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閉塞感

 ここ何年か、閉塞感の漂う日本であるが、先日の河北新報を見て驚いた。台湾と韓国から数年前に東京に住み着いた若い女性の紹介記事である。彼女らは夢の国、日本を語っており、そこで働く充実感を述べている。我々日本人の感じ方との落差は何だろうかと思ってしまう。
 ソウルも台北も近代的な大都市で、東京と比べてそんなに劣ることはないのだろうと思うが、彼女らの印象は全く違うのだ。

 感覚というだけではなくて現実がそうなのだが、今の日本はどうしたということなのだろうか。そんな出発点は昭和30年代にあったように思う。その30年に、もはや戦後ではないといわれた。 では、これからどういう日本を目指すのかが明確ではなかったのだ。その時々の首相が、勝手な目標というか、持論を述べる。「所得倍増」であるとか、「不沈空母発言」であるとか、大きくぶれるのである。そんなことが続いているうちに、いつしか日本は袋小路に入り込んでしまったと、いうように思うのである。
 前の首相小泉さんは、そんなことを打破しようとしたのだろうが、所詮は袋の中であばれていたにすぎなかったようだ。
 そもそもの国家理念というのは、憲法に示されているべきことなのだが、昭和30年代に首相だった岸さんは、その憲法を改正することを念願としていたのだから何をかいわんやである。そしてそれは孫の代の安陪首相まで引きずっていたのであるから、どうしようもないことだ。

 先日、話題の映画である「三丁目の夕日:続編」を見てきた。懐かしい昭和30年代がえがかれている。私は登場する集団就職で上京した若者とは同年代である。東京の墨田区に左官として就職した同級生をたずねて、その親方の家に一泊させてもらたののは、忘れられない回想である。
 現代の全ての出発点が昭和30年代にあるのだと思っている。CG映像は、何でも再現してしまう。日本橋には当時は空があった。今や高速道路で物理的に閉塞されているのである。その高い道路を走れば、近代都市東京なのだが、何もかも埋もれてしまっているようでもある。それらの発掘(高速道路を地下化する)には、何千億円もの巨費が必要だが、そんなことも話題になっているのだ。そのような目に見えることで閉塞感がなくなるなら結構なことだが、我々の思いはそんなわけにはいかないのである。

 外国からの若い女性は、そんな根源的なことを知るはずもないが、底流に漂うこんなことを考えなければ、経済活動や日常生活ば夢の国なのかもしれない。我々は観光や在職当時の表面的なソウルや台北しか知らないのである。なかなか両者の比較は難しいものがあるのだろう。
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by watari41 | 2007-11-27 20:26 | Comments(6)

業界団体

 日本人は群れたがるといわれる。日頃は激しい競合関係にある会社同士が業界団体を作っているのである。大は自動車工業会や鉄鋼連盟、そして小になるともはや数えきれないくらいの団体が存在する。一つの会社で数種類の製品があると、それぞれの団体に加盟するから、益々もって大変なことになるのだ。法人格を持たないものさえたくさん存在する。

 業界団体の多くは、東京虎ノ門一帯のビルを間借りしている。そのおびただしい数に驚いたことがあった。近くに霞ヶ関があり、政策決定などの情報入手が容易であるということがその理由のようだ。また、各団体の事務局は、所属する各社の生産や販売実績を集計して、まとめた数字を関連する役所に報告する役目もある。それをみて政府は景気動向がどうだこうだというのである。

 それぞれの団体は時に会員各社が集っては、差しさわりのない話し合いをする。定期的な親睦を目的としているものが多い。春や秋には移動総会を行う。全国の有名温泉地がその会場なのである。宴会後の麻雀、そして翌日はゴルフが定番なのだ。名門コースもかなり行ったはずなのだが、私のような下手くそは、メンバーに迷惑をかけまいとの一心でボールを追うことに夢中で、残念ながらコースの記憶はほとんどない。

 何も遊んでいるばかりではなくて、JIS(日本工業規格)には載せきれない業界独自の規格を作ったりしたこともあった。あるいは業界のまとまった要望を政府に提出するなどということもある。かつてのNHKの「プロジェクトX」の番組で、こんな会社を越えた技術者たちの模様なども瞬間ながら何度か放映されたことがあった。

 東京にいる時は、こんな会合も苦にはならないが、仙台からだと大変だ。しかし新幹線ができてからは楽になり、さらにスピードアップで便利になった。私の都合で3時からに設定してもらったことがある。20年ほど前のことになろうか。仙台駅12時52分という上野までのノンストップ列車ができた。一時間40分ほどでつくのだ。国電と地下鉄を乗り継いで、定刻5分前くらいに会議室に入ることができた。情報交換などの後、簡単なツマミで懇親会となる、ほろ酔い気分で夜9時前には自宅に帰れるのだ。楽しかりし回想でもある。
 また、虎ノ門地下鉄近くに、スパゲティ屋さんがあった。これが実に美味かった。見聞録というイタリアにちなんだ店名た。こんなに旨いものがあったのかと舌鼓を打ったものだった。

 我々、担当段階での会合の他に時には社長会などもある。こんなところでの会合が契機となって会社の提携や、あるいは合併なども出てくることがあるようだ。メディアで大きく報道される裏を勘ぐってみるのもまた楽しからずやである。
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by watari41 | 2007-11-21 16:08 | Comments(2)

伊達家の財政事情

 仙台藩に1700年代当時「萱場木工」という人がいた。「出入司」という役(現代なら会計課長といったところか)に40歳頃その役職を務めていた。この人はその頃としては珍しく89歳まで長生きして、5,6,7代の3藩主に仕えた。健全財政家として終生変わらぬ信念を持っていた。「売米」だけで藩の財政を維持すべきだというのである。豪商からの大名貸などの借金はもっての他であるとの持論だった。
 萱場木工が80歳にもなってから40年前のことを思い起こして、その時の「出入司」で俊才といわれた「阿部清治」宛に当時の回想と江戸で聞きとめたことや健全財政への思いを記した書面が左に示す「萱場木工、阿部清治に多簡の事」というものだ。

 この内容が実に面白い。池波正太郎の小説を思わせるところもあれば、現代と変わらぬ様相などを読み取れるところがあって興味がつきないものだ。そのごく一部を紹介しよう。
 
 a0021554_10444475.jpg「私が出入司に付いた頃、すでに仙台藩は借金財政に陥っていた。原因の一つに5代目吉村公の奥方は毎年の費用が7万両であったが、6代目宗村公の奥方になると13万両にも膨らんだのだ。(吉村公は京都の久我家より、宗村公は徳川家の姫であったことによるようなのだ)
大藩なのであるから囲い金があってしかるべきだがこれもない。(囲い金とは現代風にいえば領収書のいらない金ということで、藩主の掴みがねということらしい)
 また藩米は江戸で最も多く売られているが単価が安い。四国のさる銘柄のものと比べ1/5でしかない。(現代なら魚沼産コシヒカリと北海道産米の差異みたいなものが江戸時代にもあったのだ)
 そんなこんなで、新藩主が初入府する時には、貴賎をとわずお祝いに撒きがねをするのだがこれもできなかった。かといって、おかしなことをやってもまずい。幕府からの取り潰しにあってしまう。その頃、美濃国の大名が突然改易になった。理由は伏されていないが、こんな裏話があった。江戸近くの茶屋に立派な侍が忘れ物をした。風呂敷包みを開けると葵御紋の箱が出てきた。これは大変と名主から代官そして老中へと、箱が開かれること無く届けられたということだ。幕府に知られてはまずい美濃国大名の機密事項が書かれてあったそうだ。(現代でいえば内部告発であり、幕府の最高幹部へそのまま書類が届くうまい方法だ)」

 そんなこんなのことが書いてある古文書の解読講演を聞いた(11月10日)
仙台郷土研究会(歴史研究団体で戦前より存在)主催で、講演者は会員の日下さんで、あまりに面白すぎ、現代風俗にも酷似しており、ほんとかいな思いながら解読したとのことだった。歴史小説家というのは、こんなところからヒントを得るのだろう。
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by watari41 | 2007-11-16 10:47 | Comments(4)

秋雨

 秋も深まり、朝夕の冷え込む日が多くなった。明け方にカーテンを開けると窓ガラスが濡れてクモっている。空気中の水分が温度の低下で、水滴になったのである。空気などガス体は温度が高いと多くの水分を含むことができるが、温度の低下とともに含みうる水分は少なくなり飽和した水分が水滴となる。列車や車の窓ガラスのクモリも冬季によく経験することである。

 何で、こんな当たり前のことを書き始めたかというと、ガス体が水滴を出し始める温度を「露点」と呼び工業上重要なのである。空気は上述のように露点が常温に近いのだが、在職当時によく使っていた水素ガスやアルゴンガスなどは、露点がマイナス50℃くらいに水分の少ないことが必要なのである。
何故かというと、我々の扱っていた金属は特殊なもので、よくいえば高級なものなのである。その金属は特に酸素を嫌った。出来上がった製品は1000℃程の高温で処理するので、酸素を含まない雰囲気で行うのである。さらにその上、材料中の酸素を積極的に還元しようと、水素ガスを使うのである。その水素は純度の高いものでなければならない。そこに分解すと酸素になる水分が多かったりしては何にもならない。
その評価が露点なのである。今は自動で測定されるが、入社当時は実に原始的な方法でやっていた。細い透明なガラス管に測定しようとする水素を通ずる。そしてガラス管の温度を下げていくのである。どんな方法かというと、メタノール液体にドライアイスをキャラメル大に砕いて少しづつ入れていくと、どんどん温度が低下していく。そして肉眼で水素の通じているガラス管がクモリ始めた温度を確認して「露点」とするのである。実に懐かしい回想なのだ。
 そのガス本体の露点を下げるのには、触媒を使って水分を除いたり、今や使用禁止になっているフロンガスを入社当時は使ったりしていた。露点が-50℃にもなると、ガス体に含まれている水分は非常に少ないのである。

 やや、堅い話になってしまった。先日、テレビで広島県三次市の美しい秋霧をみた。
 川中島の霧も謙信・信玄対決のキーポイントになった。雨を冠した漢字は多い、霜・霞・靄・露・・・詩情をさそる言葉である。穏やかな雨もまたいい。昭和40年頃の歌だった「星よりひそかに 雨よりやさしく・・・」大好きで何度も口づさんだものだった。癒しの雨もある。今日2007年11月11日、前日からの冷たい秋雨が降り続く一日だった。
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by watari41 | 2007-11-11 19:16 | Comments(6)

人間の幅

 「能と狂言」、「俳句と川柳」こんなかたちで、様式はほぼ同一ながら、お堅いものから軟らかいものまで幅広くあるのが日本文化の特徴でもあると思っている。渡来した漢字だけを使うのではなくて、「ひらがな」をつくりカタカナを作って、いろんな表現方法ができるようになった。

 出版界でも、今やそんな区分はなくなったが「純文学にたいして大衆小説」とか、週刊誌では「朝日ジャーナルにたいして平凡パンチや週刊実話」などがあった。音楽でも「歌曲に対する演歌」とか、いろんな部門で幅がある。ただ、軟らかいものを好む人が圧倒的に多いのが事実だ。しかし対極のものがあることでバランスがとれている。出発点はいずれも堅いものなのである。

 漫画なども、このような一連の日本文化のなかから出てきたものだと思っている。活字文化の対極に位置するものだ。「のらくろ」がその発祥であろう。その昔、鳥獣戯画というのがあったが、現代の風刺漫画につながっているのだと思っている。

 日本でのこういう幅のある文化の発祥は、季節の豊かさが関係しているのだと考えている。大きくは四季にくくられているが、実際には徐々に微妙に変化している。21節季が昔は当を得ていたのであろうが、現在の気候では当てはまらくなってしまった。沙漠の民や熱帯・寒帯などに住んでいる方々ではこうはいかない。我々はつくづく、良いところに住んでいるものだと思う。

 人間の考え方そのものにも幅があるが、その範囲は個々人では比較的狭い。しかし同一人物で極端な幅というか広がりを持つ人もいる。こういう方はなかなか理解しにくくなる。

 政治家には「極右と極左」までの幅がある民主党党首の小沢さんは右よりの人だ。だが常人を越えた幅というか、良い表現をすれば広がりを持っている。時に一般人があっと驚く行動にでる。党員全員が反対をする提案など等、本人にすれば許容範囲内の行為だということになるのかもしれない。

 しかし、日本を動かすような政治家が、国民からみてわかりにくい行動をとるというのは問題がある。スケールが大きいのだとかいわれるが、こういう政治家は国際的にも通用しないのではないのかと思うのである。
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by watari41 | 2007-11-07 12:00 | Comments(4)

航空機商戦

 航空機の商談は巨額である。どうしてもスキャンダルがつきまとう。歴史的大ニュースになるので印象に残ってしまう。主役は巨大商社に政治家、黒幕といわる人、そしてアメリカの航空機製造会社である。
 ピーナツ一個が百万円を意味するとか、メディアも面白可笑しく取り上げた。我々視聴者も不謹慎なことながら、まるで推理小説を地でいくようなニュースに興奮したものだった。黒幕といわれる歴史上の人物とばかり思っていた児玉誉士夫が以外に若いのには驚いたり、明治の元勲・大久保利通の孫が登場したりで、しばらくはこの話で持ちきりだったことを回想している。また、少し古くなるがグラマン、ダグラスの対決は山崎豊子著の小説「不毛地帯」で有名だ。

 今回のエンジン購入に絡む騒動は、これまでとは多少様相を異にするようだ。守屋さんという前防衛省事務次官が主役になっている。今後どういう展開になるのだろうか。宮城県塩竃市出身の人だ。私よりも少し若い年代の方である。父親が塩釜市長だった。その地方政治家の名前をかすかに記憶している。

 異常な回数のゴルフ接待がキーポイントになった。よほどのゴルフ好きでないと、接待を受ける方もいやになってしまう。これにつけて思い出すのが塩竃市にある東北地方最古のゴルフ場である。昭和9年頃の開設だ。コースのデコボコが激しくて私のようなヘタクソは、大いに苦労したゴルフ場だった。いくら叩いたのか数え切れなかった。1mもの凹凸といより小山がファウエーに連続しているのだ。このコースが出来た当時はブルトーザなどがなかったので、自然の地形の表面を削って芝を植えたのだという。(20年以上も前のことなので今もそうかはわからない)

 「浦霞」ゴルフ場と呼んでいた。全国にその名をとどろかせている塩釜の銘酒を冠していた。今年は大吟醸の部門で全国一位になった。その酒造会社や塩竃の名士が出資して作ったゴルフ場である。その中には守屋さんの父も加わっていたのであろうか。
 今の正式な名称は「仙塩ゴルフクラブ浦霞コース」である。想像の域を出ないが守屋前次官も、そんなゴルフ場で子供の頃からプレーになじんでいたのではなかろうか。

宮城県には、最近どうも証人喚問に呼ばれたりスキャンダラスな話で登場する人が多くなったような気がしている。胸のすくような快挙をやってくれる人はいないものだろうか。
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by watari41 | 2007-11-03 07:09 | Comments(3)