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落札率

 談合だと判断されるのは、落札率が限りなく100%に近いからである。何故談合が起きるか、最も大きな要因は、「予定価格」が魅力的な為に他ならない。どうして、そんな予定価格が算出されるのかについて思い当たるふしがある。

 在職中の回想のひとつである。こんな電話を受けた。建設物価調査会(正式名称かは定かでないが)から、ある製品について四半期ごとだったと思うが製品価格に何%の変動があったのかという質問だった。つまり、この数字が「予定価格」算出に大きく影響しているのである。

 通常、工業製品の価格は横ばいからやや低下していくのが普通なのだが、製品に使う原料価格が大幅に上った時などには困ってしまう。当然、それだけ製品価格もアップしていかなければならないのだが、競争が激しくて、とても値上げなどはできないのである。上ったとしてもごく僅かである。だが調査会では各社から得られるデータは公表する数字だというのである。実勢価格を公表すれば原料が高いのに製品の市場価格を自ら抑えてしまうことになるので、正直に答えるわけにもいかない。結局は原料アップ分を上乗せして販売価格だと回答するしかないのである。こんなことが何回も続くと、公表されている価格は、実勢価格から大きく乖離してしまうのだ。

 つまりは、公表の市場価格は実勢価格と30%から40%も離れてしまうのである。我々が扱ったものは、建設資材全体からみれば極々一部の品物でしかないが、恐らくは、主要な資材についてもこんな話がまかり通っているのだと思う。

 だが、役所で予定価格を算定する時には、おかしな数字であるとはいっても、公表されている市場価格を使うしかないのである。建設工賃なども同様なのだろうと思う。そもそも「予定価格」の算定がおかしいのいだと一概に役所を攻めるわけにもいかないのである。

 オープンな入札を行えば当然、実勢価格で算出するのだから60%の落札率であってもおかしくはない。建設談合がなくならない根本原因はこの「予定価格」にあることは、今や誰しもわかっているのである。私も、その一端を垣間見たのだった。この問題の解決法のひとつとして単純には、予定価格に「ある係数」を掛けることでよいのだろうと思っている。
 実勢価格に近いものが「予定価格」となれば、落札率は100%であってもかまわないのである。談合の意味合いがなくなってしまうからだ。
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 緩和ケアセンターでは、患者は勿論のこと、家族の癒しにも気が使われている。病室の前を行き交う人には、身内の方が長い闘病にあるのだろうか、憔悴しきった方もおられる。相手から見ればこちらもそう見られるのだろうか、何とか頑張りたいものだ。
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by watari41 | 2006-11-28 09:14 | Comments(3)

道路と権力

 道路というのは、狭くて曲がりくねり、デコボコなものだというのが子供の頃の感覚である。これが車社会の進展で幅が広くなり、新しい道路が作られるようになったのだとばかり思っていた。
 だが、先日奈良の近辺で幅20m以上もの直線的な「古代の道路」が発見されたということを聞いて驚いた。軍隊の移動が速やかにできるようにするのが目的だったらしい。
 時代が下がるにつれて道路はむしろ退化したというべきなのだろう。これは時の権力基盤とも関係があるようだ。江戸時代は強固な中央集権国家のイメージがあるが、徳川幕府は案外に脆弱だったようなのだ。一口に300年泰平の世ななどといわれるが、権力の維持に相当な腐心をしている。口実を見つけては大名を取り潰し、地方の藩が裕福にならないように出費を強制している。また鎖国で、外国からの干渉とわが国の造船技術の進歩を封印してしまった。そんなことで権力を持ちこたえてきたようなのだ。

 道路のこともしかりで、江戸郊外の道は半円形になっているところが多いのだという。敵が攻め込んできた時の防御なのである。私もその一端をかいまみたことがある。東京勤務で荻窪に住んでいた時に、目的地を目指して真っ直ぐに歩いているつもりなのだが、だんだんと遠ざかってしまうのである。道路が弓なりになっていることに気がついたのだ。江戸城へは簡単に近づけないようにしたのだ。だが現代の社会学者は、そんなことがまた東京の大きな魅力にもなっているのだという。環状7号、8号などの道路はその名残りなのだろう。
 遡って奈良時代の権力基盤は、発掘された道路を見ると相当にしっかりしたものだったといえよう。我々がもっていたイメージとはだいぶ異なる。

 現代でも道路行政は権力基盤のよってきたるところである。中央では道路族といわれる議員、地方ではその権限が集中する知事が道路を作る権限を持っている。そこから犯罪がらみのことも起きてしまうようだ。
 今や、ほとんど人の住んでいない山中にも立派な道路が縦横に走っていて驚くことが多い。数年前に隣県の福島空港に向かう新しい道路を走ったことがある。行き交う車がほとんどない。何かがおかいいという予感みたいなものがあった。先般、知事が逮捕された。恐らくは多くの人々がおかしいと感じていたはずだ。
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 妻は緩和ケアセンターでの数日を過ごした。ここは患者のみならず、家族の癒しをも考えた設計がなされ一般病棟とは大きく異なる。福祉を旨とした浅野前知事が力を入れた施設でもある。穏やかな時が過ぎている。
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by watari41 | 2006-11-22 20:00 | Comments(5)

歴史の類似性

 バーミアン(アフガニスタン)で大仏を爆破をしたタリバン(イスラム原理主義者)の蛮行には、憤慨したものであったが、歴史的にみるとこういうことは、驚くにはあたらないようなのだ。
 4世紀にキリスト教が盛んになった頃、それまでギリシャやローマの神々とされてきた貴重な彫刻などが破壊されまくったのである。
 ミロのビーナスにしてもしかりで、両腕を折られただけだったのは幸いだった。長年の間、土中に埋っているのを偶然に発見された。このように残っていれば世界的遺産ともいうべきものが数限りなく失われてしまったのだという。塩野七生さんの著作ローマ人の物語、最新刊の「キリストの勝利」にそのことが記載されていた。
 破壊行為は蛮行ではなくて、宗教的な信念に絡むものなのである。実行者は正しいことをしたと思っているのだ。
 日本でも明治初期の廃物棄却で貴重な仏像などが数多く破壊されてしまったようだ。それでも心ある人達が多くのものを匿い救ったのだという。

 歴史には類似性があるとも、また繰り返すともいわれる。現在の事象も遡ると似たようなことにぶつかることがある。
 現在のアフリカ諸国での部族間対立による内戦には心痛めることが多いのだが、私には日本の弥生時代の戦闘が想い起こされる。当時の墓の甕棺には矢じりの突きささった遺体も数多い。集落ごとに環濠を作って戦いに明け暮れていたのだろう。書き物の記録はないが、遺跡はそんなことを物語っている。
 当時の日本はこれをどう乗り切ったのかというと、滅ぼした相手を神に祭りあげたのである。出雲大社などがそうであるといわれる。そんなことで、そこでの戦闘が収まったというのだ。そして聖徳太子の時代に大きな内戦は終結し17条憲法の最初に「和をもって尊しと為す」という言葉が入ったのだという解釈に妥当性を感じるのである。

 アフリカ諸国の貧困さと飢餓は、よく伝えられているが、その原因は止むことのない内戦にあるといわれている。貧しさを救う為の物質的な援助が叫ばれているが、その原因である内戦終結への手立てを先進国は”歴史”から学べるのではなかろうか、そして何らかの貢献ができるのではないのかとも思っている。

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 妻は、緩和ケアセンター(ホスピス)に空き室が出たということで、11月20日に移動することになった。容態は、外観上はあまり変化が見られないものの、内部の各器官は大変なことになっているようだ。気力で持ちこたえているような感じがする。
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by watari41 | 2006-11-18 09:56 | Comments(4)

地球の資源

 「捨てる神あれば拾う神もあり」、いつの時代もそうあってほしいものだが、最近は何を捨てるのにもお金がかかる。壊れたテレビも破棄するのに4千円もかかる時代だ。先日のNHKで、これを無料で回収する業者のことを放映していた。部品に含まれるわずかな貴金属が目当てかと思って見ていたら、業者はフィリピンに一台当り千円程度で輸出しているので驚いた。さらに現地ではこれを修理しているのである。日当1500円の雇われ技師がものの見事に直してしまうのである。そしてこれを販売しているのを見て衝撃を受けた。国際的な「捨てる神あれば・・・」が成立しているのである。テレビはその理屈を覚えてしまえば、直すことはそんなに難しいことではないと技師が話していた。

 私も現在の天皇がご成婚の頃であるがそんな経験をしたことがある。当時は白黒テレビが一インチ一万円もしていて、普及が進んでいたとはいえ、まだ田舎の一般家庭で見られるような状況ではなかった。横浜に住む叔父さんが祖母に見せてあげたいものだと、3万円を送ってきた。新品はとても買えないので、キットを購入して組み立ててくれというのだった。機能毎の回路に分かれているので、多少の知識があればできるものだった。テレビの設置は町内では早い方だったので、夕方ともなると近所の子供がわんさかとやってきた。熱心に見つめているのである。そんな子供も、もう55歳くらいになる。彼らには楽しい思い出になっているようだ。これまた愉快な回想のひとつである。そんなことで何台かの修理を引き受けたこともあった。

 今や、壊れたものはシュレッターダストにされてしまう。だが東南アジアでは再び生き返っている。テレビを見つめる子供たちの瞳は、半世紀前の日本と同じだ。北朝鮮の船に山積みされる古い自転車や、中国に輸出され選別されているゴミをみたことがある。廃棄物が宝の山に変っている。
 地球の有限な資源を大事に使おうなどのポスターを見かけることがあるが、日本の現実をみるといかにも空々しい。人間一人が生きるのにどれほどの資源とエネルギーを使っていることだろうか。老後を生きるには、どれだけの金銭的な蓄えが必要なのだなどという話はよく聞くのだが、上述のような逆の視点から現代を生きるにはかなりの地球資源を使っているのだということを忘れてはならないだろうと思う。
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 妻の容態は、一段と悪化した状態での小康状態にある。張り薬のモルヒネで痛みを抑えている。病室は暖かいが、初冬の様相が一段と濃くなった。強い風に煽られて窓外を木の葉が横に飛んでゆく、まるで小鳥が行くようにも見える。遠くには仙台のビル街が雨にけむる。
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by watari41 | 2006-11-13 09:22 | Comments(10)

世界史・地理のこと

 世間を騒がせた「世界史・地理」の授業だが、私はこれでの自慢話がある。高校生の時だから、もう50年も昔のことだ。県下一斉のテストが行われたのである。どういうわけなのか、この科目についてのみだった。当時の社会科学習の状況調査でもあったのだろう。その試験で県下に2人の百点満点者がでた。私がその一人だったのである。実業高校に通学していたので文系の科目でそんなことがあろうはずがないと思われていたので、教科担当の先生は大いに面目を施したらしい。もう一人は仙台の名だたる進学校の生徒だった。

 「世界史・地理」は、一面では暗記科目でもあるのだが、現代を見る目が養われたような気がしている。歳をとるにつれて歴史には興味尽きないことが多くなってきた。
 有史以来、いくつかの大帝国が出現し繁栄を極めたが、一旦衰退してしまうと2度と勃興することがない。ローマ帝国もそうだが七つの海を制覇したスペイン、イギリスなどもしかりである。 現在、中国の台頭が危惧されているが、かつては中華思想に見られるように、世界に冠たる大帝国が続いた。18世紀の「清」の中期まではゆるぎない覇をとなえていたのである。近代に至り、落ちるところまで落ちてしまったような感がある。逆に今は必要以上に警戒されだしているようだ。歴史の教訓からは、2度と世界をリードするというようなことはないのだろうと見ている。

 歴史の面白さは、至るところにある。これから徐々に話を進めていきたいと思う。
 私の、その時の高校の教師は定年近い人であった。偉かったと思ったのは、上記の快挙を私には直接何も話をしないのである。しばらくしてPTAに出席した母親を呼んで、それとなく耳打ちしたのだという。本人が増長してはまずいと考えたのだろう。その先生はピテカンというあだ名で代々の生徒から親しまれていた。ジャワ原人であるピテカントロプスの頭蓋骨が有名だが、その先生は頭髪がなくなり、横顔がその原人にそっくりだったのだ。楽しい回想の一つである。
 今回の騒動をみるにつけ、この事件がしばらく明るみにでなかったら、世界史の先生は全く授業することなく給料をもらえるということになったのだろう。歴史の先生には誇りをもってほしいものだ。
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 ガンセンターへ通う日々が続いておりますが周囲の紅葉が美しい。最初の入院が桜花爛漫の頃だった。その時から末期を宣告されていたが、桜を見るのはいいが、落葉を踏むのは気が重い。ただひたすら小康の続くことを願っている。
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by watari41 | 2006-11-08 08:24 | Comments(6)

高祖父のこと

 我々、一般人にとってはどうでもよいことなのだが、高祖父は女系である。その母親は我が家に生まれて、ユニークな生涯を送っている。年頃になって一旦は仙台へと嫁すが、ほどなくして離婚し戻ってきた。そのうちに、白石市の商家との縁談があり後妻となるのだが、男子を一人生むと、また離婚してしまうのである。(この商家は、前述した後の時代の借金先でもある)
 丁度、我が家では、跡取りの長男夫妻に子供が生まれなかったので、その男子を養子として貰い受けたのである。これが高祖父である。その母親は、自分の子供を我が家にあずけて、今度は近隣の村田町の商家へと嫁すのである。さすがにここで落ち着いた。
 私は退職後に、その家を訪れてみた。彼女は長命しており、明治15年に亡くなっていた。偶然にも、その年に子供である私の高祖父も59歳で亡くなったのである。彼もまた波乱の生涯だった。
 我が家の養子となった高祖父は、幼い頃から大事に育てられた。やがて養母は実家から姪を嫁にと連れてきた。その頃の我が家は、まだ裕福だった。「検断」と呼ばれる役職をあずかっていた。町場の行政や伝馬、運送などの仕事である。この役職名は仙台伊達藩特有の呼び方でもあるようだ。わが町では街中の五百メートル間隔程度にこの役目の家があった。同時に塩などの専売品も商うことができたのである。後年に運送業を始めるのもいわば「官」として、そういう業務を行っていたことからによる。だが「民」として、それをやろうとして、うまくいかなかったのである。
 高祖父が家を継いだ幕末の頃が、我が家のピークだったようだ。古い建築物を立て替えたり、仏壇、什器類などいろんなものを購入してその名を記してある。伊勢神宮、京都などへの旅行に出かけたりもした。その時の土産物に購入月日と共に名前も見える。
 人生の前半は恵まれていたものの、明治以降の後半生は、長男(私の曽祖父の兄)が事業に失敗したりで、悲惨な晩年だった。郷土の歴史にもその名前が出てきたり、私にとってそんなに遠い先祖というような気はしない。
 書き終えて、この先祖シリーズは、以前にも全く同じことを記載していたのに気がついた。すっかりダブってしまったのだ。気がつかれた方もいるだろう、これにて終わりとしよう。

 闘病が続く妻のことですが、非常に強力な注射薬を用いて症状を抑え一時的な小康を得ておりますが、長期間使える薬ではないということで、予断を許さない状況となっているものの来客対応などに不自由はなく、推移を見守るしかない状況です。
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by watari41 | 2006-11-03 21:34 | Comments(3)