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軽薄短小(1)

 トランジスタテレビが登場した頃だろうか、「軽薄短小」の時代といわれた。その後、世の中が目まぐるしく動いた。いろんなものが小さく、軽くなった。技術革新の大きなうねりと重なったのである。特にテレビや電話など電子機器分野の発展は目覚しく、今もそれは続いている。信じ難いほどに小型・軽量化して薄くなった。

 私の在職中の大半は、残念なことにその対極にある「重厚長大」の世界に生きてきた。その為に、いろんな悲哀を味わったことを回想している。入社の頃は、例えば電話交換局が一つできると、何百トンもの鉄物を必要とした。しかし三十年後には、両手で一抱え程度のセットが何万回線もの交換を瞬時にやってしまうようになった。退職の頃にそんな新・旧時代の電話局を見学したことがあった。同様にテレビも全く変ってしまったのは誰もが実感している。

 人間も「ケイハク」になったのではないかとの冗談がいわれた。そんなことを先取りするように植木等さんが演ずるケイハク男が大ヒットをした。その時代背景として上記のような変化に対する潜在意識があって、多くの人々に受けまくったのであろうと今にして思うのである。

 「重厚長大」は、何も「金属」の時代からのものではない。石器の時代からのものである。ピラミッドがその最たるものだ。だがその用途はまだ謎である。イギリスのストーンヘンジは太陽観測装置だといわれるが、それにしてはあまりにも巨大である。権力の象徴でもあったのだろう。「軽薄短小」化は、誰もが所持できるので、ある意味で平等社会を具現化しているともいえる。

 未来は、そんな言葉をも超える「ミクロ・ナノ」の時代になるだろうことは万人が予測している。技術の進歩には加速性がある。わずか数十年来の変化を略記してみたが、ごく近い将来にはまた、とんでもないことになっていそうな気がしている。
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by watari41 | 2007-04-30 08:09 | Comments(4)

国のモデル

 夕張市が破産した。日本国そのものは大丈夫かと思ってしまう。何しろ千兆円もの借金を抱えている。いつ倒産してもおかしくない。
 夕張の破産とはどんなことだったのかと思っていた。引導を渡したのは銀行のようだ。地方自治体が倒れるなんて、これまでは考えられもしなかった。しかし、市政の運営には多額の資金がいるのだから、金融機関からの融資によるしかない。
 その返済は税金や国からの交付金が頼りなのである。返済が出来なければ破産に至るのは当然だが、民間会社では当たり前のことでも、なかなかピンとこないところがあった。
 破産のモデルケースに選ばれたのであろう。自治体といえど多額の金をつぎ込んで事業に失敗したらこうなりますということなのである。今は再建の過程を試されている。

 しからば国家の破錠とはどういうことだろうか。近世にその例をみると幕府の瓦解と、第二次大戦の敗戦によるものだ。江戸幕府崩壊は薩摩や長州といった、いわば地方の反乱によるものだ。当時は外様大名が財政的に独立していたからそんなこともできた。明治新政府は天皇を担ぎ出しドイツなど西欧をモデルとした。第二次大戦後はアメリカがモデルだった。

 だが今や「次の国家モデル」がなくなっているのだ。フランスもアメリカ型を目指そうという大統領候補者が優位である。ソ連を崩壊させたエリツインさんも、そんな自由主義を考えていたのだ。サッチャーさんもそれでイギリスに元気を取り戻したといわれた。これをもって世界の歴史が終わったのだといった論者まで現れた。

 しかし、アメリカ型の自由経済も理想のものではないことは明らかである。次のより良いモデルがない限りは日本が破錠しても同じ道を歩むしかない。国家破産ができないということになる。ならば借金を減らすしかないと、その施策が始まりつつある。我々から、いろんな形で多くの税金を巻上げて国を維持していくということになるのだろう。
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by watari41 | 2007-04-25 11:18 | Comments(2)

死の商人

 昨年、銅の価格が2倍にも上昇した。中国の需要増が原因だといわれるが国際的な投機筋が絡んだものであろう。
 在職の頃、原料金属の価格暴騰を幾度も経験した。最も凄かったのは「コバルト」である。短期間で5倍にもなった。当時は全世界のコバルト需要が年間2万トンくらいだった。それが磁石や特殊鋼となる。
 その産地はザイール(現在のコンゴ)などアフリカ諸国である。内戦が価格暴騰のきっかけだった。30年ほど前のことになる。毎日のように価格が上っていくのだ。磁石などを作るよりも、以前に購入しているコバルトをそのまま市況価格で売った方がはるかに儲かる計算の時があった。しかし、得意先との信用上、物を作らないわけにはいかなかったのである。
 市場からコバルトが消えてしまったが、産出国から出荷されなかったわけではない。いくら内戦中とはいえ重要な財源であるからだ。それらを買い占めた取引業者がいたことは間違いない。そして内戦が激しくなるので、尚一層、品物がなくなると煽るのである。そこでまた市況が上るということを繰り返して、ピークになったところをみはからって放出し、莫大な利益を得るのである。

 先日「ブラッド・ダイアモンド」という映画を見た。アフリカで産出されるダイアモンドをめぐる生々しいドラマだった。良い映画だった。現地での内戦と、それに振り回される家族の悲惨さ。掘り出されたダイヤは西欧に流れてそれを扱う業者がおり、最終消費者は現代文明を謳歌している人々なのである。ダイヤが血塗られた品々であることを多くの人々は知らずに購入している。

 アフリカの中央部一帯は、「カッパーベルト」とも呼ばれている。「銅を産出する地帯」という意味だ。現地の人々にとっては恵みの資源だが、国際商品でもあるので、それを扱う業者の思惑が絡んでしまう。投機筋が顔を出す。彼らはトラブルを好み、紛争をネタにして価格を操作し莫大な利益を得るのある。その陰で多くの血が流されている。現代のまさに「死の商人」なのである。
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by watari41 | 2007-04-20 09:08 | Comments(3)

用語のイメージ

 「団塊の世代」は造語なのだが、かつてこれほど定着した言葉はなかったと思う。現代社会のキーワードになった。"団塊”と聞いただけで様々のことが脳裏に浮かんでくる。これを作った堺屋さんの得意や思うべしだ。
 いろんな言葉が作られては消えていく。多くは日本人の心情にフィットする何かが欠けているから定着しないのであろう。日本は「言霊の国」だといわれる。昭和30年代の「神武景気」などというのも考えてみればおかしな用語なのだが定着してしまった。「広辞苑」改版の時に、どの新語を取り入れたらよいのかという苦労がわかる。

 時代と共に、用語のイメージが実体とかけ離れてくることも多い。65歳以上が「高齢者」というのもその一つである。中年から、老年にかけて、それにふさわしい表現にしようと、「実年」などという用語が政府の肝いりで出来たこともあったが、いつのまにか忘れ去られてしまった。「熟年」もよくつかわれるが、年齢範囲がどこからどこまでというのが人によって解釈がまちまちである。

 イメージがよくないからと、名前を変えられてしまうこともある。東北本線が上野から黒磯まで宇都宮線となってしまったが、我々からみると釈然としない。仙台駅前のターミナルホテルが欧米では終末を意味するということで縁起が悪いと変えられたようなこともあった。

 気象関連で気になる用語がある。「低気圧」という言葉だ。一般には天気が悪いという程度のことしか頭に浮かばないが、低気圧にはピンからキリまであって大型船をも転覆させる猛烈なものまである。台風だといわれると身構えるが、低気圧では警戒しない。「爆弾低気圧」とかもっと適切な名称をとの漁場関係者の切実な要望は当然だが、名称に関する結論は先送りのようだ。本来の意味とは別のイメージが形造られている用語も多く、そんなことを話題にする番組まで表れた。。

 相手に決定的なダメージを与えてしまう言葉もあれば、社会現象を一言で表すような巧みな用語もあり、日本語は難しくもあり、また面白いところでもある。
 口先三寸など、言葉ひとつでどうにでもなるというようなところもある。社会を動かし、人を動かすのは言葉であり、用語が持っているイメージなのである。
 「金属」も若い人にとっては、古くさいものという感覚で捉えられるようになってしまった。材料工学と名前を変えたら優秀な学生がが集まるようになったなどの話も聞いた。表紙が変るだけで、中味も変ったかのような錯覚を起こすこともあるのだ。
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by watari41 | 2007-04-14 17:22 | Comments(4)

泥棒の横行

 数トンもの鉄板が盗まれる。神社の屋根が剥がされる。かつてなら考えられない荒っぽい手口である。現代の世相を反映しているのであろうか。
 1980年代頃までの治安のよかった時代には、現金以外なら何をおいていても盗まれる心配などなかった頃が懐かしい。より豊かな時代になったはずなのに、殺伐とした世の中になってしまったのはどうしたことだろうか。

 いろんな泥棒がそれこそ大昔からいたのだが、入社した頃に先輩からよくこんな話をよく聞かされたものだった。ニッケルを多く扱う会社なので、戦後間もなくの頃だったらしいが従業員が弁当箱に、ニッケルの小さな金属塊を入れて持ち出すことがよくあったのだという。物資の乏しい時代だったので高値で売れたらしい。そこで帰りの出門の際に弁当検査といって、風呂敷に包んである空弁当を手に取られて、少しでも重いと中味を確認されたというのである。当時の人たちにとっては誰しも強烈な思い出であったらしい。ドロボーとはいえ今から考えると、むしろのどかな光景だ。

 少し時代が下がって私の在職当時には、白金とかロジュームなどの貴金属を、高い温度を正確に測定する際によく使ったのである。だが、これを盗んでやろうなどという人はいなかった。良い時代を過ごしてきたものだと思う。百kgもの金塊強奪をみて、網に入れて引っ張るなど驚いた手口にあきれかえる。人をみたらドロボーと思えなどということが頭をよぎってしまう。

 いろんなものが盗まれてる。収穫直前のサクランボ、スイカ、お米など一夜にして大量になくなってしまう。一年の苦労が水の泡になってしまう。数十年前には、こんなことは考えられなかった。この農村地帯でも留守には家に鍵をかけるよう何度も注意をされている。
 人心がすさんできたと言われる。原因は何んなのだろうか。一朝一夕のことではないのだろう。しかも徐々に悪化しつつある。「美しい国」ではなく、「ドロボー国家」に向かっているのではないのかと心配している。
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by watari41 | 2007-04-08 09:54 | Comments(6)

見る人、やる人

 「私、作る人」、「あなた食べる人」というコマーシャルがあった。かつて、スポーツも「観る」ものではなく、健康の為に自らやるものだなどと言われた時代もあった。だが今やプロスポーツの「観戦」が、観劇同様に一つの文化になったのである。
 このように、「観る人と、やる人」が違う分野もあれば、融合しつつあるところも出ているようだ。小説家は読者がいて成り立つ。だが読む人が少なくなって、自ら小説を書く人が増えているのだという。

 スポーツの世界ではプロには逆立ちしたってかなわないが、小説などは自分でもと思わせるところがある。実際には難しいものなのだが、思い込みの生ずる余地がある。
 素人がやると、草野球であり、演劇をやったつもりでも学芸会といわれたり、書き物は三文小説と呼ばれるように、大方はそれなりのものでしかないこともまた事実である。

 テレビが日本中を「見る人」に変えてしまったといわれる。「見る」だけだったテレビも、次第に「やる人」をも作り上げている。イカサマな内容を放映されても、そうと指摘されるまでは誰もわからない。食物の世界でそんなことが起きてしまった。だが、健康に良いからといっても「皆の体操」などの番組を見ている人はほとんどいない。体を動かすよりも口を動かす方がはるかに楽である。

 製造者と消費者も、考えてみれば「作る人」と、「使う人」の違いである。製造にたずさわっている人も、一歩会社の外に出ると消費者である。物を消費するばかりではなく、映像を消費したり、「観る」ものは消費行動なのである。「作る」方も物だけではなく、実に多方面に渡るのである。
 これらの全てが「現代文明」なのだと、私なりに解釈している。これもまた、時間と共に変化している。消費者ニーズへの対応などといいながらも「作り手」の都合(視聴率を上げること)がニーズ(納豆を食べること)を作ったりすることもある。我々は現代文明の一翼を担っているつもりでも、単に踊らされていることも多いのだろうと思っている。
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by watari41 | 2007-04-02 20:09 | Comments(11)