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戦国ファンド

 歴史の謎に挑戦した意欲的な小説が、最近よく出ている。「信長の棺」とか、「利休にたずねよ」山本兼一著などである。斬新な発想で面白い。

 「利休」が秀吉から切腹を命ぜられた理由は謎であった。「利休にたずねよ」もその答えを出そうとしているが、私なりの感想を記しておきたいと思う。利休は実に魅力的な人物として描かれている。当時天才的大芸術家だったのである。「侘び茶」というのを見事に表現している。日本美の極地を追い求めた人でもあったのだろう。いうなれば日本のレオナルドダビンチだったのかもしれない。
さらなる利休の凄さは、経済活動にもおよんでいる。それまで価値を認められていなかった、茶道具に万金の値をつけて物議をかもしたりしている。しかし、そんな高価で取引され、さらに高値を呼んだりすると、これは現代でいう「茶道具ファンド」ということになる。
 事実、利休はそれにて、莫大な利益を上げて、京都大徳寺に巨額の寄付をしているのである。
  興味深いことがある。後年になって、彼の本来の名前である「千 宗易」を、その茶に関する功績から、朝廷は勅号を与えて「千 利休」と改めたのだが、名前の選定者が面白い。大徳寺筆頭の古渓宗陳なのである。「利を休め」というような意味なのだ。
 大徳寺側でも利休に何らかの危なっかしさを感じていたのだろう。

 織田信長が、安土に楽市楽座をはじめた。戦国時代に市場経済を創設したのだから先見の明がある。さらに秀吉はこれを発展さた。あっという間に「ファンド」まがいのものまで出来てしまったのだろう。さらなる値上がりを見込んで「債権化」しようとしていたのかもしれない。
 最初に、これに異をとなえたのが、石田三成ではなかったのだろうか、戦国経済がメチャクチャになってしまうと思ったからではなのだろうか。秀吉への讒言ということになったのだろう。

 何百年かの時を経て、テレビの鑑定団に「利休の茶杓」というものがでてきた。我々には単なる竹細工にしか過ぎないものが、2千万円という値がついていた。

 アメリカでは、リーマンブラザースが巧みな債権処理で世界経済を崩壊の淵まで追い込んだ。だれも止めることができなかったのだという。目の釣りあがったあのCEOの顔が、人類社会のたどり着いた一つの顔面なのだろうと思っている。
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by watari41 | 2009-04-30 14:53 | Comments(7)

時空を越えて:後

 過去・現在・未来について思考した人が千年前にもいたのだ。永平寺開祖の道元禅師である。他にもいたのだろうが、この人の「正法眼蔵」というのが有名だ。
 原文はとても理解できるものではないが、現代文学者である中野孝次さん(清貧の思想で有名)が部分的に解釈した「道元断章」という著作を手にしたことがある。道元さんは、宇宙と時間を「全機元」という表現の仕方をしている。過去も未来もないのだという。あるのは現在のみだという考え方だ。例えば木が燃えて灰になったとしよう。現在「灰」がそこにあるということのみが真実である。それが「全機元」だというのだ。今そこにあるものだけという思想なのだ。
 中野さんはおもしろいことを言っている。私は読書のプロであると自認している。にもかかわらずこの文書は理解しがたいというのだ。

 我々にも道元さんのいうことは釈然としない話である。すなわち時間経過を無視するという考えのようだ。「今この瞬間」の存在が全てと考えているのだ。だが、相対性理論が現れ、時間とは何ぞやが話題になる昨今、優れた禅者は漠然とそんなことをわかっていたんだと思う。

 「禅問答」というと、わけのわからない応答の代名詞みたいになっている。謎かけとかトンチとか、無理会話などともいわれるが、それなりの理由があるということになる。頭の中で宇宙を考え発想していると捉えたい。

 当時の一般的概念に無いことを問うて、それに応えなければならない。それには後世の物理的概念や哲学も当時から入っていたことになる。
 近世の哲学者・西田幾多郎さんは道元禅師を優れた哲学者としている。事物の真理を考えた人でもある。宗教上の概念から発想した「時間」が現代物理の最新テーマであるというのもこれまた面白い。

 座禅というのは、ひたすら宇宙の真理について考えることなのだろう。雑念が入ってはいけない。ビシット叩かれる。近代生理学では脳からα波が出ている状態が無であり、真理に近づいているとか。
 その元祖はお釈迦様だ。何十億土だとか、ビックバンからの話に近い数字がでてくる。またまた、わけのわからない話になったが、こんな話が好きなのである。
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by watari41 | 2009-04-27 15:36 | Comments(0)

時空を越えて:前

 「時の流れに身をまかせ」、「いつかは忘却の彼方へと・・」。時間の経過とはいったい何なのであろうかと思うことがある。

 詩情の世界のみならず「物理学最先端の問題」でもあるようだ。2009年5月号の科学雑誌「ニュートン」は、「時間とは何か」を特集している。我々凡人はそこまで意識することはないが、2千年も前の哲学者アリストテレスは、矢を放つことを例に過去・現在・未来を考察している。

 時間を意識したのは、宇宙旅行が話題になり、光速に近づくと歳をとらなくなる。すなわち時間が遅くなると言われたことからだ。浦島太郎みたいなことになるのだという。アインシュタインの相対性原理に源を発することらしい。

 過去とは何か、未来とは・・、など当たり前のことをどうしてということになる。だが、そう簡単なことではないようだ。数学的にはプラス、マイナスの符号がひっくりかえると、過去と未来は逆になるとか。そうはいわれてもピンとはこないが、SF小説にそんなものがあった。タイムトンネルというのもそんなことだ。現代の人気小説家「宮部みゆき」さんが時空を越えた作品を書いている。

 137億年前のビックバンで宇宙が発生して、そこから時間と空間が出てきた。では、それ以前は何があったのかという疑問が当然湧いてくる。何もないとか、わからないというような答えになるようだ。

 我々は、ビックバン以降の世界に住んでいるのだから、それ以前のことを聞かれてもということになるのだろう。三次元世界で時間と空間を感じている。ビックバン以前に何があっても、人間には理解できないのだろう。

 時間とは、エネルギーでもある。時間と共に宇宙は膨張している。とてつもないエネルギーを発生しているというか消耗している。有名な公式があった。エネルギーは(質量×光の速さの二乗)なのだ。
 宮部さんの小説では、過去から未来にすり抜けると、はなはだしい体力消耗が起きてしまうという設定なので理にかなっている。

 かつて、忙しかった頃、時間は自分で作るものだなどと言われた時代が懐かしい。いまや自然の移ろいに身をまかせる年齢となった。確実に時間は過ぎてゆくのだ。
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by watari41 | 2009-04-24 09:42 | Comments(5)

平泉のこと⑤

 平泉の初代清衡は金色堂を含む中尊寺を建立した。
 二代目基衡の時代に作られた「毛越寺」は、「特別史跡・特別名勝」の指定を受けた日本唯一のところだ。
 現在残っているのは、「池」とその中央に立つ「石」のみである。見学者は、拝観料を取られて、「何だこりゃ」と思う人もいるらしい。
 しかし、何度か見ているうちに、池と石が絶妙なバランス感覚と形状を持っていることに気がついた。周囲の流麗な建物群があれば、さらに際立ったのだろう。建物は礎石しか残っていない。草むらの中に埋もれてしまうこともあるだろう。寺院の風景は池石でもっていることがわかる。

 ローマは、廃墟になった時の美しさを設計時に考慮したのではないかなどと、言われるくらいだ。日本にも昔はそんなデザイナーがいたのだろうか。

 三代目秀衡の時代には、無量光院を作っている。京都の平等院と同様な建築思想で、その規模ははるかに上回るものだったようだ。全てが焼け落ちて、これまた礎石のみが残っている。

 この世というか、治世に極楽浄土を目指す考えが、三代に渡って引き継がれ、壮大な寺院が建設され続けた。現代でいう仏教による町づくりでもあったのだろう。それがまた平泉への求心力を高めた。
 
 第二次大戦後の日本を想起している。平泉は九十九年間の栄耀を得た。その間一貫して浄土を求める思想は不変だった。領外に兵を出すこともなかった。専守防衛だったのである。
 戦後64年目の現代日本、世界に類のない平和憲法を持って経済的繁栄をなしたが、今後平泉の年数を越えることが出来るのだろうか。

 ④で平泉シリーズを終えるのも数が悪いと書き続けてみたが何ともまとまりのつかない文脈になってしまった。歴史上の文学的天才は簡潔明瞭で、わずかな文字で見事に平泉の廃墟を表現している。

       五月雨(さみだれ)を降り残してや光堂
       夏草やつわものどもが夢の跡        芭蕉
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by watari41 | 2009-04-18 08:54 | Comments(5)

平泉のこと④

 「平泉」に「義経」が加わってくると、ワクワクしてどうしようもなくなる人種の一人である。まさにその小説が河北新報に連載中だ。作者は岩手県に住む「平谷美樹」さんという作家だ。挿絵も同一人である。珍しいことだ。作者は、むしろ絵の方を得意としているのだという。迫力ある挿絵も楽しみの一つである。
 「義経」の影武者であり、知恵袋でもある「沙棗(さそう)」という人物を登場させている。小説の題名も「沙棗」である。「義経記」にこの人物が書いてあるそうだ。だがその名前が「義経記」に記載されているだけで、影武者だとかいうのは作者の創作なのだが、小説家というのは、想像力がすごいものだ。「義経記」も、史書というよりは物語に近いものだそうで、源平合戦のずっと後の時代に書かれたものだという。

 小説「沙棗」の167回目を読んだ。連載も佳境に入ってきた。期待通りの内容で面白い。
 源平合戦のあまりにも有名な「鵯越の逆落とし」や「八艘飛び」などは、平泉ですでに実践していたなどというのも奇想天外なことだ。

 さらに愉快なのは、連載小説と同時進行で、河北新報社が運営するインターネットサイト「ふらっと」のなかで、作者とコラボレーションができるのである。面白い試みだ。誰もが仲間に入りコメントができ、私もその一人である。
 作者の行動力がこれまたスゴイ。4月14日には当時の鳥海柵跡を訪ねた話が載っている。安倍頼時が前九年役で戦死しているところだ。周辺地域の描写もまたすばらしい。
 私は、こんな短文を書くのにさえヒーコラしているが、作者は毎日のように旅し、そのブログを書いて、コメントに応え、さらに小説を書いているのである。恐れ入るしかない。

 「義経」は悲劇のヒーローだが、もともと兄頼朝と戦おうというような気はさらさらなかったようだ。秀衡は奥羽の大将軍にと考えていたようだが、義経とはかみ合っていない。興味あることは、我々は、これまで「金売り吉次」としていた男を平泉の黒幕として登場させていることだ。平泉政権に天下を狙わせているのだ。そのために京都の鞍馬から義経を平泉へと誘いだしたのだ。小説では「橘司」として登場させている。

  新聞を読めない西国の方々に「ふらっと」を紹介しておこう。トップページの右側に「沙棗コミュ」の入り口がある。覗いて見てください。私はネットに入っている中では最年長の部類かもしれないが、この小説やネットコラボを読むのも楽しみな日課としている。
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by watari41 | 2009-04-15 20:16 | Comments(4)

平泉のこと③

 「金色堂」のすばらしさは言うまでもないが、その周辺にある巨樹・古木に雰囲気のあるものが多い。これらを眺めていると中尊寺の風格を感じるのである。古木とは言っても平泉時代の後のものだ。鎌倉・室町の支配者達は平泉に畏敬の念を抱いていたのだろう。それを保護した。400年前からは伊達政宗の領地となる。現地支配者には、政宗の九男、伊達兵部宗勝が3万石で一の関にいた。「伊達騒動」を起こしたことで有名である。一説によれば仙台の主家を乗っ取ろうとしたようだ。

 第三回目の講師は、平泉町役場職員の方である。若い人だ。世界遺産登録申請に当たって主要な役割を果たしたようだ。学術的な話ではないのでかえって面白い。
 「どんな町の人にでも自慢はなんですかと尋ねると、その町の文化遺産をあげる方が多いのだという」しかし、実際には町の文化予算はいくらもないのだとか。
 大半は道路とか上下水道の公共工事費用だ。今日の平泉の講師も役場移動で水道課に席を移したのだという。町から外れた一軒屋に水道を引くのに数百万円もの費用がかかる時代だということを改めて認識しているようだ。

 金色堂には、俗な表現をお許しいただくと下段の引き出しに3代の全身ミイラが眠っている(正式には須弥壇という)。第二次大戦後になって、タブー視されていたそのご遺体を中尊寺貫主さんが拝見したというのだ。ミイラなのだから、湿気を嫌うだろうと、ご遺体が傷まないようにと、当時の新素材である石綿(アスベスト)を詰め込んだのだという。しかし、それはかえってまずいことで、今度はそれを除去する作業がはじまった。その時に、当時有名な歴史学者である伊藤博士などが、骨格などの学術調査をした記事があった。昭和25年のことだが私もかすかに記憶している。現代ならさしづめDNA調査であろう。
 象徴的なことは、ミイラにハスの種子があったことだった。後にはそれを見事に咲かせている。エジプトの王様のように、黄金のマスクとか、数え切れない財宝と一緒でないというところが、なんとも清々しい。阿弥陀如来を本尊とする多数の仏像がある。これは個人というより、戦乱に倒れた方々や、世の泰平を願ってのことなので、平泉の王者には私心が少なかったといえるだろう。
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by watari41 | 2009-04-11 15:33 | Comments(5)

平泉のこと②

 「東北人」という言葉には違和感がないが「近畿人」と言われるとおかしな感じを受ける。一般には「関西人」である。他の地区では地域名に「人」をつけるようなことはしない。男だけは九州男児というような呼称があるが。

 我々は「東北」にある種のこだわりを持っている。ではいつごろに定着したかというと「平泉」の時代に、その地域範囲が決まってからのようなのだ。平泉は東北の中心にある。そこから青森湾までの距離と、福島県南端にある白河市への距離が等しいのである。そこを勢力範囲とした。道路に一里塚のようなものを建てていったのである。現在もまたそこを東北6県としている。

 第2回目の講演会は、現職の岩手大教授が講師だ。何故「清衡」が東北人を容易に従えたのかというテーマである。武力ではなく仏で統治したのだが、本当の理由は清衡の血筋にあるのだという。母親が北上川一帯を抑えていた豪族「安倍氏」の娘であることは文献上に明らかだ。父親は亘理にあって阿武隈川一帯を押さえていた。そして母方の祖母は、これまで明確ではなかったが、秋田・山形の豪族「清原氏」の出身だったのだろうというのが、この先生の説である。そうであれば最上川を支配していたことになる。
 当時の主要な交通手段だった、東北の三大河川を抑えていた豪族の末裔なのだから文句はない。a0021554_10381579.jpg
 前九年合戦で、清衡の父である藤原経清が殺害された後で、勝利者の清原氏が、その妻が美女だったので、その子清衡と共に戦利略奪したようにとられているが、実際には清原氏が母方の親族を保護したというのが、真相であろうとの説なのだ。従妹くらいの関係だったのだろう。後には彼女を後妻としている。当時は有力豪族者同士は親族であり、そこの間で戦争が起こっているのである。東北の場合は、その戦争をけしかけたのが源頼義・義家親子である。彼らは東北を横取りしようとしたが、京都ではそれを認めなかったのだ。

 日本では昔からの血筋というのは尊重されやすい。極端には天皇家がそうである。「清衡」には、東北の有力豪族の血が全て混じているのである。
 「安倍氏」をいまだ誇りにしている方々もいる。前九年合戦で破れた安倍氏一族の生き残りは、西国に配流となった。その子孫の一人が先の首相の安倍晋三さんなのである。首相就任の時に、ご先祖への報告として代理人を岩手に寄こしたのは記憶に新しい。父親の晋太郎さんの時から安倍一族であることは折に触れて報じられていた。東北人以外にはわかりにくい話になってしまった。
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by watari41 | 2009-04-09 10:37 | Comments(5)

平泉のこと①

 春の甲子園、高校野球決勝、花巻東は惜しかった。岩手県の選手ばかりで戦ったという。宮城県の利府高校もそんなことだった。東北の野球は強くなってきている。

 時を遡ること千年、花巻を含む岩手県中通りは、奥六郡といい、豊かなところだった。平泉には百年の栄華があった。
 縄文時代から、平泉にかけてが東北の黄金時代だったのかもしれない。

 我が町では、例年3月に歴史講演会を催している。多くの町民が楽しみとしているものだ。今年は平泉に特化した内容なのでワクワクしていたのである。3人のユニークな先生が、週をおいて2時間ほどの講義をしてくれた。聴衆は毎回百人をはるかに超える盛況であった。我が町は平泉の父を自認している(清衡の父が当地を領有していた亘理権太夫藤原経清)。
 最初は、元東北大教授の方で「中尊寺供養願文」を主とした関連の話である。初代清衡が中尊寺建立に当たって、「願文の草案」を書き、これを京都の当時最高の学者に大金を払い「添削・校正」してもらったのだという。その全文は一千文字ほどである。漢文で書かれている。いろんな解釈の仕方があるでしょうから、皆さんも読んでみてくださいと言われるが、我々の歯が立つ代物ではない。
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 その中で注目すべきは清衡は自らを「東夷之遠酋也」と称しているのである。だが、清衡のミイラが残っているので、調査によれば現代人と何ら変わるところはないのだという。へりくだった表現をしているのである。
 中尊寺は後に火災にあって大半を焼失したが、焼け残ったものに3千点を越える国宝と重文があるのだというからスケールの巨大さが伺える。

 初代が中尊寺、二代目が毛越寺、三代目が無量光院という巨大な寺院を建設している。元教授は、これは一種の公共事業みたいな性格があったのではなかろうかとのユニークな説を展開していた。そういえばピラミッドも、いまだその用途が明確でないが、当時の公共事業という説もある。

 アンコールワットも巨大で精巧な「仏教施設」である。平泉とはほぼ同じ時代の創建だ。だが、異なる勢力に滅ぼされ、ジャングルに埋もれていた。同様な時期に、同じ仏教徒が権力を握った時に、石造と木造の違いはあれ、似たような着想を持っていたことに興味を引かれている。
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by watari41 | 2009-04-05 11:49 | Comments(3)