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回想と未来

 まもなく新しい年を迎える。今世紀も早や7年目に入ろうとしている。本来なら21世紀の展望というか、そんな未来論が賑やかに論じられなければならないはずだと思うのだが、これまでには一向にそういう気配がなかった。

 未来への明るい展望を描けないからに他ならない。現実にはあと数十年で、北極の氷が無くなるとか、地球環境は益々悪化の一途を辿るとか、日本の人口減少はとどまるところをしらないとか、悲観的なことしか話題になっていない。1990年の頃にフクシマさんという日系米人が著した「歴史の終わり」という本が話題をよんだ。その言わんとするところは、ソ連が崩壊してイデオロギーの対立が無くなったことをもって、世界の歴史が終わったのだと論じたのである。賛否両論があり、面白い見方もあるものだと思ったことを回想した。一つの問題提起をしたのだった。逆な見方をすれば、思想的な対立が歴史の推進役でもあるというのだろう。

 昨今は、未来を語らない代わりに、60年から70年代の回顧が盛んである。当時は21世紀が輝かしい未来になると思われていた。「明日があるさ。若い僕らにゃ夢がある」という坂本九ちゃんの歌が大ヒットした。ほとんどの人たちが当時を懐かしんでいる。回想は過去の出来事を純化してしまうのである。実際には嫌なこと、苦しいこと、不安に思っていたことなどもあるのだが、すべては終わってしまっているのである。それぞれの年代特有の、その人なりの回想がでてくるのは当然のことだ。

 「歴史の終わり」ではないが、現在が世界史の峠にあることは間違いないのだろう。一旦はそこから下るものの、さらなる峠を目指すのかどうかは今後の課題であろう。中国の台等が目覚しいが、新たな世界史を作るようなイデオロギーは感じられない。
 さりとて、現在の自由主義というか市場経済には大きな問題をはらんでいるのは誰の目にも明らかだ。もろくも崩れ去ったものの、前世紀は社会主義と計画経済の実験の世紀であったともいわれた。こんな形で、21世紀にもどこかで何らかの挑戦があるのではなかろうかと期待している。

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 先日、町役場から、年末たすけあいの義捐金を持ってこられて驚いた。まさか、これをもらう立場になろうとは思ってもみなかったことである。3千円が入っていた。大変な患者をかかえる身の上ではあるが、こういう使われ方をしているのかと認識させられた出来事だった。
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by watari41 | 2006-12-28 10:16 | Comments(5)

ほめ殺し

 「ほめ殺し」とは奇妙な言葉だ。最近できた用語なのだろうか。いろんな使われ方がなされるようだ。
 竹下元首相の時代に、右翼の街宣車が「あなたは何という金儲けの上手な政治家だ」とがなりたてた。事実なのだろうが悪意に満ちた使われ方である。

 だが、通常は軽い冗談半分に言うことが多い。相手も「それって、ほめ殺し!」などと了解のうちであるから問題ないのだが、会社や役所などでは位が上になるにつれて無意識の「ほめ殺し」に合うことが多くなる。耳障りのいいことしか聞こえてこなくなる。そのうちに知らずに足をすくわれてしまうようなこともある。ワンマン会社の社長などはひどいことになってしまう。ほめられているうちに会社が傾いたりしてしまったなどという例もあるようだ。
 誰からも同じようなことを言われてしまうと判断基準が狂ってしまうのである。言葉による人間操縦なのである。ほめることで相手の警戒心を解くこともでき、それがため営業マンの心得のひとつともいわれ、極端には詐欺師の常套手段にもなっているようなのだ。

 本来、ほめられるのは誰しも嬉しいことである。褒められて怒る人はいない。勲章と同列に「褒章」がある。特定の社会的分野での事績や徳行に優れた人に与えられるものだという。だが、うがった見方をすると国家が章を授けて個人を「ほめ殺し」にしているのかもしれない。

 良いことをしたときには、子供を褒めてやるべきだということがいわれている。それによって成長するのであると。だが、その反対に叱るべきことは叱らなければならないのである。子供を「ほめ殺し」にしてはならない。

 昔はもっと率直に人を褒めていたような気がする。褒められることに裏を感じてしまうというのはいやな世の中になったものだ。言葉がその通りに受け取られなくなってしまうとおかしなことになってしまう。
 言葉は日常生活の潤滑剤でもある。畑で野菜をほめたりすると、くれてやるから持っていけとなる。率直にほめるのは、本来はコミュニケーションを豊かにするものだったのだろうと思う。

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 緩和ケア病棟は、定員20名程度だが、千㎡くらいの広い中庭がある。12月に入って芝生に小さな電球が沢山取り付けられた。夜になると地面が浮き上がって見える。中央には大きな星が光り輝いている。こんな光景を眺めながら帰途につく。
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by watari41 | 2006-12-23 10:42 | Comments(7)

うがった見方

 石油暖房機で事故を起こしたM電器の当該機種回収広告を今も見かける。もう何十回となく見ている。何百億円かの費用をかけ、会社の信用も絡み経営の屋台骨を揺るがしかねない事故だと思っていたのだが、何度もそのチラシをみているうちに、どうもおかしいと思うようになってきた。

 もしかして、これは、こういう事故を起こしてしまうと大変な事態になってしまうのだという、社内教育の一環で、それを莫大な費用をかけ行っているではなかろうかと「うがった見方」をするようになってきた。さらには一般消費者には、事故品はどんな犠牲を払おうとも草の根を分けても探し出すんだというメーセージを送ることで、企業イメージを高めていることに利用しているのではなかろうかとも考えられるのである。まさに「禍転じて福と為す」というようなことをやっているのだとみるようになってしまった。これは大変に失礼な見方なのかもしれないがそのように思えてしまう。
 M電器は、これによって一挙に企業体質をも変えていけるのではないかとの期待があるのかもしれない。偉大な創業経営者がいて、かつてその社内は活気に満ちていた。私も数十年も前の在職の頃に、そのいくつかの工場へ納入業者として打ち合わせの為に訪づれたことがある。社員の動作もキビキビとしていたものだった。同じイニシャルの財閥系M電機を同時期に訪問しているが、こちらはオットリとしていて、いかにも対象的な雰囲気を感じたことを回想する。
 ひるがえって、私が長年勤務していた会社も、納入業者などからはライバル会社と比較して、どんな目でみられていたのだろうかと思うのである。

 成長路線をひた走ったM電器も、ある時期から多少おかしくなってきていたようだ。これまでの企業文化などを大きく転換する必要に迫られていたのだろう。そんな時の事故でもあったようだ。大きな危機感におそわれて、大々的な回収キャンペーンを繰り返しおこなっているうちに、思わぬ展開になったのではないかという「うがった見方」を第三者的にしてしまうのであるが、あくまでも個人的な見解である。また別の見方をする人がいるのかもしれないと思っている。
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 これも、緩和ケアセンターの案内書の一節である「患者家族の抱えている種々の困難な状況を理解し援助します」。私もいろんな相談にのってもらっている。
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by watari41 | 2006-12-18 10:30 | Comments(5)

脳のお休み

 「へたな考え休むに似たり」ということがある。我々素人が囲碁や将棋で考え込むのは、たいていニッチもサッチも行かなくなった最終盤であることが多い。いくら考えたってどうにもならない極面になってからだ。脳は動いてはいるのだろうが、ある意味で休んでいるのと同じことである。

 プロは、そうではない。そんな極面にならないように中盤から考えに考え抜いて指しているのである。何故ここで長考しているだろうと疑問を持つような極面がある。その時にプロの脳がどのように働いているのかを学術的に解析しようとする試みが始まった。我々とは全く異なる脳の状態が明らかにされれば面白いことであり、興味の尽きないことである。

 いろんな事柄で、これと同様のことがある。「一見して考えているようだが、実は何も考えられていない」というようなことが多い。本人は必死で考えているつもりなのだ。だが脳はお休み状態なのだろう。現在はまだ解き明かされていない脳の不思議のひとつなのだと思う。

 人間が眠るというのは脳を休ませるためであるという。体を休ませる為なら横たわるだけでよいのだそうだ。我々には眠らなくとも脳のお休みの状態が存在するようだ。また、猿知恵だなどと揶揄される浅はかなことしか考えられないこともある。脳が働いていないのである。

 40年も前に聞いた講演のことを回想している。人間には150億個もの脳細胞があって、普通の人間はその極く一部しか使わずに終わってしまうという話だった。当時の脳科学でわかっている範囲のことで、脳には無限の可能性があるのだともいわれたが、そんなものかと聞いていたものだ。今世紀はそれがどこまで可能なのかが探られていくのであろう。

 人間が「動いている」のと「働くこと」とは違うのだといって自動車工場のジャストインタイムで有名になったムダな動きをなくして効率アップを計り世界に広がった日本発の事例がある。我々の脳も同様なことで、ムダに脳が動いていることも多いのだといえそうだ。研究が進むにつれて有効な脳の使い方などというようなことが流行するような気もしている。
 私も考えた末にブログを書いているつもりなのだが、所詮は素人の戯言であり、脳を休ませているだけなのかもしれないと思ったりしている。
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 12月8日の河北新報一面トップに「ガン難民68万人」という記事があった。より良い治療、最先端の医療を求めて、いくつもの病院をさまよう人々が多くいるのだという内容だった。そして高額の医療費に悩まされているのだとも。その渦中にいるものにとってまさにギョッとすることだった。
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by watari41 | 2006-12-13 08:41 | Comments(7)

旅への憧れ

 誰しも「旅に出たい」というあこがれを抱いている。
 食欲・・・など人間の5欲と並んで「旅行欲」みたいなものがある。芭蕉もまたそんな思いにかられて”奥の細道”への旅をした。そのあまりにも有名な紀行文には”行きかう年もまた旅人なり”と、あらゆる事象を「旅」に結びつけているのだ。

 人は何故、旅に憧れるのだろうかと思うことがある。おそらくは、そんな「DNA」が組み込まれているのではなかろうか。未知のところに行ってみたい。これは人類発祥以来のことなのではなかろうか。アフリカに発した類人猿は、どんどん歩き出したのだろう。北へ向かって、そして粗末な船に乗って海に乗り出したのではなかろうか。移動本能みたいなものを持っていたのだと思う。住みやすいところがみつかればそこに留まった。現代のような乗り物もない時代に、よくぞ移動したものだと思う。

 時代が下がって定住するようになってからも、潜在的にはそんな「旅」への欲求を持ち続けながらも権力者は人が動くことを認めなかった。熊野詣でとかお伊勢参りというような形で若干の人々が旅することを許された程度のことだった。

 現在は、何処へでも誰でも簡単に旅行ができる。私も在職中はいやな用事でないかぎり、出張を喜んだものだ。特に海外出張ともなると嬉しい限りだった。いわば会社のお金で列車や、航空機に乗れるのである。楽しい回想の一つだ。

 議員の魅力も、副次的なものなのだろうが視察とか研修という名目での「旅行」にあるようだ。町会議員では国内がせいぜいだが、県会、国会ともなると海外豪華版になる。随行員が報告書まで作成してくれるようだ。

 宮城県では、議員が1km動いただけでも7千円もの手当てが支払われるという旅費規定があったようで、連日のテレビ報道でそれはおかしいとの議論がなされている。選挙を闘った人への特権が見直されようとしている。
 衆議院の刺客として話題の片山、佐藤の両女性議員が、事務的なミスなのだろうが委員会採決を欠席してしまった。その処罰として「海外渡航禁止」をいいわたされた。面白い罰則があったものだ。象徴的な処分だと思ったものである。
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 一日の大半を緩和ケアセンターで過ごすことが多い。自然豊かなところで窓外にキジを見ることがあった。だが近くに大規模な住宅団地が出来つつあり、野鳥も住み難くなることだろう。
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by watari41 | 2006-12-08 08:17 | Comments(4)

名跡襲名

 よく知られている落語家が、まったく別の名前で出演していた。あれっと思ったが、名跡襲名をしたのだった。歌舞伎の世界など伝統芸能では当たり前のことでもある。くるくると名前が変わる。名前に「格」があるのだ。かつて名優だった人がいると、それを記念するという意味合いもあるのだろう。「団十郎」などはその典型だ。
 相撲界でもそうだ。若乃花の初代は、なんということなくその四股名をつけたのだろうが、名横綱になったので、後の力士は簡単にはその名を使えなくなってしまう。双葉山を使う人などは今後もいないであろう。

 陶芸の世界でも「柿右衛門」などのように代々その名を受け継いでいるものがある。作陶様式も初代からの伝統がある。そこまで行かなくとも田舎の名家といわれるところでは、成功した初代の名を子孫が継いでいる例が多く見られる。
 その時代に、大活躍をした人、偉人と呼ばれるようになった人の名前には、特別なことが存在すると思われ、その「名」に重みが出るのである。

 名前は、人と人を区分する記号みたいなものだと言ってしまえばそれまでであるが、長ずるにつれてその名に「人格」がでるようになってくる。名前を聞いただけで顔をしかめられるような人もいれば、あの人の話は半分に聞かなければならないとか、名は人を表すようになる。

 立派な名前を継げば、それを辱めまいとなお一層の精進をして芸の向上に励むということもあるのだろう。世間も期待する。名前へのこだわりが出てくるのである。名はまたブランドでもあるのだ。

 私自身のことを述べると、あまりにもありふれた姓と名なので、この町にも同性同名が3人もいる。全国では大変な数であろう。NHKの特派員にもいた。リポートの中継に登場し画面の下にその名が示されると、分身のような感覚になり親しみを覚えるからふしぎなものだ。

 我々、一般人は一代限りの姓名である。だが、それでも昔は下級武士にも名を惜しむというところがあった。現代に生きる我々も心掛けだけはそんなつもりでいたいものだ。
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 緩和ケア病棟の説明にこんなことが書いてあった。「人生の総まとめの貴重な時間でもあります。静かな時間と環境を提供します」
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by watari41 | 2006-12-03 08:13 | Comments(0)