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同級生(3)

 小・中学校時の同級生への回想は尽きることがない。

 ①50才を過ぎた頃に箱根での同級会があった。東京在住のT君が、路線バスで向かおうと新宿の停留所に行ったところ、白髪の老人が並んでいたそうである。乗車して、その老人の隣席が空いていたので一緒に座ったそうだ。目的地に着いたので降りようとしたところ、くだんの老人も下車したのだという。どこに行くのかと思っていたら、会場のホテルに入り受付をしているので、改めて顔をみたところC君ではないのかと、お互いに大笑いになったとか。中学卒業以来だったのであろう。
それとは知らずに街中で、すれ違っている同級生もいるのだろうと思う。

 ②地元で、父親から魚屋を継いだ男の話である。市場で朝の仕入れが終わって、箱型の保冷車を運転して帰る途中に、後ろの白バイに気がついたのだという。緊張しながらハンドルを握っていたが、離れる様子がないので、何だろうと思っていたら、待避所のあるところでストップをかけられたというのである。警察官は、保冷車に記してある魚店名と住所を見て懐かしくなり、追いかけてしまったというのである。
 白バイの警官は小学校4年まで、その近くに居住していたが、父親の転勤で引っ越したのだという。警官からあなたはK君なのだろうと問われたそうだ。白バイ警官の自己紹介に、魚屋の男は当時の記憶がよみがえったのだそうだ。
 我々とは同級生だったのである。路上での出会いは、もう30年も前のことだ。それ以来、時々は同級会に顔を見せた。警察官となったM君は小学校3年生の学芸会でのクラス全員の写真と通信簿を持っていた。これがW小学校に在籍していた証拠であり、私の「宝物」でもあると語るのだ。 子供の頃のいい思い出があるのだろう。

 同級生も多人数になると、皆が皆な仲良しというわけではない。特に女性はいろんなグループがあるし、個人間でもいろいろある。部屋割りなどで幹事は苦労するのである。いい歳をくってからも、それは続いているのである。いろんな思い出があるが、今回のこぼれ話しをもって同級会の話は一旦打ち切りとしよう。
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by watari41 | 2007-03-26 11:45 | Comments(5)

同級生(2)

 企業家精神に溢れた女性もいる。子供の頃は全く目立たない人だった。首都圏の方と結婚した。小さな喫茶店を始めたのがきっかけだった。その後に、個人貿易商とか、いろんなものに手を広げていったのである。
 ご主人をかまうことが少なくなってしまったのである。オレと事業の、どっちを選ぶんだと迫られたのだという。彼女は離婚したのである。
 ある時の同級会での言葉が忘れられない。「会社の経営ってこんなに面白いものだとは思わなかった」と。事業はどんどん拡張していった。ビデオ関連の会社を手がけて、数十人の規模に達していたころに、驚いたのはその会社を売り払ってしまったのである。十年以上も前のことだ。どうしたんだと聞いたところ、これでもう事業のことからは手を引くのだという。そして再婚したのである。おそらくは立派なマンションに住んで優雅に暮らしているのであろう。

 先日、ヒョッコリと、その彼女が線香を持って我が家を訪れた。実家での法事があって日帰りするので忙しいのだといいながら、わずかの時間話をしていった。女性の衣装のことはわからないが、見るからに豪華なコートを身にまとっていた。待たせてある路上の車には、今のご主人と前夫との間の娘さん、そして大きくなったお孫さんが乗っていた。車の中のご家族には外からのご挨拶をしただけであった。

 人には、どんな才能が隠れているのかわからない。私をはじめ多くの方々は、平凡なサラリーマンか主婦なのだが、飲み屋をやったのも4人いた。接客業にはそれなりの資質が必要なようだ。一人の女性は失敗した。美人ではあったのだが、客扱いとなるとこれはまた別の要素が関係するようだ。客の心をつかむというか、そんなことが要求される。この分野で生き残るのは厳しいのである。
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by watari41 | 2007-03-20 09:14 | Comments(7)

同級生(1)

 田舎の小・中学校ではあったが、同級生は200人以上もいた。我々の年代はその1/3は、首都圏に移り住んでいる。還暦を迎えるまでは、かなり頻繁に各地で同級会を開いていたものだ。私も幹事の一人である。
 これだけの人数だと、それぞれにいろんな人生の歩みがある。県会議長になった男、市議会議員や、ひとかどの会社を立ち上げた男もいれば、東南アジアの女性と再婚したまでは聞いたが、その後行方のわからなくなったものまで、さまざまである。そんな人達の経験談は面白い。

 ユニークな女性もいる。子育てが終わってから、求人広告をみてN証券会社のパートにでかけたそうである。そのうちにセールスの真似事をやってみないかと誘われたそうだ。そうしたところ、たちまちに契約者が増えてトップレディになってしまったというのである。
 そんなことがバブルの頃、ニューズウイーク誌に取り上げられた。まだ同誌の日本語版が発刊される前のことである。N証券の紹介記事なのだが、社長・会長が同じ苗字の有名な方と一緒に記事になったのである。巨大証券会社もこんな女性たちによって支えられているというような内容だった。彼女の顧客の一人で、それによって立派な家を新築できたという方との座敷での写真があった。その英語版の雑誌を持参して同級会に参加した。
 その後に、証券不祥事(損失補填)があって、トップの2人が逮捕されるのだが、お詫びの行脚で彼女は顧客から貴女が悪いのではないと逆に慰められたのだという。人柄を買われていたのであろう。
 会社から、難しい試験を受けろといわれて困っているのだというようなことも聞いたことがあったが、今考えてみるとファイナンシャルプランナーというようなものであったろう。彼女の60才以後のことについては何も聞いてはいない。今も現役でやっているのだろうかと思う。

 同級生のうち10%もの方は、もう鬼籍に入っている。できるだけ多くの方々で次の会を持ちたいものだ。政界の男が叙勲するであろう古希となるのだろうかと思っている。次のブログでは、また別の女性を紹介したい。
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by watari41 | 2007-03-15 10:18 | Comments(3)

気分転換

 少しばかり愉快なことを思い出してみたい。

 ①S君の話である。退職してから、とある公設市場に再就職した。その年のこと、12月末なのに郵便受けに、年賀状の束が入っていたのだという、さては誤って早めの配達をしてしまったのだろうかと手にとってみたら、宛先がバラバラで、差出人が同じ人だったというのである。あるいはと思い住所を見ると勤務する市場に近いところなのだという。大型の郵便受けが外に出ていて赤だったので、ポストと間違ったらしい。その家に届けてやったら、最近越してきたばかりなのでと恐縮されたということだった。

 ②K君が田舎に帰省したときに聞いた話だという。地方にもワンマンバスが登場した頃のことである。バスに後ろ向きになってステップを踏んで乗ろうとしている老人がいたそうで、運転手がどうしたのですかと聞いたところ、『御乗車は後ろからに願います』と、ここに書いてあるではないか。入り口の文字を指差したというが、これはどうやらつくり話くさい。落語ネタみたいなものだ。

 ③明治生まれの伯父さんの話しだった。その若い頃、山形県の山中を歩いていて、池のほとりで、そこに住む老人と話をしていたら、仙台から来たのなら「海」を知っているだろう。広くて、大きいものだとは聞いているが一里(4km)四方もあるんだべかと言われ説明に窮したそうである。

 ④ご近所のことだが、甚助さんという名物爺さんがいた。その孫娘が小学生のころ、アダ名を「ジンスケ」と呼ばれていたそうだ。ある時、友達が自宅に電話をよこして、電話口でいきなりジンスケはいますかと言ったところ、俺が甚助だがと告げられたので、あわてて電話を切ってしまったという。百歳まで生きるんだと頑張っていた、その爺さんもなくなった。孫娘も50才に近い。
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by watari41 | 2007-03-10 09:36 | Comments(6)

追憶(5)

 再度の入院となった、昨年(2006)10月のある日のことだった。小康を得たので、家族へ感謝の手紙を書いておきたいというのである。夕方に私が帰った後で書くということだった。どうしたことか偶然にもボールペンのインクが切れていたのである。そんなチャンスを逃したこともあって、亡くなるまで、とうとう何もそのような書き物は残さなかった。
 書いてもらわなくて幸いだったと思っている。おそらくは、つらくてとても読めたものではなかったと思うのである。

 私がこのブログを書き始めた頃は、もう3年近くも前のことであるが、妻はまだ元気一杯だったので、私がパソコンに向かって何やら”戯ごと”を書いているようだ、という程度の関心しか持ってはいなかった。
 それが病床についてから、ブログを読んでみたいというので印刷したものを見せたところ、熱心に読み始めた。「起承転結」がよくできているなどとお褒めをもらった。妻の回想と重なるところもあるのだろう、いちいちうなづきながら読んでいるところもあった。
 私の在職中は、仕事の話などはほとんどしなかったので、初めて聞くようなこともあったのだろうと思う。見舞い客に、このブログを勧めたりもしていた。

 ブログ開始から、もう300話をはるかに越えている。私自身も一通り読み返すだけでも大変である。よくぞ書きも書いたりである。これを書きまくった60歳台の前半はまだ頭の冴えていたところもあったようだ。ブログを通じて、多様な皆様方とネットを通じたお付き合いをさせてもらった。深く感謝しているところです。
 大袈裟な表現ですが、人生の集大成の一つが終わりつつあるような感じもしております。

 私と妻とでは、ずっとちがう道を歩んできていた。私はどちらかというと工業製品というか物を相手にしており、妻は農村とその人々を相手にしていたものである。弔問客からその思い出話をきくのはつらく、私自身にとって多くの方々との接客は、あまり経験のないことなので芯から疲れるというような感じがしている。

 妻のことでの感慨にばかりふけっていると、気が滅入ってしまうので、ブログの上だけでも次回からは気分転換を図ろうと思っている。このブログは私の居場所のひとつでもあると思っているのです。
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by watari41 | 2007-03-05 09:03 | Comments(3)

追憶(4)

 入院中の一日も長かったが、今の一日もまた長い。時折、訪づれてくる弔問客の相手をしたり、死去に伴う各種の手続きなどが残っていて役場や郵便局に出かけることもある。

 話には聞いていたものの、書類の中には投げ出したくなるほどにやっかいなものがある。
 簡易保険が、その名と違って極めてややこしい。妻が払い込み人で、被保険者を子供としていたのである。妻に代わって今度は私が満期まで払い込みを継続することになるのだが、そこに至るまでが大変なのだ。
 これまでに払い込んでいた分が妻の財産になるというのである。まずはそれを相続する手続きから入ってもらいますといわれた。これがやけに面倒なのである。
 町役場からもらった除籍謄本でよいのだろう考えていたら見込みちがいだった。郵便局の担当者は、その謄本はご主人と結婚してから、すなわちこの町に来てからの証明にしかすぎません。それ以前の婚歴や子供の有無をはっきりさせる必要がありますというのである。もし存在するなら、それらの方々にも相続の権利が生ずるのです。と、全く失礼極まりない話しなのだが、奥さんの実家での謄本も必要なので取り寄せて下さいといわれた。
 若い窓口担当者が、マニュアルに書いているのであろうことをそのままに私へ向かって言うのである。(このヤロー)と怒鳴りたくなってしまう。
 こういっては何であるが、たかが数十万円の保険金額なのである。実家である隣県の市役所へその書類を頂きたい旨の手紙を郵送し、必要とする謄本を送ってもらった。

 他の金融機関にも同様なことがあった。本人の死亡と同時にその預金通帳が封鎖されるのである。残高が数万円の通帳があった。それを引きおろしたいと申し出たら、郵便局と同じような話をされてしまった。それでも地元の金融機関なので、機転をきかせてもらい、本人の葬儀代ということで解約してもらったのである。たったそれだけのことにも印鑑証明だとか結構な書類をそろえる必要があった。

 家族の死去は残されたものにとっては大変につらいことなのであるが、これに追い討ちをかけられているようなものである。妻でさえこうなのだから私が亡くなった時のことを考えると、どんなことになってしまうのだろうかと思ってしまう。
 
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by watari41 | 2007-03-01 09:56 | Comments(2)