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竜馬伝終わる

 何とも格好のいい「福山」竜馬も終わった。あの時代に武力を使わずして幕府に大政奉還と言う奇跡のようなことをやらせ、さらには「四民平等」という時代に移行させようとしていたのだから、驚く他はない。
 先進的などという言葉を超えた着想と行動力であった。次々と人の心を揺さぶり、動かす人間的な魅力に溢れた人だったのだろう。
 もう少し、生きていれば日本は大きく変わった明治を迎えていたのかもしれない。鳥羽・伏見に始まる軍事衝突も回避されたろうし、東北での官軍との戦争も避けられたのではなかろうか。会津の悲劇もなかったろうし、小さくは、わが町の武士が殆ど北海道に移住することも無かったかもしれない。
 竜馬の最終場面では、中岡慎太郎に蝦夷開拓を語っているが、それが意外な形で実現している。北海道の室蘭に近い胆振地域に4千人ものわが町の人達が開拓に入ったのである。官軍に敗れた仙台藩の支藩たる、わが殿様は家老の進言を受け入れて、北海道移住を決断した。現在の伊達市なのである。竜馬の死と無理にこじつけた感もあるが、町から移住しなかった可能性は否定はできない。

 竜馬が実現しようとした、もう一つは身分制度の撤廃である。これも結局は明治以降にも残った。華族・士族・平民などという区別である。
 日本人は、元来が身分制度を好むのではないかと思われる事例がある。義伯父(伯母が嫁した)は明治31年生まれである。終戦の時に判任官(戦前の官僚の下級の身分)だったそうだ。年老いてから、菊作りを始めたのである。そして町の菊の会に入った。会長は菊名人であるが、在職の頃は役所の単なる雇人だったそうである。その会長が会員にいろいろと指示をだすのだそうだが、伯父は面白くなかったらしい。判人官だった俺に、あいつから指図されるのは不愉快だと菊を止めてしまった。

 柳原白蓮も夫である伊藤伝右衛門と人力車に乗るときに、夫が先に乗ると、伯爵の娘たる私より先に乗車するとは何事ですかと文句を言ったのだそうだ。

 暗殺直前の竜馬はまさに四面楚歌で、誰が殺そうとおかしくはない状態だった。生まれるのが百年早かった。歴史に、もしもは許されないが竜馬が長命していたら日清・日露・太平洋戦争などもなかったかもしれないくらい偉大な人物として評価されてしかるべきなのだろう。
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by watari41 | 2010-11-29 15:49 | Comments(7)

柳原白蓮

 同窓会の時に、北九州市の大チャンより明日(11月12日)NHKの歴史ヒストリアで「伊藤伝右衛門」があるから、是非見るようにとのことだった。私などは「柳原白蓮事件」として記憶しているが、現地から見ると炭鉱王である「伊藤伝右衛門」が主役となるのだろう。事件の詳細は知っているが、映像では見たことがなかった。

 親子ほどに歳の離れた九州の炭鉱王に嫁したのは、大正時代に三美人の一人とも言われた歌人でもある公方家の「柳原白蓮」、その恋の相手は宮崎滔天(とうてん)の息子である宮崎竜介なのである。役者が揃いすぎている。これに朝日新聞が加わったのだから、大正10年当時の騒ぎは推して余りある。

 滔天は、熊本県の義士として有名な宮崎4兄弟の一人である。長兄は八郎と言い、明治10年の西南戦争で西郷軍に組して戦死した。残った3兄弟は、中国革命を目指す孫文に物心両面の援助を与えて明治45年に辛亥革命を成功させるのである。特に滔天の活躍は世に知られた。
 司馬遼太郎は西南戦争を主題とした「翔ぶが如く」を執筆した時に、宮崎八郎の活躍を書くべく関係者を取材した。八郎の甥だという人に会って驚いている。執筆当時は昭和40年代であり、明治10年に死した歴史上の人物を、伯父さんと気楽に呼ぶ人が存在することに信じがたいと小説の中に書いている。

 この「事件」のあった大正10年には、宮城県でも原阿佐緒「事件」が起きている。美貌と才能あふれる原阿佐緒女史に、妻子ある東北大教授の宮崎純が恋し駆け落ちした。これまた有名な事件となった。そんな時代の空気があった時なのだろう。宮城県大和町に原阿佐緒記念館がある。明治・大正の素封家で瀟洒な洋風の自宅が記念館である。

 これに比べ北九州の「伊藤伝右衛門」館は、とてつもなく豪華なものだ。東京で三菱財閥の岩崎邸宅を見学したことがあるが、これに匹敵するものだろう。

 柳原白蓮は晩年にある逸話を残している。現在の天皇が結婚する昭和34年に、民間人との結婚を絶対反対だと表明したのである。当時の風潮はウエルカム一色で、おかしなことを言うと思ったが、自分自身の体験から、全く異なる境遇で育ったものが結婚するとおかしなことになるという反対だったことを今にして理解し得た。果たして美智子皇后は、ものすごい苦労を味わい、何とかそれを乗り切った。しかし次代の皇太子妃は、いまだ苦悶の中にある。時代の先覚者の言をおろそかにしてはいけないのだと思う。
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by watari41 | 2010-11-25 13:54 | Comments(7)

同窓会(5)

 岩国からは広島駅まで約一時間の普通列車である。車両は仙台周辺を走る東北本線から見ると何となく古っぽい。JR西日本と東日本の差異なのかと思う。車窓の景色が白っぽく見えるのは気のせいなのだろうか。ビルの色も白い。天気の関係か。南国なのからだろうか。
 帰りの航空便18:45までは、まだまだ時間がありすぎる。駅の近くにある縮景園まで歩いた。広島藩主浅野氏の別邸庭園である。中国の南湖庭園を模したそうで、見たところは小さいが、中を歩くと相当な距離がある。すっかりくたびれ果てた。
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 原爆の爆心地から1kmと近く、庭園は壊滅したそうだが、中央の石橋だけが残ったという。通常空襲に備えて避難した住民60人もこれまた犠牲となり、庭園内に葬ったのが昭和57年になって発掘されたそうである。悲劇の庭園でもある。真っ黒な巨木の根元が一本残されていた。自然の回復力は何とも早いものだ。今や見事な回遊式庭園となっている。
 仙台も空襲で壊滅的な被害を受けたが、広島はその規模が異なる。原爆投下の責任は免れないものと思う。核爆弾は1945年以降は使えない兵器となった。外交的意味合いの戦略的な兵器と化した。オバマさんへのノーベル平和賞は象徴的な意味合いを持っているが、本人はそこから逃げたがっている。来日しても広島へは来ない。

 長かった2日間の中国ミニ旅行も終わった。切符などはすべて同行のカマさんが用意してくれた。航空機はボンバルディアの74人乗りで満席、わが町上空とおぼしき夜景を眺めながら到着した。次回は2年または3年後に仙台である。みんな元気でいてほしい。台湾の高雄から45年ぶりにかけつけてくれたソネさんにも感謝である。
 今回の幹事団だった旧NKKの皆さんには厚く御礼を申し上げたい。(個人情報に関わるので写真は顔がわからない程度にいたしました)
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by watari41 | 2010-11-21 16:55 | Comments(6)

同窓会(4)

 岩国城でブログをいっぷく。観光協会の写真を拝借する。どことなく仙台の広瀬川と青葉城の関係に似ている。錦帯橋を渡り城内に入って案内板を読んだら面白いことが書いてあった。「要害」という文字である。奇妙なことに宮城県のわが町も「要害」の文字で揺れている。岩国の場合はその経緯が面白い。
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 岩国城主、吉川氏は毛利氏の一族である。関が原の戦いで西軍の総大将となった毛利輝元は、大阪城に入ったので、関が原で毛利軍の指揮を取ったのは吉川広家である。しかし毛利軍は一歩も動かなかった。家康と吉川氏の密約があったとされる。戦後に吉川氏は毛利本家から反発を受ける。徳川幕府は岩国を藩として認めるが、毛利氏はこれを許さず属領だと主張する。そのうちに一国一城令がでて、萩に毛利氏の城があるので、岩国城は取り壊された。そして「要害」と呼ぶようになったのである。平成になってから昔の「城」を再建した。錦帯橋から見える位置に少し移動した。

 わが町の場合は、2万4千石であるが、仙台伊達家の完全な属領である。昔から町の人々はお城とは読んでいたが、江戸時代には仙台藩の「要害」だったのである。数年前に大きな看板が掲げられた「亘理要害」とある。郷土史会の重鎮の方がこれを決めた。しかし商店街から大きな反感を買った。どうして自らへりくだる必要があるのかというのだ。要害は江戸時代の呼び名であり、それからもう140年も過ぎている。こだわる必要はもはやないというのだ。観光価値を損なうようなことは止めてほしいというクレームなのである。「城」の方が格が一段上なのである。決着はついていない。

 仙台青葉城でも呼び名ではないが、似たような話があった。城の櫓(ヤグラ)を再建しようというのであった。観光価値を高めるべく、街中から見える位置が選ばれた。しかし史実からは数mずれている。歴史会からは猛反発を受けた。観光面からすると史実の位置では見えにくい。結局、時の仙台市長は再建を断念した。史実を歪めることはできないということだった。何とも真面目なことである。

 そこからすると官軍側は自由奔放に見える。岩国は観光に徹した。それでよかったのだろう。錦帯橋からお城が見える。史実と異なることは登ればわかるそうだ。
 東北人は概して保守的だといわれるが、それはそれで美徳なのだと思っている。いささか脱線してしまった。(岩国城内家老宅前にて)
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by watari41 | 2010-11-19 20:37 | Comments(2)

同窓会(3)

 「白馬・白狐・・・」古代から白い動物は神の遣いだという概念がある。縁起のいいものである。白蛇もそうだ。なかなか見ることはないが、岩国には約千匹が生息しているらしい。城内にも展示してあった。下の写真はWikiからの転用である。
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 白蛇の正体は青大将だ。その色素が抜けてしまったものである。通常は一代雑種として終わってしまうが、白蛇は子々孫々に渡って続いているというのだから面白い。
 江戸時代に、城の門番の前にニョロニョロと現れたというのだから驚いたろう。捕らえて殿様に献上したのであろう。岩国の宝物だ。
 蛇が苦手な人は多い。私もその一人である。巳年生まれなのだが何ともなさけない。蛇をご神体とする神社は数多い。
 わが町の北隣、岩沼市には「金蛇神社」がある。多大な信仰を集め多くの参詣客がいる。その昔、黄金の色素に変化した蛇が現れたのだろうか。今度、参拝の折に詳しく聞いてみよう。私の財布には金蛇さんのお守りがある。同窓生では残念ながら大金持ちになった人はいないようだ。
 しかしみんないい顔になった。リーダーシップのあったgannさんは長年アメリカの鉄鋼会社にいたそうだ。だが、今や植木職人の棟梁なのだという。そんな頭の角刈りスタイルだ。職人からの信頼も厚いそうだ。

 昭和40年は巳年であった、我々が鉄鋼短期大を卒業する年だった。学校は大阪西隣、尼崎市の北端にあった。
 阪急電車で大阪の繁華街に来るのである。当時の大阪というか関西にはまだ勢いが残っていた。京都からの京阪電車が大阪の中心街淀屋橋まで延びてきた。それを記念して正月に白蛇を飾ったのである。今にして思えば岩国からの借り物だったのだ。

 最近、東京と並び日本の二極と言われた大阪には勢いがなくなった。都市の盛衰とは産業との関連であろう。かつては、全ての物資が大阪に集まり江戸に下った。その機能がなくなった。
 これからは、情報産業の時代ともいわれるが、その実態はまだ掴めていない。一極集中が多極分散化しそうだとも言われるがどうなるのだろうか。わが仙台にもチャンスがあるのだろうか。
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by watari41 | 2010-11-17 17:31 | Comments(4)

同窓会(2)

 翌日(2010.11.10)、岩国の錦帯橋を観光する幸運があった。北九州の八幡から亀チャン、大チャンが、車で来ているので案内してもらった。生涯一度のチャンスだろう。ありがたいことだった。カメチャンは定年後に陶芸をやっている。今回の会場にも最近の作品を全員分持参した。本人は上達がないと嘆いておられるが、なかなかどうして、5年前から見ると格段に進歩したように見受けられる。ダイチャンは、少し健康を害されたようで、年の半分、気温の低い時期はマレーシアのキャメロンでロングステイの生活をしている。まもなく日本を離れるようだ。生活費の安いことを話していた。
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 錦帯橋は見るほどに美しい。洪水に耐えるようにした実用橋であることに驚く。それでも何度か流された。Wikiで調べてみたら、橋のアーチはカテナリー曲線(懸垂線)なのではないかという説が最近浮上しているらしい。双曲線関数に相似のものだ。これが設計された1670年頃、いかに和算が優れていたとはいえ、いささか疑問に思う。懸垂線とは、両端を固定された線材がどのようにたわむのかを表すものである。送電線架設の時にどのようなことになるかを見るのに用いられる。西欧で懸垂線の方程式を発見したのは1691年のことであるからそれを上回る。微分方程式を使うものであるから、益々もって難しい。江戸時代の算聖と言われた関孝和と同世代の児玉という人の設計だ。博物館にも絵図面が残るだけで詳細はわからない。世界遺産も目指しているようだ。
 吉川6万石の総力を挙げた工事だったとある。橋の維持管理費用として渡る人から通行料をもらっていたそうだ。現代の料金は300円だった。(この橋を軽トラックで渡ろうとした平成の大馬鹿者がいて傷をつけ200万円かかったとある)
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 橋を渡ると吉川氏の城内である。家老などの重臣も住んでいた。今は美しい公園に整備されていた。珍しい樹木を見つけた。紅葉のようでもあるが、葉が大きすぎる。幹もすっきりとしている。「モミジバフウ」という表示があった。別名台湾フウともいい、20世紀になってから渡来したものだという。ここ百年で、動植物の世界も大きく変わっている。人間が往来するだけではなく適所があればなんでもやってくる。それを排除するなどはできない時代となった。
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by watari41 | 2010-11-14 20:16 | Comments(6)

第三回同窓会(1)

 島全体が「神」であるという。その名も「宮島」。
 島に人工の建造物を持ち込むのは憚られた。「平清盛」でさえも海中に神殿と鳥居を建設した。塩が引くと、陸になる。うまいことを考えた。
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 現在は松島などと並び「日本三景」の一つで観光の島である。
 我々はここに集った。仙台からだと遠い。しかし、北海道から来る人もいる。45年前に一緒に学んだ同窓生である。日本の高度成長期に対応するということで鉄鋼会社から当時俊英とされた人達、そして蝦夷の末孫と思われる私たち田舎者も同時に机を並べた。

 その同窓会も3回目を迎えた。今回の幹事団は旧NKKの方々である。司会をやってくれた岩元氏は、現在俳句をやっているんですというのだから驚いた。それもひたすら50万円獲得を目指しているのだという。どういうことかといえば。「右衛門」というペットボトルのお茶があり、そこに俳句が掲載されている。その大賞が50万円だそうだ。ハガキを出し続けること数年にして、ようやく佳作にたどりついたということだ。来年(2011)の2月か3月にその句と名前がでるそうだ。コンビニのお茶コーナーを注視しよう。

 それぞれに、みんな歳を重ねた。何人かはもう仏様に近い顔だ。前回はこんなことを言っていて亡くなったものがいる。気をつけよう。
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 翌日はゴルフ3組と我々観光組とに分かれた。
 びっしりとみやげ物屋さんが並ぶ通りを過ぎて、厳島神社全体が見渡せる山の中腹へと上った。そこから見える光景は何とも美しい。ミニチュアセットを置いたような、あるいはCGで作ったかと思うような情景が見渡せた。岩手県の平泉全盛時代もかくやではなかったのだろうかと推測した。

 島を歩くと、真言宗の仏教施設もある。神の島は仏と共存し、やがては毛利元就の中国統一時に島は戦場となる。豊臣秀吉はその権力を誇示しようとして千畳敷きといわれる巨大な建造物を寄進途中に亡くなり、現在も未完成である。平清盛も驚いているだろう。800年後の今日、観光客が年間に何百万人も訪ずれ、その建築美をたたえている。我々は後世に残しえるものがあるのだろうか。

 
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by watari41 | 2010-11-12 11:24 | Comments(5)

映像は語る

 誰が、何の目的で漏出させたのかはさておき、映像は全てを物語って余りあると思いながら眺めていた。
 昔から音声・文字・写真の順で記憶に残ると言われているが、映像はそれらを全て上回る。さらには説明される以上のことも見えてくる。

 今回の尖閣諸島沖の中国船は、本当に漁船なのだろうかと思う。相手に激突することがわかっていれば、船員は相当に緊張するはずだが、身をかがめるとか、そんな様子が見えない。何度も衝突訓練を積んでいたのだろうか?いかに船首部分が強靭に作られているとはいえ、2隻目の巡視艇に衝突するときに、1隻目で打撃を受けたであろう漁船の船首部分に傷がついていない。相当な補強がなされているのではなかろうかと愚考してみた。まさに国家的目的を持った漁船なのであろう。
 漁船の乗組員が如何に荒くれ男だとしても、他国の巡視艇にぶつかっていくとは考えにくい。当初から何らかの指令を受けているのであろう。威嚇衝突そのものである。

 通常は港につながれている小さな船舶も、側面が岸壁や他の船と接触して傷が付かないように古タイヤを下げているものだ。

 航跡を変えながらの後部側面への巧妙な当りは、訓練がないと出来ないことだと思う。あの漁船にはどれほどの漁獲物があったのか、保安庁の乗組員は見ているのだと思う。そんなことが最大機密でもあるのだろう。

 当てられた巡視船の必死さが映像から伝わってくる。命がけである。砲門が一つ見えているが、それが身を守る唯一のものなのだろう。

 昔はトロール漁船を装ったスパイ船があるなどと、話題になったことがあるが、実際の工作船というのは、相当に荒っぽく、かつ原始的なものだと今回の映像を眺めながらの感想である。
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by watari41 | 2010-11-08 16:43 | Comments(2)

僥倖(ぎょうこう)

 難しい漢字を使ってしまった。僥倖とは思いがけぬ幸運のことである。私は古希を迎えた現在も生きているのが僥倖なのだろうと思っている。生来虚弱だった私がと周囲の誰もが思っているようだ。

 もう一つの僥倖があった。入社して3年目に給料を貰いながら大学教育を受けて、その費用は無料という幸運に浴した。卒業して45年になる。11月9,10日と広島県の宮島で同期会が行われる。3回目のことだ。次回は仙台を予定している。同期生は北海道から九州まで全国に至る。近年訃報も届くようになった。「白塔会」と称する同窓会のHPが下記である。リンク集のクラス会に私の一文が載せられている。


 現在の日本の閉塞感からみると、我々の在職した20世紀後半は何とも良い時代だったと思っている。日本が僥倖を得た時代だった。
 敗戦で多くの人命と財を失いながらも復活を遂げたのである。戦争突入時の状況や戦時のことが解析されているが、現在の状況と似ていなくもない。明治維新からの成功体験が蓄積されて、制度疲労というか、進むべき方向がわからなくなり一種の無責任体制で開戦となった。

 現在もそんな感じを受けている。歴史は繰り返すとか歴史に学べとか言われるが、向かっている方向がわからなくなっている。誰が責任者かもわからない。責任政党が代わったのだが、もはや舵を切れない状況にあるようだ。

 ひたすら国家が僥倖を願っているようにも思えるが、事態は逆の方向に進んでいるようだ。もう少し長生きする個人的僥倖を得ると、再度の国家崩壊を目の当たりにしてしまうかもしれない。

 「国敗れて山河あり」という言葉を回想するが、国債の膨張と円の高進がある時点まで来ると、右翼的かあるいは左翼的方向に国民的関心が揃ってしまうことを心配している。ロシアや中国が領土の揺さぶりをかけている。極論に走らないことを願っている。
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by watari41 | 2010-11-04 17:04 | Comments(4)