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 a0021554_9262077.jpg人間とは勝手なもんだ。はるばるとやってきた白鳥は、そう叫んでいるかのようだ。我が町と旧隣村との境界に大きな沼湿地がある。数十羽の白鳥が来訪してくれるようになった。
 ところが、エサをやってはダメです。近づいてはダメですといわれる。ウォーキングでやってきた我々一行にも、エサをねだって岸辺に押し寄せる。こちらは思わず後ずさりしてしまう。
 こんな光景が、全国のどこかしこにあるのだと思う。かつてカラスの勝手でしょ。などという言葉がはやった。
 人間も勝手なもんだ。白鳥は北へ飛び立つ体力をつけられるのだろうか。鳥ごとながら心配している。白鳥が大挙して押し寄せるようになったのは、人間が餌づけをしたからなのだろうと思う。有名な来訪地は季節の風物詩にもなっている。一羽づつ数えて毎年の数をWEBに載せている観光地もある。
 白鳥を我が町で見られるようになるとは思ってもみなかった。この沼湿地には、田園空間博物館という看板も立つようになった。

 人間の存在は、幾多の動物を絶滅させてきた。そしたら今度はコウノトリ・トキなどを復活させた。これも人間の勝手でしょ。癒しだとか、自然と共生できる環境だとか、よく言うよ。

 北限の猿として有名な青森県下北半島の日本ザルが増えすぎて困っているのだという。かつてまだ白黒テレビの時代に、冬に耐えるそのサルを自然ドキュメンタリー番組で見たことを回想している。当時はまだ人間が食べることに手いっぱいで、サルに餌をやる余裕などなかった頃だ。そうやって最小の個体数で何百万年も生きてきたのではなかろうか。人間の勝手をまた人間がニュースにしている。鹿や猪にしてもそんなことだ。
 そのくせ、アフリカのライオンがシマウマを襲う場面は自然の摂理だとしている。これまた勝手なものだ。

 白鳥に悲しい思いをさせていると感じている人は多いはずだ。
 (写真は無料のキッズ用サイトのものです)
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by watari41 | 2009-01-27 09:31 | Comments(5)

冬日記/ほっき飯

 私と料理とは何とも似合わない。一生料理をすることもないだろうと思っていた。しかし人間どうなるかはわからないものだ。
 昨年からの我が町中央公民館主催の月一回の料理教室に通った。今回は最終回だった。先生は役場の栄養士さんである。男顔負けのエネルギッシュな方だ。いろんな料理を教えてもらった。
 今日の料理は「ほっき飯」である。我が町の特産品だ。遠くから食べに来る人も多い。10月頃の鮭でつくる「はらこ飯」とあわせ名物料理なのだ。
 
 「ほっき貝」はおおきな貝だ。立派なものだと一個300円もする。これを一人前3個も使用するのだ。今回使用したのは、わけあり品みたいで、極端に安い。材料費はすべて合わせて280円にしかならない。
 貝をナイフでこじあける。大きな身と臓物がでてくる。手で分離する。身は刺身でも食えるものだが、酒・醤油の沸騰煮汁に入れると独特のトキ色がでる。ご飯に乗せるように小さく切る。
臓物部分は、腸など余計な部分を除き、キモを取り出す。

  ご飯をメインにして、添え物としてキモを使った2つの料理①キモ味噌おでん②澄まし汁、さらにはフルーティな2品①大豆のおろし和え②グレープフルーツゼリー、これが写真にあるものだ。a0021554_15235471.jpg
 600kcalのエネルギーと5gの塩分、カルシュームも多い。何よりも美味である。澄まし汁が特に旨い。良い味だ。在職当時、社用で行った一流料亭の味を思い出す。おでんのタレもいい。

 またまた、お国自慢みたいな話になってしまった。レパートリーを少しづつでも増やしたい。
 同級生には、退職後に「ラーメン店」を開いたり、勉強して「食のコンサルタント」になったりしている男もいるのだから驚いてしまう。
 寒中に春のように暖かだった一日も暮れようとしている。2009.1.23
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by watari41 | 2009-01-23 15:26 | Comments(5)

冬日記/静と怒の海

 晴れた日に冬の砂浜に立つと悠久の時を思う。海の色は何と表現したらいいのだろう。癒しのブルーとでも言おうか。包み込まれるような想いを感ずる。何千年も人はこんな海を見てきたのだろう。風の少ない時は、日の光が海面に当たって無数のダイヤを散りばめたように輝くことがある。
 我が町の砂浜は、鳴り砂として一躍有名になった。そんな注意を払って歩いたこともなかったので、地元の人達は誰も気づかなかった。
 打ち寄せる波は、浜辺の一切を消し去ってしまう。遠浅の海岸は、干満の差を数十メートル幅にも拡大してみせる。湿った砂に足跡がつく。それをまた波が洗う。

 海は、そんな日々の繰り返しだけではない。大いに時化ることがある。そんな時に漂流物が流れつく。波打ち際より奥の砂上は、そんなゴミの品々でうづまる。汚くなった海岸を年に数回、ボランティアが清掃する。昔は立派な燃料となったものだ。

 そんな浜辺から遠く千キロも先に目を転ずると、漁船の乗組員が海と壮烈な格闘をしている。河北新報記者が同乗して見事な記事にした。信じ難いような過酷な労働だ。私のようなヘナチョコでは、一発の波で海に投げ出されてしまいそうだ。マグロを獲るのにこんな苦労があるなどとは、ほとんどの人達が知らなかったことと思う。

 現代社会は、どうしてなのか厳しい労働をする人ほど報われることが少ない。魚価や農産品の価格が安すぎる。一時期知価革命などと、もてはやされて、こんなことになったのだろうか。
 政府が計画している話題の2兆円は、米の生産金額に近い。「全国民に一年分の米を無償で給す」このような解釈もできてしまうのだ。。豊かな日本になったのだ。しかし我々はこんなことを望んだのだろうか。はたして70%の人は異議ありとしている。まだまだ健全な精神を宿しているのだと思う。
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by watari41 | 2009-01-21 10:08 | Comments(4)

冬日記/寒中に想う

 1月も中旬である。一年中で最も寒い時期に差し掛かった。寒さには人一倍弱い。冬が苦手である。人よりもかなりの厚着をしている。頭の薄さも加わった。脳天からの寒さは堪え難いものがある。毛糸の帽子が離せなくなってしまった。頭髪は人間の外見を整えるだけではないのだ。東北の湘南といわれる我が町も私にとっては北限である。
 冬の利点は雑草取りが不要なことくらいだ。多くの生物の中枢は地中にあり、来るべき春に備えている。
 時折、舞い降りる雪が庭の木々に薄化粧のプレゼントをしてくれる。風雅な眺めもわずかな時間で消えうせるが、冬の救いといえよう。

 暖かくさえあれば冬も悪くはない。しかし寒ければこその冬である。12月の風物詩となった仙台光のページェントを、20年ほど前の始まった頃に震える寒さのなかで歩いたことがあった。暖かい日に見ればさぞ気持ちが良いだろうと、勝手な想像をめぐらした。そこで気温の高い日に行ったのである。ところが光景に締まりがないのだ。光の回廊は、やはり凍てつく寒さの中で見るべきものだと思ったことがあった。

 四季は、地球の回転軸が太陽に対して23度も傾いていることから起る。おまけに細長い日本列島は周囲を海に囲まれ適度な水にも恵まれている。だが太平洋沿岸の仙台周辺地域は冬に晴天の日が多い。すっきりと晴れるのである。

 散歩コースに、標高30mほどの小高い公園がある。大気が乾燥しているので、風景の解像度が高い。海がよく見える。その先に牡鹿半島が延びて、突端の島である金華山がくっきりと目に入る。湾の中央には仙台港を出た大型の白いフェリーがポッカリと浮かび、ゆったりと南に向かっている。視界から消え去るのにしばらくの時間がかかる。太陽は高いが風が冷たい。
 公園には大きな池がある。子供の頃は厚い氷が張ってスケートができたものだった。今やそんな風景はない。氷を見ることも少なくなった。年々暖かくなってきているのを実感しているが、こちらが歳をとるぶんだけ寒さを感じやすくなっている。体感気温という表現があるが、その上に年齢という言葉を追加したくなる。
 
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by watari41 | 2009-01-15 19:58 | Comments(7)

冬日記/遭難

 冬山では毎年何名かの遭難者がでる。そこに山があるからだとか、絶壁の魅力に取り付かれてとか、登る人には理由がある。私には冬山への登山経験はない。せいぜいゲレンデのスキーを楽しんだくらいだ。それでも猛吹雪がくると周囲が全く見えなくなる。怖くなるが、自分の位置を確認できているので動かなければ安全である。元来が臆病なのである。

 昭和5年というから、もう80年ほど前になる。祖母の弟が福島県の吾妻山で遭難した。11月初旬に単独登山した。その年は例年より初雪が早かったのだという。
 私の大叔父であるその人は、30歳で海軍大尉・東北大理学部留学生・独身という贅沢な身分だった。昭和初期のことであるから軍人は重要人物扱いされたのだろう。河北新報一面トップに3日間も写真付で捜索記事が掲載された。

 祖母の実家に行くと兄嫁である大叔母が、タンスに大切に保管してある当時の新聞を広げてくれるのであった。
 捜索は、10日間ほど続けられたが、積雪も多くなって打ち切られた。翌年の雪解けを待って再開された。倒木に両足を乗せて頭を山頂の方に向けて一休みしているような格好でそのまま眠ってしまったのだろう。地元の人によって発見された。

 大叔父は洒脱な人だったらしく、後に友人・知人らによる追想集が発刊された。
 その一節に「遠洋航海で面白いこともあったでしょう。と聞かれて・・いや小便してきただけさ」と、どこかで聞いたことがある洒落だが、まさか大叔父が言いはじめではなかろうとは思うのだが。

 遭難は家族や周囲の人々に大迷惑をかける。しかし山登りや、それにつながる冒険などは、社会的にもある程度は許容されているようなところもみえる。英雄視される場合だってある。
 大昔に人間が生活の場としていた山や海の記憶なのだろうか。
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by watari41 | 2009-01-12 17:38 | Comments(5)

冬日記/寒風の世情

 私は簡単な日記をつけている。年が明けて三年日記の最終蘭を埋めている。一日分の書く蘭はわずかしかない。それでも余白の多い日がある。退職後の高齢者に、そんなに予定のあるわけはない。最初の一冊目をひっくり返して見ることも、ほとんどない。今年書き終えると、この冊子もお蔵入りになるのだろう。では何故書いているのかとなる。何とはない不安感があるのだ。昨日のこともよく憶えていないことがある。

 書くのが面倒だという友人は、新聞の切抜きを貼り付けている。それをめくると世の移り変わりがわかる。この方が客観性があるのかもしれない。

 ブログにはハンドルネームを付けているが、読む人にはもう私という個人が特定されているので、あまり意味をなさなくなった。数日に一度づつ更新しているので、これを不定期日記としてもかまわないのだが、どうしても構えた内容になってしまう。

 冬の日は窓から差し込む光が長い。食卓と机を兼ねたテーブルの奥まで日が差し込む。南面のガラスを通しているので暖かい。つい居眠りのでることもある。
 団塊の世代をやや上回る我々の日常は、誰しもこんなことなのだろうと思っている。なかには多彩な趣味のある人、農業の真似をはじめる人などいろいろといるが大方はぼんやりとした日々が多いのだろう。

 しかし、現実世界は激しく揺れ動いている。我々は、もはや為すすべなくそれを眺めているしかないが、非人道的なことが容赦なく行われている。帰るところもなくなった人達が街にあふれ食事の施しを受けている。こんな光景を見ようとは思わなかった。
 60年前の敗戦後の日本は外地より数百万人もの人々を、当時の農村が引き受けた。現在でもほとんどの人には実家が存在するはずだ。そこに帰れないほどに家族関係が薄くなってしまった。孤立する人々が冬の空をみている。我々は何かを間違えたのだ。結果責任というのはだれにでもある。政府は二万円を配ろうとしている。我々は受け取る側なのだ。これまたおかしなことだ。
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by watari41 | 2009-01-07 16:59 | Comments(8)

冬日記/経済が目的か

 2009年が明けた。昨年後半から世界は「大恐慌」に突入しつつある。経済界は厳冬の時を迎える。今年はどんなことになるのだろうか。

 80年前の1929年の恐慌時には、日本は不況の出口を満州に求めた。後の太平洋戦争の遠因ともなっている。経済問題を軍事的に解決しようとしたのである。
 
 国家や地域の目標が、経済力で捉えられることがある。明治政府は「富国強兵」が国家目標だった。戦後は強兵の部分がなくなったが富国を目標にしていることには変わりが無い。所得倍増政策などというのがあった。

 宮城県もまたしかりである。「富県宮城」と10兆円の年間生産を目指している。しかし、経済というのは所詮手段ではないのだろうか。豊かな生活、それ自体が人間にとっての最終目標なのだろうか。違うのではないのかと思う。手段がすっかり目的化してしまっている。

 会社も利益が減ずると、容赦なく従業員の首を切ってしまう。そして業績が回復すると「ラツワン経営者」として評価されるという具合である。

 国家も地域も会社も「富」を得て、次は何をやるのかがはっきりとしない。会社の場合には社の方針というものがあったりするが、漠然としたものである。

 これまでの世の中は、右肩上がりを前提に考えられていた。
 元旦の河北朝刊は、仙台市の人口がが明年でピークを打つことを報じている。縮小均衡の時代を迎えているのである。

 そんな時に何をやるべきかを論ずることが大事なのだと思う。従来とは全く異なる観点からの見方が必要になる。大恐慌は克服しなければならないが、次の時代への対応というか考え方がより重要なのであると思っている。
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by watari41 | 2009-01-03 16:53 | Comments(6)