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川の流れ:続々編

 よく考えてみると阿武隈川のことについて記載すべきことは、いくらでもあるような気がしてきた。初回に何気なく書いた川筋が少し変わって、わが町の”領地”を失ったことを記したのが発端だが、川の長い歴史を振り返るとそんな”ケチ”なことではなく、とてつもないことが起きているのである。

 土台、我々の立っている、この平野は阿武隈川が数千年をかけて運んできた土砂が堆積したものなのだ。それも毎年少しづつではなく、数百年に一度の大洪水によって一気に拡大していったのだ。川筋は何度も大きく変わったはずだ。
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 川の絵図は、伊達氏入城の17世紀以降のものは存在するが、それ以前はわからない。そこを調べた人たちがいた。東北大理学部の松本先生などが学術調査をしたのである。その昔、川が流れていたところは、自然堤防が形成されていたはずだと、そこを調べたのである。一見して平らに見えるこの平野もあちこちに小高い部分がある。そこを自然堤防と推定しボーリング調査したのである。その結果報告の講演会が2004年9月にわが町で開かれた。後に小冊子にまとめられた(右図)。それによると5世紀と紀元前6世そして紀元前13世紀頃に大洪水があり、上流からの大量の土砂でこの平野が広がっていったのだという。

 私は、このブログを開設した当初にわが町の海岸から5kmも離れた山沿いに貝塚(4千年前の遺跡)があるのを見て、地球寒冷化による海岸線の後退によるものと考えたのだが、全くの見当違いだった。ここ数千年海面の変動は起きておらず、海岸線の後退は阿武隈川が運んだ土砂なのである。
 現代に入って、気になるのはダムなどによって、土砂は少なくなり昔とは異なる環境条件のもとに川が流れているという指摘があったことだ。何事もないような悠々たる川であるが流れの中味は変わっている。

この川は、昔から京の人々にもよく知られていた。鎌倉期の和歌を2首掲げて一旦このシリーズを締めることにしよう。

風そよく 稲葉のわたり 霧晴れて
         阿武隈川に すめる月影(光俊)
君もまた 阿武隈川を  待つべきに 
         のこり少なき 我ぞかなしき(範水)
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by watari41 | 2007-06-28 09:46 | Comments(4)

川の流れ:続編

 もともと、続編を書くつもりはなかったのだが、前作を見て同級生のMさんが故郷(山口県)の川を思い起こしたと長文のメールをくれた。阿武隈川を地図ネットで検索して、ここが動いたのでしょうと推定した添付ファイルを送ってきた。Mさんの故郷の川をも同封してあった。現在は名古屋に住んでいる。私のブログを熱心に読んでもらっている。

 前作を書くきっかけとなったのは”阿武隈川の歴史と文化を語る会”という郷土史の専門家で構成するチームが最近発刊した「絵図・地図で見る阿武隈川」という小冊子を入手したことによる。昔からのいろんな絵図を収録してあるが、元禄15年(1702)のものと、現在の地図とを比較すると川筋の変化がよく分かる。
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 本来は、自由に流れていた川を堤防などで制御するのだから、現代の治水対策には莫大な資金がかかることをPRしたい”国土交通省”の狙いとも一致したのであろう。この小冊子は”東北地方整備局仙台河川事務所”が発行所となっている。
(ロゴ画像にある表紙の阿武隈川は、元禄よりさらに50年ほど遡った時代の絵図である)

 子供の頃、汽車の窓から見ると、現在の堤防位置より1km以上も岩沼よりの畑をぬって盛り上がったところがあった。昔の堤防なのでであろう。これまた懐かしい回想である。
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by watari41 | 2007-06-24 09:55 | Comments(0)

川の流れ

 阿武隈川は、日本で6番目の大河である。河口から約10Kmに渡り、わが町と岩沼市を分けている。川の中心が境界である。当たり前のことだが、戦前にはちがっていたのである。わずか60年前のことである。対岸、すなわち岩沼市側にわが町(亘理)の”領土”がかなりあったのだ。
 どういうことかというと、今では立派な堤防ができているのでそんなことは有り得ないのだが、昔は粗末な堤防だったので洪水の都度その流れを大きく変えていたのである。江戸時代の頃であろう、対岸同士の両村で川の中心を境界線と決めたのだが、その後に大きな洪水があって、流れが変ってしまった。わが町側に川筋が大きくずれ込んでしまったのである。そのために取り残さてしまい、岩沼とは地続きになった地域ができてしまったのだ。そこに住んでいた人たちは、わが町とは阿武隈川で分断されてしまったのである。
 町内会の連絡など住民は何かと不便をかこうことになった。明治時代になると本格的な堤防もできたので、もはや川筋が元に戻ることはなくなったのである。
 戦後になって、時の首長は、ようやくというかついに決断して、岩沼にそこを無償で譲り渡したのである。地域の住民は何かと便利になった。メデタシで終るはずだった。

 ところが、その地区に日本の高度成長期と共に、大きな製紙会社とタイヤの工場が進出したのである。岩沼市は莫大な税収を得ることになったのだ。タナからボタモチである。歴代の岩沼市長は、わが町に来ると、こちらに足を向けては寝られないと社交辞令を述べていくのだが、わが町からすれば、時すでに遅しであり如何んともしがたいことなのである。悔しがる人も多かった。

 昭和21年である。譲り渡しの調印式が竹駒神社でおこなわれた。その時、岩沼役場の職員が酒2本を持参したそうである。売買契約ではないのだが、後々までその酒2本が購入代金みたいな話になり面白、おかしく伝わった。
 無償で、もったいないことをしたもんだということなのだが、現在の地勢からみるとやむを得ぬことで、そこに住む人にすれば大変に良いことをしてくれたという感謝の気持ちが強い。住民の為に損得抜きの英断をしたというのが時の首長に対する後の評価である。我々もよく知る地元の近代史の一端を紹介した。
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by watari41 | 2007-06-19 08:34 | Comments(5)

花々のこと

 福島市郊外の花見山は入場無料である。節の頃の美しさはたとえようもない。現代の桃源郷だといった人もいた。近年益々人気が高まって数十万人の見学者がくるという。個人の山なのである。持ち主は花卉商売をしているので、見に来る人から料金を取る気はさらさらないそうだ。花に対する独特な愛情を持った方である。

 一年間、丹精込めた花を見せてもらうのに入場料を払うのはあたりまえのことだ。私の住んでいる隣町岩沼市には金蛇水神社の牡丹園がある。有料だ。宮城県北の栗原市一迫には、あやめとゆり園があってこれまた見事である。私はあまり出歩かない方なので、各地のことは新聞などで知る程度だが、あやめ園は方々にあるようだ。東京にいたころ明治神宮内のあやめ園だけが、別に入場料を支払うようになっていた。牡丹、あやめ、百合などは昔から日本人に愛されてきた花だ。これからもその人気は衰えないことであろう。日本美人のたとえは「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿はゆりの花」である。

 今や日本古来からの花だけではなく、外来のものも多くなった。ホームセンターに行くと、おびただしいカタカナ名の花がある。そんな日本で先年ヒットしたのが「世界に一つだけの花」というのも面白い。外来の花は人気の消長が激しいのである。

 戦後の一時期に「ダリア」の花がブームになったことがある。南仙台で農園を経営していた親戚が日本一のダリアの品種改良家として、全国の園芸農家にその球根を販売していたことがある。50年も昔のことで、当時の河北新報にも農場めぐりの一環として紹介されていた。数え切れぬ新品種を産んだが「ミス仙台」と名付けたダリアがあったのは面白い。
 子供の頃に何度も遊びに行ったことを回想するが、今や幹線道路が走り住宅地となってしまった。当時を想うものは何もなくなった。ダリアのブームは何年続いたのだったかと思う。やがて園主はアマリリスの改良に転換したのだったが、これも長くは続かなかったように思う。

 梅雨を前に百花繚乱の時期である。数々の物語や詩に読まれてきたであろう、オンリーワンだといわんばかりの花々に見入っている。
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by watari41 | 2007-06-14 08:55 | Comments(3)

俳句のこと

  「さみだれを集めてはやし最上川」   芭蕉
  「さみだれや大河をまえに家二軒」    蕪村

 同じような句に見えるが、蕪村には緊迫感があり、情景を詠った芭蕉より優れているのだという。解釈の一例に過ぎないが、時代と共によみ方も変っていく。わずか17文字に森羅万象を込め、どんな情景をも凝縮する俳句は日本語の極地であり、日本文化の精髄でもあろう。

 日本の近代化とともに俳句も大きく変化した。正岡子規が蕪村を評価した。明治の子規以降、昭和40年頃までに活躍した俳人30名ほどの事歴と作句を読んでみた。「近代俳句の鑑賞と批評」という本である。著者は大野林火さんという人だ。社会の変化につれて俳句の世界も大きく揺れ動いた。「季語」をはずしたり、自由奔放に詠んでみたり、そして再び写生に返るなど有名俳人の中にも試行錯誤が読み取れる。俳名を聞くことがあってもその句を知らないことが多い。

 「曖昧さの中の合理性」が俳句であるともいわれる。そんなことを戦後東北大教授だったフランス文学者の桑原武夫さんは激しく批判した。世に衝撃を与えた「第二芸術論」である。敗戦が日本文化そのものを根源から揺さぶっている時期だったので俳人たちを震撼とさせたらしい。虚子も有効な反論ができなかった。しかし今や17文字の文学であることを疑う人はいない。ただ、私などの素人が読んで分からない句というのも結構多いのも事実である。

 昔から全国各地には俳句をたしなむ人が多い。わが町にも江戸期からの句が残っている。明治26年には芭蕉の二百回忌を記念して城跡に関係者が碑を建立し献句した。句会は今も続いておりその作品は町の広報誌にも掲載される。

 短い文で詩を作るのは日本特有のことではなく、世界のあちこちにもあるようだが、俳句ほどに国民的支持を得られているものはなさそうだ。盆栽などと並んで、ミニ宇宙を構成する独特な文化である。
 こういう感覚が、科学技術の面でも発揮され、世界に先駆けて超小型の電子機器などを生み出す背景だと思っている。科学者の中にも俳句をこなす人が多い。作句は男女を問わない。現在は、女性俳人の黛まどかさんが有名だ。
 私は句を読むのは好きであるが、作るのは残念ながら全くダメである。従って上記の記載には、相当に見当違いのことがあるかもしれない。
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by watari41 | 2007-06-09 07:50 | Comments(8)

パターン認識

 テレビの天気予報は年々わかりやすくなってきている。画面で全国各地に表示される気象マークで、ひと目で天気概況がわかるようになった。次いで県内が拡大され同様の表示がでてくる。確率と温度の数字だけでお天気用語はない。実に見やすい。雨の時はまさに降り注ぐマークになる。警報・注意報の時に気象用語が出るだけである。

 図や絵は見た瞬間に、それが何であるかが理解される。対するに文字は読まないとわからない。読んで理解するまで少し時間がかかる。デジタル的には文字と絵や動画では桁ちがいの情報量差異がある。文字の少ない情報量を補うのが脳なのであろう。

 我々世代はまだ文字の世界になじみがあるが、若い世代はパターン認識を得意としている。漫画やゲームの世界がまさにそうである。囲碁・将棋でもプロは、手を読むのではなく、10手も先に展開されるであろうパターンが瞬時に頭に浮ぶらしい。それらのパターン比較が考えている中味なのだという。パターン認識とはいってもプロの脳の活動量はアマチュアに比べると桁違いに大きいのだ。我々は考えているというよりも迷っていることが多い。その迷いが吹っ切れた時が強くなったということらしいのだ。

 新聞もパターン認識の世界であるといえよう。写真や見出しを眺め興味ある記事があればそれを読む。雑誌や小説は最初から文字を追うのであるから、それなりの中味を期待してということになる。文字は読む人に想像の余地を与えてくれる。
 パターンでの認識は一瞬で対象を理解することができるが、文字は種々のことを考えさせてくれる。しかし面倒がられる。現代の生活はパターン化されたものを認識するだけで成り立つようになってしまった。

 テレビがその典型である。普及が始まった頃だからもう半世紀も前に大宅壮一さんという人が「一億人が総白痴化」してしまうと言って社会に強い衝撃を与えたことを回想するが、知らずのうちに我々の脳はパターン認識対応に変化しているのだろうと思っている。
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by watari41 | 2007-06-04 09:19 | Comments(4)