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曽祖父のこと

 ペリーが黒船で来航した頃だった。曽祖父は我が家の次男として生まれた。当時の子供の教科書である「論語」の裏表紙には代々に渡って使われたのであろうが、3代ほど前からの先祖の名前と共に最後に曽祖父の名前があった。社会人としての教養は論語で身につけたのであろう。その頃の曽祖父は成人してから大変な苦労を背負い込むことになるなどとは思ってもみなかったはずだ。

 苦難の始まりは明治の初期に、長兄が始めた運送事業が大失敗して倒産したことからである。その兄は借金の返済のために北海道に渡って一旗上げようとしたようなのだが何ら為すところなく、かの地で30年、大正元年には遺骨となって我が家に戻ったのである。
 兄が北海道へ去った後、次男である曽祖父が借金の全てを引き受けたのだった。前回のこの欄には、その借金が祖父の代にも引き継がれてその返済への苦闘を記載したが、曽祖父母の苦労も並ではなかった。親子二代に渡る半世紀にも及ぶ苦衷があったのだ。

 曽祖父は、馬車での運搬作業という日雇いの重労働で長いこと働いた。曾祖母もまた行商などで生計を維持していたのである。
 そんな中でも、県内で災害などがあると義捐金を出していたのである。当時はそれに対して、宮城県知事がいちち感謝状を出していたのである。その賞状がかなり残っている。

 曽祖父は大正9年、69歳で亡くなるのだが、その頃の田舎としては珍しく、自宅前での出棺行列の写真が撮影してある。親戚・近隣の人々の顔と共に、町並みの様子がよくわかるので貴重なものだと思っている。

 私が若い頃は、まだ曽祖父のことをよく知っている方がかなりいた。困窮のなかでもそんなことはおくびにも出さなかったのだということだった。妻である曾祖母はその10年ほど前に亡くなっているので、晩年は嫁いだ娘夫妻に来てもらい一緒に暮らしていた。長男一家は朝鮮に渡っていたからである。頻繁に取り交わされていた手紙類が今も残っている。

 こんな先祖のことなどを考えながら病院通いを続けておりますが、妻は残念ながら徐々に弱ってきているようです。モルヒネを口からは受け付けないので、貼り付けるタイプのものを用いております。皮膚から薬分が吸収されるので同等の効果があり、これで痛みを抑えているのです。
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by watari41 | 2006-10-29 20:34 | Comments(0)

祖父のこと

 若死してしまった父をみた祖父は、その後の戦後間もない頃に、現在の私と同年齢くらいであるが、便箋5枚ほどにびっしりと自分の生い立ちというか、回想を書き残している。宛先は父の弟(私の叔父)である。叔父に我が家の後事を託そうとしたのであろう。どういうわけか叔父はこれを受け取っていなかったのである。
 ずっと後年になって、昭和50年頃に祖父の遺品を整理していたら、出てきたのだった。早速横浜に住む叔父に送ったところ、初めてみたというのだった。

 祖父が生まれたのは、明治13年である。その頃の我が家は、運送事業に失敗して自家を抵当にして莫大な借金を抱えていた。
 祖父は小学校を出るとすぐに、借金先である白石市にある商家に奉公に出された。子供のこととて、ある時急に家が恋しくて、いてもたてもたまらずに飛びだしてきたのだといことだった。2つの峠と阿武隈川を越えて、50kmに近い道のりを歩いて帰ってきたというのだ。驚いた母親から諄々と諭されて、再び元きた道を帰ったのだということが祖父の回想の冒頭に記載してあった。

 その後に、奉公先の商家から通信教育の受講を許された。卒業後もそこに留まって借金の返済を継続するのでは相当な年数がかかてしまうので、当時はより収入の多く望める朝鮮に渡ったのである。借金の完済は大正14年だった。その後も朝鮮に残って働いたので、昭和8年に日本に戻る頃には、かなりの現地資産ができたのである。現在のお金にすると億に近いものだったろうと思う。しかし、これもつかの間で敗戦によってすべてがゼロになったのである。孫の代まで食えるだろうと思っていたらしいのだが、紙屑同然の株券類が今も残っている。
 そんな残念な思いを、祖父は何も書いてはいない。ただひたすら艱難辛苦した父母(私の曽祖父母)への感謝の念がそれこそ行間からにじみ出ている回想には頭の下がる思いがした。

 話は変わりますが、妻の病状は厳しい状況ながらも、小康を得ており連日、脳へのかなり強い放射線照射を続けておりそれも終わりつつある。医師はがん治療のために、さらなる照射の継続を求めているが、妻も私も、もうおことわりするつもりでいる。そうすると、緩和ケア病棟の明くまでに、また自宅に戻らねばならぬようだ。寒くなる季節を迎えて頭の痛いことである。
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by watari41 | 2006-10-24 10:18 | Comments(9)

父のこと

 妻の病状については、いろいろとご心配をいただきありがとうございます。緊急治療の結果、厳しいながらも若干の小康状態を得ております。どんな時代でも、家族の看病は大変である。ずっと病室にいるのもつらいので、時にはブログを考えたり、気晴らしに出ることもある。

 60年以上も前のことになるが、、母は父の看病をしていた。その時の回想をよく聞いたものだ。その父は存命だと百歳になる。残念ながら昭和19年に38歳の若さで去った。私には、父の記憶はほとんどない。母や周囲の話、写真、書き物、作ったもので偲ぶしかないのだ。

 父は中学生の頃の怪我から発した病気で、体の自由が制限されていた。昭和10年頃、あまり動かずにできる商売として、当時としては最先端の業種だった「ラジオ屋」を開業した。田舎では珍しい時代だったので、大いに繁盛したようだ。年配の方々からは、私はいまだにラジオ屋の息子さんといわれることがある。

 天体にも興味を持っていた。腕のいい大工さんに反射型望遠鏡を作ってもらい、星空を眺めていたのだという。3インチ程度の小型なものながら、精巧な造りで土星の輪くらいは見えたのであろう。
 大正末年の日記が残っていて、当時のよすがを知ることができる。親戚づきあいなどは現在からみると極めて濃密なもので、風呂をもらいに行ったり、同じ家といってもよいくらいの親しさだったことが伺える。

 父の叔父や叔母の結婚式の様子なども面白い。テレビドラマなどで、その時代の情景は画面からも知るこができるが、現在のように会館での式ではなく自宅での宴会が延々と続くのである。おまえも何かやれといわれ剣舞いをやったとある。お嫁さんに付き添ってきて泥酔した方々を駅まで送り届けたり、まさに家中をあげての一大イベントだったのである。我が家の貴重な記録だと思っている。

 友人との東北無銭旅行記などもある。また当時の科学知識に基づいた雑感や、青年からみた無常観などを記したものもあり興味深い。大正期には現在の北朝鮮に渡って郵便局の仕事をしていた父親(私の祖父)をたより、数ヶ月間滞在したこともあって、当時の若者の流行だったのであろう自分の「雅号」を満州との国境にある名峰を拝借して「白頭山人生」と称していた。書き物の最後には名前の代わりにこの雅号が記されている。

 父は20歳頃まではいろんな記録を残していたが、晩年は商売が忙しかったり、病気のことなどもあって、書いたものは残っていない。長生きしていたらどんな回想をしたのだろうかと思うのである。
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by watari41 | 2006-10-19 09:23 | Comments(2)

妻の容態急変

 ガンセンターを退院後自宅での療養4カ月、ずっと小康状態にあった妻の容態が急変した。末期がんを宣告されてはいたが、病状が悪化することが無かったので、もしかしてというかすかな望みを抱いたこともあった。私も呑気に、思いつくままのブログ雑文を再開していた。

 しかし、数日前に急激な頭痛を訴えた。そして食べられなくなり、薬など口にしたものは全て吐いてしまった。急遽入院して検査してもらったところ、脳に転移したガンが膨らんで脳圧を高めていたらしい。早速応急処置をしてもらったが、病状からして時間の問題になりつつあるようだ。

 覚悟をしていたとはいえ、やはりつらいことである。病院には最善の処置をしていただくしかない。妻も意識のしっかりしているうちにと家族への感謝の言葉をつづり始めている。私が逆の立場になったらどういうことになるのかと思うとやるせないことだ。

 私には、幼い時に死別した父の記憶は薄いが、祖父母との別れ、母との別れを体験している。いずれも若いときのこととて、60代半ばに齢を重ねてしまった現在、誰しものことであろうが妻に対してはまた特別の感情がある。
 我が家の歴史を繰り返すようだが、妻を含み、この家で種々の苦労をされてきた4代の女性の方々に思いを馳せた。
 祖父が、こんなことを書き残している、祖母に「お前には長年、手元不如意で大変な苦労をかけたが、よく家の切り盛りをしてもらった。その殊勲甲である」と、いかにも明治初期の人らしい表現である。祖父の死後、祖母は20年ほど長命した。また、祖父の回想に母(私の曾祖母)は、先代からの借金などのために行商をしながらも我々(祖父のこと)兄弟を育ててくれたとの感謝をも記している。百年以上にもわたり、ごく短い期間を除いては、我が家は貧乏暮らしから抜け出していないことになる。そんな中でも一族の方々の気持ちだけはおおらかだった。

 ガンセンターでは、これから出来るだけ穏やかな時を過ごせるようにと勧められ、病院に併設されているホスピス「緩和ケア病棟」への手続きをお願いしてきたが、待機者が多くて2ケ月の待ち時間があるようだ。

 今は、幸いにも脳への特効薬があり、その点滴をしてもらった結果、幾分か元気を取り戻してきた。加えて脳のガンを抑えるための放射線照射も始めた。若干の食欲がでてきたようだ。これからも妻の闘病の日々が続いていくが、私も何とか頑張りたいと思っている。時にはこのブログも更新していきたい。
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by watari41 | 2006-10-14 20:12 | Comments(10)

「大」と「名」

 「大横綱」と「名横綱」。大鵬や双葉山は「大」であり、栃錦や初代若乃花は「名」である。明確な区分があるわけではない。歴史に残るような記録を作った力士が「大横綱」であり、人々の印象に残る活躍をした力士は「名横綱」と呼ばれているのだ。日本語の面白さのひとつでもあろう。

 一芸に秀でた人は、その道の「名人」と呼ばれる。「大人」という言葉が中国にはあるが、日本ではなじまれていない。大人(タイジン)にはやや胡散臭い意味合いが含まれていることがある。囲碁将棋のトップに立つ人も名人である。

 「名」には、「品性」を備えたものというような意味合いもあるようだ。名君、名馬、名曲、名物・・・、「名」には、誰が見てもその名にふさわしいということでなければならぬ。「大」はその上を行くものということだ。茶器には何億円もするという「大名物」というのがある。

 この言葉を一緒にした「大名」は、いいえて妙なものだと思っている。日本独特の表現なのだ。西欧で大名に相当するのは「王侯」である。伊達政宗のローマ法王への書面には「奥州王」としたためた。もちろんこれは当時の宣教師のアドバイスによるものであろう。
 「大名」の由来は、収穫の良い田んぼのことを「名田」とよび、それを大規模に所有する人という意味だ。日本人には、ゴロがよくてなじみやすい表現方法なので定着したのであろう。戦国武将の夢であり、今もいろんなところで使われる言葉である。

 「大」と「名」とについての思いをめぐらせているうちに古来から、「大国」というのはあるが、「名国」といわれるところは未だにないことに気がついた。「大」は覇権に通じるのである。歴史的に国家の目標というのは、こんなことだったのだろうかと思う。
 「美しい国」とはいいつも結局は「大国」を目指しているのではなかろうか。「名国」を目指すというわけにはいかないのだろうか。

 先日、テレビを見ていたら「日本語」が一種のブームになっているようなのだ。私なりに思いつくままに書いてみた。こんなことは誰かがすでに発表されていることなのかもしれないが。
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by watari41 | 2006-10-06 11:15 | Comments(6)

美しい国

 ノーベル文学賞を受賞した川端康成氏が、ストックホルムで「美しい日本の私」という題名で受賞記念講演を行った。40年も前のことながら鮮明な記憶がある。新聞の一頁全面を使って講演の詳細が記載されていた。非常に格調の高いものだった。
 古来からの歌人の詩を紹介しながら、日本の自然のすばらしさを讃え、そこから出てきた「わび・さび」「無」の思想など、日本のよさを余すところなく紹介されるものだった。ただ、内容は極めて難解でもあった。

 今般の安倍新首相の施政方針演説で「美しい国、日本」を作るんだということを聞き、上記のことを回想した。川端さんの話は、その文学的な感性を如何なく発揮されて、短い内容ながら後世に残るすばらしいものだった。

 同じ言葉ながら、文学と政治との違いがあり、その言わんとするところは以って非なるものである。安倍さんはキャッチフレーズとしての政治目標である「美しい国」である。当時の川端さんは実在する「美しい国」とその思想を話していたのだった。

 安倍さんの目指す「美しい国」とはどういうものなのか。自然豊かな美しい国は、川端講演当時より多少損なわれたとはいえ現実に存在している。これにまた政治目標をダブらせてしまうとどういうことになるのだろうか。

 「美しい国」は、かつて「神国・日本」に振り替えられた時代もあった。施政方針演説内容と「美しい国」との関連がいまひとつピンとこないところがある。はじめに一般受けの良いキャッチフレーズがあり、次いでもともとの演説内容を無理にこじつけたような感じがしてならない。
 内容にふさわしいタイトルをつけるべきだったのだろうと思う。「美しい国」が独り歩きしないことを願わずにはいられない。
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by watari41 | 2006-10-01 09:12 | Comments(4)