覚しがたい病気なのだろうか。

 マンボウさんは、躁状態の時には仕事がとてつもなくはかどるそうだ。そして間もなくうつがくることもわかるそうで、精神科医ならではのことなのだろう。

 今次、大震災での被災者も一応の落ち着きを取り戻しているが、普通の人が突然に自殺するケースが後を絶っていない。身近にいる人も気が付かないのだということだ。急性の「うつ病」になったのではないのかと想像される。マンボウさんによれば、軽度のうつ病や重症のうつ病患者は自殺しないそうである。中程度の患者が最も危ないそうで、あの世とこの世の区別がつかなくなることもあるようだ。

 亡くなった人のことを考えているうちに、自分もあの世へという気分になるのだろう。私もそんな気分になっているのではなかろうかと町医者は推測したのであろうとしても不思議ではない。しかし自分では大丈夫のつもりである。

 今朝の新聞(私はもう河北新報しか読んでいない)によると、震災被害者にアルコール中毒患者が増えているようだ。やむを得ない気もする。マンボウさんも仙台の大学で大酒のみになってしまったと書いているが、晩年は体が受け付けなかったようだ。私も現職の頃は、大きなヤカンで燗した酒を同僚と飲んでいたことを回想しているが、もはや心臓が酒を拒否しているような感覚がある。
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by watari41 | 2011-11-17 17:12 | Comments(4)

最初の瞬間

 曲名を知らされていなくても、オーケストラで指揮者がタクトを振りおろして、まだ楽器が鳴り出していない時点で、もう曲名のわかってしまうのがベートーベンの「運命」なのだそうだ。

 同様に百人一首の「かるた」大会でも、読み上げ者が発音しかかったところで、句の全てがわかり、素早く札に手の伸びる瞬間を見る。

 人間誕生の瞬間は、母体から出た時なのか、受精卵時なのかは、判断の分かれるところところだが、現代では生まれた瞬間としている。仏教では受胎の時を生命誕生として、「享年」とは生命の宿っていた時間のことである。

 最初の瞬間に難儀するのが、モノを動かす時である。列車や車もそうである。静止摩擦が働いている。だから最初に大きな力を要するが、後はそんなに力がいらない。
 政治改革なども同様であろう。最初の抵抗力は強大なのである。これを成すことは難しいのである。

 これとは逆に、最初の瞬間に全エネルギーを使い果たしてしまうのが「爆発」である。その途方もないものが「ビッグバン」と呼ばれる宇宙の誕生でもある。ビックバンの百万分の一秒後はどうったかなどと議論されているのだから、想像もつかない世界である。その宇宙エネルギー余波に137億年後の我々も浴している。その後の太陽は誕生し、地球内部はいまだに溶けた鉄の状態であるようだ。

 爆発させずに、徐々に使ったつもりだった原子力も、結果的には同様なことになってしまった。「運命」の扉が、とんでもないものを開いてしまった。ジャジャジャーンというという音が暗示しているかのようだ。

 最初があれば終わりの瞬間もある。物理的な我々の終わりの時は、あっけないものなのだろうが、死に意味づけをしている葬儀がある。坊主がエィーという気合ととも、タクトを振る。何という名前の棒なのだろうか。あの世へ送り込む最初の瞬間なのだそうだ。
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by watari41 | 2011-11-12 11:41 | Comments(4)

恥ずかしながら

 旧日本軍の横井庄一さんがグアム島でのジャングル生活から帰国したのが昭和47年のことであった。「恥ずかしながら帰ってまいりました」が流行語になった。あれからもう40年にもなる。

 私も70代を迎えて、今や恥ずかしいことや秘密にしておくようなこともなくなってしまった。それではダメジャンという笑点で人気の落語家がおりますね。

 10月末から11月初旬にかけては滅法に忙しかった。日本人はこの時期にみんなが忙しくなるようだ。天皇までもがご多忙で体調を崩されたようだ。私も何年か前の同じころに前立腺がんの大手術を受けたので、何となくその具合がわかる。私は腰にきている。

 話は変わるが退職した2000年頃、パソコンの講習を受けたのである。当時はまだ頭の回転も良く、ボケてもいなかった。ワードとかエクセルの上級検定に難なく合格した。今から考えると「恥ずかしながら」の回想ではあるが、県内の学校の先生方に講習をしてくれと頼まれて回ったものである。わが町の公民館でもそんな催しをやった。私が一方的にしゃべりまくって、受講者が理解できたのかどうかもわからなかった。
 当時の同期生というのもおかしいが若くて元気のいい女子がいた。その子が今度結婚をするからとご招待され教会での式に参列してきた。新しい教会で何とも気持ちの良い雰囲気だった。彼女の父親は昨年前立腺がんで亡くなったそうだ。父のつもりで見守ってほしいと頼まれ、恥ずかしながらそんなつもりで祝福してきた。

 11日にはNPOみやぎでのWEBメール講習を引き受けている。こんなことも恥ずかしながら10年ぶりのことになる。わけのわからない講習にならないように、その準備も大変だ。

 おまけに、震災によって地方選挙が遅れに遅れてダブル投票になってしまった。友人・知人も数多く立候補している。田舎では高齢・多選批判などはもろともしない。そうでないとやってはいられないのだろう。「恥ずかしながら」などとは政治家には無縁のものなのだろう。テレビ局は開票と同時の当確を出したいのか。移動中継車がやってきて早々と告示前から、高いパラボラアンテナを押し立てて入念な無線出力の調整などをやっていた。

  「恥ずかしながら」とは我々凡人にしか言えないことなのかもしれない。横井庄一さんは偉大なる凡人だったのだ。
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by watari41 | 2011-11-08 12:43 | Comments(2)