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電車型社会

 仙台の西公園と、東京は新橋駅の烏森口(今は汐留だろうか)に蒸気機関車が展示してある。全国を見れば沢山あるのだろう。実はこれを見るたびに哀れを感じてしまう。
 動かない蒸気機関車に違和感を持つのである。力強く走ってこその機関車なのだ。同じ機関車でも電気やディーゼル機関車には、そんな感覚をもつことはない。蒸気であれば故のことで、坂道を喘ぎながら登る機関車を回想する。人馬一体ということがあるが、人間がスコップで投入する石炭で動く。煙をはき、蒸気を両脇から吹き上げながら懸命に走る姿に共感を覚えた人も多かったと思う。
 がんばる機関車は、昭和30年代の日本の頑張る時代の象徴だった気がしている。今やそんな時代は過ぎてしまった。スマートにスピードを出す時代になったのである。

 蒸気機関発祥の地であるイギリスでは、今も昔の機関車を走らせている映像を見た。走っていてこその蒸気機関車ということをわかっているのである。展示だけでは意味がないのだ。
イギリスでは、産業革命の源である蒸気機関への強い郷愁があるのだろう。いちはやく7つの海を制覇して大英帝国を築いたことへの誇りを捨てがたいのだろう。

 日本では、そんな感傷に浸る必要もなく、役割を終えて不要になったものは博物館へというようなことである。実にドライだ。というかアッサリしているというべきであろう。常に時代の最先端を追い求め続けている。
 別に悪いことではないのだが味気ない。現代を猛烈なスピードで変えていく。これに違和感というか、ついていけない老人が増えはじめているようだ。

 現代の老人は、昔の老人とはまったく違う感覚で捉える必要があるとの論調をみた。老人であることを許されない時代に入っているというのである。恐ろしいことになったものだ。いたたまれなくなった老人の暴走がはじまりつつあるのだという。

 子供の頃、祖父母はそこにいるだけで存在感があり安心できたものだ。今やそんな時代ではなくなった。機関車ではなく電車の時代になった。一両づつにモーターがついていて、それぞれで走らなければならない。いや走らされているというべきなのだろう。

 もはや、家長というべきものは存在しない。家そのものが多重構造になった。△△家の葬儀や結婚式ではなくて、個人の名前を記したものが増えてきた。電車型社会なのだ。蒸気機関車はどんな長い車両数でもガンバッテ引っ張り抜いた。機関車の2重連は親と長男、3重連は孫まで3代にわたり必死で家を引っ張る姿を連想していた。動かない蒸気機関車に現代社会の移り変わりを感じてしまう。
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by watari41 | 2007-09-26 09:08 | Comments(0)

絶滅を救う

 コウノトリが大空に舞った。絶滅寸前のものを蘇らせた。次は佐渡のトキの番だ。地元ではそのための大掛かりな環境整備を行った。ここで、はてと思ってしまった。
 絶滅寸前の動物は前記の鳥だけに限らない。たくさんあるのだ。しかし絶滅危惧種に指定されるものの特別なことをやってはもらえない。何故なのか、それは冒頭の鳥が大きくて「美しい」からに他ならない。江戸時代の城郭がコンクリートで再建されるのも、その外観が美しいからに他ならない。姫路城は白鷺城の名のとおり優雅である。美しいことに価値があるのだ。
 何もコウノトリなどにクレームをつけているわけではない。その地域で、それなりの環境保護がなされるのだから結構なことなのだ。

 日本の近代化で最初に絶滅した動物は「オオカミ」であるといわれる。明治の後期にいなくなった。生態系の頂点に位置する動物でもある。その影響が出てきている。猪、鹿、猿などが繁殖して農作物に被害を与えている。オオカミがいれば、自然の調整がされるはずだった。
 オオカミが絶滅した後も、山間部を開拓した人たちは、必死でイノシシなどの獣害を防いでいたのである。しかし農村の高齢化と過疎化が、これらの獣の増殖を許したといわれる。
 先日、猪が大暴れをしたニュースを見たが、先年、わが町の中心街にも「鹿」が現れて警官が出動しての大捕り物があった。捕えられ、再び山に放つ準備をしている最中に死んでしまった。

 猿は動物園で見るものとの概念があったが、近くの阿武隈山系でも真っ赤な顔をした日本ザルに出会うことがある。記念撮影をさせてもらおうとすると、さすがに逃げていくが猿は命の危険はないことを知っている。

 オオカミを他国から持ってきて放したらどうだろうかという人たちもいる。極端な意見だ。別の弊害が起きそうである。
 アフリカ大陸で、もしも何らかの環境変化がおきれば、最初に絶滅するのはライオンなのだろうと思う。生態系の頂点に位置するものはある面で弱いのだ。
 進化とは環境変化に適応できたことでその種が存続できるのであり、強いものが生き残るのではないのだという言葉を思い出した。
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by watari41 | 2007-09-21 10:19 | Comments(3)

安倍首相の辞任:後編

 安倍内閣の在任中に最もダメージを受けたのは年金問題だったと思う。よくぞ今まで表面化しなかったものだ。横領問題にまで発展するとは予想もしなかった。参議院選挙の惨敗もこれによるところが大きいのだろう。

 この社会保険庁事件ともいうべきものは、解釈の仕方では社会主義諸国での腐敗の姿をみせてくれたような気がしている。ソ連をはじめ、かつての東欧諸国の実態は、国家全体がこんな風になっていたのだろうと想像する。現在の中国もそうなのではなかろうか。経済発展に目を奪われているが官僚機構の実態は、とんでもない状態になっているのではなかろうかと想像している。日本のメディアでも中国の「官僚腐敗がひどい」と折にふれ伝えられる。

 社会保険庁はどうして、ああまで放置されていたのだろうか。それが露見した時に政権を担当していた安倍さんは、何とも不運というしかない。しかし本当の被害者は、掛け金を支払ったのに証拠のない人達なのだ。

 およそ、2万人の職員が長年に渡り、まともな仕事をしていなかったということになる。何故そういうことになってしまったのだろうか。不思議でならないことだ。役所で働く人の天国状態を作ったということになるのだが、業務をすっぽかしていたのである。

 小泉さん以来、改革という言葉がよく使われる。これは、より市場経済を徹底しようということだ。一見して良いことのように思えるのだが、その弊害の方が大きくなりつつある。貧しい人はより貧しくなっている。中国の社会主義市場経済が典型例で、貧富の格差は天文学的数字になっている。日本もそんなことに進みつつあるのではなかろうか。

 バランスのとれた経済政策は極めて難しいのであろう。個人も富み、国家も富むというような経済理論はないものかと思ってしまう。安倍さんは、そんなことも含めていろんな政治・経済的板ばさみに苦しんだようだ。突然の辞任は、日本の混迷のしるしでもあるのだろう。

 これまでに蓄積された、日本の負の遺産ともいうべきものはまだまだあるようだ。そんなものの一つ一つが次の内閣にも響いてくるのだろう。流れは一挙に福田さんへと傾いた。政治家の感覚は我々には計り知れない。半ば人気投票みたいなところもある党員投票で麻生さんはどれほどの票を得られるかにしか興味がなくなってしまった。
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by watari41 | 2007-09-17 09:54 | Comments(5)

安倍首相の辞任:前編

 長期政権の次の内閣は短命である。今回もそうだった。前政権が持てるエネルギーを使い果たしてしまうからなのだろうか。小泉さんは今にして思うと大立ち回りをやったものだ。亀井・平沼・綿貫さんをはじめ十数名の人々を切り捨てたのである。都会の人々は大喝采した。国会というか自民党を劇場と化した。そして有権者を観客にしてしまったのである。
 しかも、小泉時代には何十年も前から内在していたであろう、年金問題が在任中に表面化しなかったのである。グリーンピアなどで何兆円もの損失が明らかになったが、一般の人々は自分の年金は大丈夫なのだろうと思っていたはずだ。

 安倍さんは、一面では損な役回りを引き受けた。辞任の直接のきっかけはイラクでの給油問題にあった。アメリカとの関係は何事よりも優先される。かなり以前になるが、鈴木善幸首相(岩手県)が、米国大統領との会談から帰国直後に突然辞任した。安全保障に関して、先方の不興を買うような発言をしてしまったらしいのだ。米国からのクレームは首相のクビに値したのである。
 安倍さんも、そんなことを意識していたのであろう。給油の約束に政治生命をかけるとまで発言していた。これまでの強行採決などの実績から見て、衆議院2/3の絶対多数を生かして、法案を通し、しかるのちに辞職するのだろうと解釈していた。しかし、その前に辞めてしまった。
 恐らくは、このストーリーには、ものすごい政治的エネルギーが必要になるのだろう。精神科医はストレスの限界に達していたはずだとの見解を述べていたが、安倍さん自身も気力の限界を感じたのであろう。

 アメリカとの約束は絶対的なものとなっているようだ。その意味では気の毒な状況におかれてしまったというべきだろう。国際問題に関して、野党と意見が分かれているのは不幸なことである。

 安倍さんは、右よりの考え方といわれるが、民主党には小沢さんをはじめもっと右の人がたくさんいるようだ。政党は本来、政策を同じにする人たちが集まるものだが、残念ながら権力闘争的になっている。それはそれで、仕方がないのであろうが、政権がもっとスムースに交代できるようになってほしいものである。本来ならこのような場面では民主党が担うべきなのだが、自民党内で回されるにすぎない。これまでもそうだったが本質的におかしいのである。
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by watari41 | 2007-09-13 20:45 | Comments(0)

水の輸入

 日本は「水」の輸入大国なのだという。一瞬ピンとこなかったが、農産物など食料品を大量に輸入している。すなわち間接的に水を買っているのである。カロリー比率で39%の自給率しかないそうだから、現在の耕地の2.5倍に相当する土地を海外に確保していることになる。(ここまでは私が読んでいる農業新聞の受け売りだ)

 一方では、メタボリックシンドロームという、カロリーの取りすぎが指摘されている。テレビではグルメが華やかで、太ったタレントが猛烈に食いまくる番組が受けている。見ている方が何もそこまで食わなくともといいたくなる。パンパンにお腹を膨らませた女性が次々に甘いものを食べていく。公共の電波を使ってどこかがおかしい。
 ローマ帝国時代の富裕層は、食べたものを吐き出してまで、次のご馳走を食べたというがそんなことを連想してしまう。

 またまた、昭和20年代を回想してしまうが、あの頃は自給率が高かったのだろうと思う。
 「日の丸弁当」と称する梅干が一つ飯の真ん中に入ったものが普通だった。たまのご馳走は卵焼きかクジラの焼肉だった。特に女の子などは、教科書を立ててオカズが見えないようにして食べていたものだ。懐かしい思い出である。

 我が家では豚も飼っていた。現在の生ゴミが餌なのである。自家用ではなくて、現金収入を得るためのものである。いまだに生ゴミにプラ物などが入っていると、一瞬だが豚の喉にひっかかると思ってはっとすることがある。幼い頃の記憶は抜けがたい。
 ニワトリは放し飼いに近かった。遠来のお客さんがあると老鶏を一羽つぶすのである。ガムみたいな肉だった。

 今は、捨てられている食料も多い。当時は現在の60%程度のカロリーで生活していたのではなかろうか。外国から上述のような形で水を買ってくるなどということは想像もつかなかった。

 飲料水そのものも輸入している。フランスの深層水だというものをコンビニなどで、ガソリンよりも高価で購入して飲んでいるのである。
 これら日本人の生活の根幹を支えているのが輸出品だ。自動車や精密電子機器などの一部は「水に還元」されていることになる。何とか還元水を飲んでいると言った農相がいた。妙なる表現だったのだ。
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by watari41 | 2007-09-09 06:57 | Comments(3)

地上デジタル

 <追加>
 「テレビは現代の王様」だ。文春先月号に永六輔さんが一文を載せていた。日本には七人の王様(テレビのキー局)がいて、それぞれに一千万人以上を支配下においている。昔の王様と異なるのは、支配されるものが時間毎に王を選べることだ。一般には、より下らない王が選ばれる傾向にある。一見して選択の自由があるようだが、選ばれた王はより支配力を強めていく。そして支配下のものを、より下劣な世界に導いてゆく。おかしな方向に向かっていても気がつかないでいる。(註:上記は永さんが書いていることではない。永さんはテレビに映る恥を書いていた。私はその文をを読んでの感想である)

2011年、今から4年後には現在のアナログテレビが見られなくなる。デジタルテレビへの買い替えが進んでいる。しかし最後まで買えない人が出るだろうといわれている。その時には無料で変換コンバータを配るのではないかとの噂も出ているようだ。現在のアナログ電波帯を空けないことには、デジタル化の意味がなくなってしまう。この空いた電波領域を狙っている人たちがいる。電波は貴重な公共財産でもある。

 私もテレビの買い替えをためらっていた一人である。昭和50年代に買ったテレビが当ったのである。長持ちしている。コンソールタイプの今時は博物館に行かないとお目にかかれないものだ。このテレビを持ちこたえて無料コンバータをいただこうかなどと不埒な考えもしていたが、激安の広告が飛び込んだ。22型で39,800円という信じ難い価格だった。早速行って見た。店頭の放映展示用だったものだ。ブラウン管タイプではあるがそのまま買ってしまった。アンテナも一緒にといったらUHFアンテナでOKなんですというのだが、屋根の上で、もうすっかり錆びついている。新品を購入したら800円だ。これまた激安に驚いた。先日ホテルで飲んだコーヒーは700円だったのだ。

 店員は私の年恰好を見たのであろう、取り付けに行きますかというのだ。大丈夫だと断った。店では設置料も稼ぐのだろう。安く買った意味がなくなってしまう。

 アンテナを取り付けて写して見たら驚いた。映るものと映らないものがある。アナログ時代は感度が悪いと映像が乱れたり画面が砂嵐になったものだが、今度はデジタルなので、「1」か「0」なのだ。少しでもアンテナ方向が悪いと「信号レベルが低下してます」との表示が出てまったく映らない。ほんのわずかの調整で今度は鮮明な画像が現れる。こういうことなのかと思ったものである。仙台の放送局アンテナから我が家まで約25km、電波信号も減衰するのだろう。

 若かりし日に、真空管式のテレビキットを購入し組み立てて、アンテナを上げたことを回想したが、現在のデジタルテレビは比較にならないほどハードウエアが進歩した。しかしソフトともいうべき番組内容は進化していない。我が家のテレビセットの如く長寿番組もあるが、全体的には半世紀過ぎてもあまり変ってはいないようだ。良い番組の増えていくことを望みたい。
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by watari41 | 2007-09-04 16:53 | Comments(6)

多賀城の碑:後編

 我が家に「多賀城の碑」の拓本がある。掛け軸だが、ボロボロで真っ黒だ。床の間に百年以上も飾ってあったものだろう。昭和30年頃までは、「いろり」で火を燃やしていたのだからそうなって当然である。新築時に押入れに大事にしまいこんだことを回想していた。

 「多賀城の碑」は西行(12世紀の歌人)が訪れてから地震などによって倒れたのであろう。もはや多賀城は、「東北の国府」でもなくなったので、そのまま放置されているうちに土中に埋ってしまったのだろう。再び日の目を見るのは江戸時代に入ってからである。500年ぶりに掘り起こされた。

 やがて、古碑は評判をよび、芭蕉も訪れ賞賛したことから、拓本を求める人が続出したようだ。拓本を量産するのに碑文と同じ文字を「木」に彫って刷り込み当時の観光客に売ったようなのだ。そんな一つを我が家の先祖が購入してきたのだろう。本物の拓本と「木」で大量生産したものとでは若干の寸法差異があるようだ。退職したら表具屋にお願いしようなどと思っているうちに、かなりの月日が過ぎてしまい、そのままになっている。気になっていることのひとつでもある。

 碑文にある「靺鞨国」は、西暦900年代の白頭山の大噴火で滅亡したといわれる。北朝鮮では、この山を聖なる場所としている。かの金正日は、その出生に箔をつけるためにそこで生まれたとされているらしい。

 その「靺鞨国」は意外にも、秋田美人と関りがあるというのだ。太古より靺鞨国からは多くの人々が秋田にきて住み着いたのだという。靺鞨人には、ヨーロッパ系の血が入っており、日本古来の人との調和がうまくいって秋田美人が生れたという説には興味をもった。DNAなどを調べたらなどとも思うが、古代ロマンとしている方が面白い。

碑文の上部にある「西」という文字も謎だそうだ。碑は西向に立っているが、わざわざそんな文字を入れるところをみると、遠い先祖をさしているのだろうか。歴史ロマンは尽きることがない。
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by watari41 | 2007-09-01 08:42 | Comments(4)