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300話記念

 ブログへの記載を始めてから、いつも「無限」の中の「小さな有限」を感じていた。どういうことかというと、どのブログであれインターネットで全世界に向かって発信されている。何十億人もの人たちに読まれる可能性があるのだ。

 しかし、実際に個別のブログを読んでいる人は非常に限られている。このブログの場合でも常に目を通している人は100人とはいないはずだ。
 公開されているブログは、おびただしい数にのぼるから、誰もがそれらにいちいち目を通すことは事実上不可能である。
 自ずから小さなサークルができる。それでよいのであろう。これを小さな水辺などの自然環境にたとえてビオトープと表現する学者もいる。

 そんなささやかなことではあるが、たまたま表題としている「回想」をキーワードにすると、インターネット上には実に3百万件もの発信元がある。
 Google検索すると、驚いたことには、このブログが常にその第一位にランクされているのである。私の密かな誇りでもあった。

 2年前にこのブログを始めた時には、300回も続けられるとは思ってもみなかった。多く方々に励まされた。
 どうせ読む人は限られているのだからと安易な気持ちになることもあるが、時として、全く思いがけない人が見るかもしれないという緊張感もある。今はやりの言葉でいえば自分が一番楽しんだのであろう。

 文章を綴るのは難しい。私の文は硬すぎるようである。柔らかくしようとしたが無理だと分かった。素人には限界がある。無い知恵を絞ってきたが、だんだん先が見えてきたような気もする。区切りのいいところにきた。

 ブログのお陰で、60余年の棚卸の場を与えてもらったような気がする。これまでの300話は大袈裟にいえば私の生きてきた証でもある。
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by watari41 | 2006-03-29 08:44 | Comments(15)

時間を買う

 究極の買い物が「時間を買う」であろう。ソフトバンクがボーダホンに巨費を投じて買収したのは、15百万人もの顧客を自ら獲得できるまでの時間を買ったのである。

 世の中が目まぐるしく動いているのは、いろんなところで時間が買われているからに他ならないと思っている。
 かつての百年が今の十年だといわれるのは、活動時間が圧縮されているのである。どういうことかといえば、自社で開発すれば数年、数十年もかかる技術とか顧客を他社から買ってしまうのである。お金で時間のジャンプがなされるのだ。
 在職の頃は、そんなことをたくさん見聞きしたことを回想する。新興企業、特に最近のIT産業といわれるものは、買うことに何のためらいもない。昔は老舗といわれる企業ほど他社技術の購入などには抵抗したものである。

 歴史的なことでいえば、明治初期のお雇い外国人や西欧への留学生がそうであったろう。西欧の産業革命などの長い道のりの成果を、それこそ一瞬にして日本は獲得したのである。そこをベースに発展できた。それがなければ延々たる労苦があったであろう。
 戦後も米国から復興のからみのこともあったのだろうが、ほとんどタダ同然の技術導入があった。そのお陰で失われた戦中の時間が縮められ、日本の躍進があったことを身近で体験することがあった。ついには、いろんな分野で米国を凌駕してしまった。戦中の日本独自の技術もあるにはあったが、オリジナルなものは意外に少なかったようだ。

 現在は、お互いの技術が公開され、売買され、自社の不足を補う時間が短縮されるので、当然ながら世の中の動きは早くなる。その早さは近年、加速度的とも思えるようなものになってきている。

 昔の皇帝が夢見た「不老不死」も悠久無限の時間を買うことだったが、この裏返しが有限の時間を濃縮していろんなものを詰め込み、短い時間をあたかも無限の時間を得たことと同様にすることが可能になった。
 今や人類全体が時間を買いあさっているような気がしてならない。これを文明の暴走などという人もいる。人間の一生は限られた時間ながら、その経験するところは今や大変なものとなった。
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by watari41 | 2006-03-26 07:34 | Comments(2)

知名度

 昨年、宮城球場の命名権を得たフルキャストは、2億円を支払った。そんな価値があるものかと思ったものである。一年後の調査結果では、支払い対価に余りある「知名度」向上の効果を得たということだった。

 今度は、二軍の球場やサッカーの仙台スタジアムの命名権も売りにだされている。売る方は労せずして多額のお金を手に入れることができて、買った方もそれなりに喜んでいる。すごい「商売」があったものだ。これも「知名度」というものに「商品価値」があるからに他ならない。

 どこの世界でも「知名度」の獲得に必死である。そのことに、信じ難いほどのお金をつぎ込む。「物」を買うのではなく、命名権など実態のないものを買うというのはピンとこないところがある。
 しかし、市場経済下では「知名度」は決定的な意味を持つ。「商品」の知名度は、即、売り上げに影響する。しかし、会社の知名度というのは、やや分かりにくいところがあるが「企業活動」に大きな影響を及ぼす。そのために多額の宣伝費を使う。
 市場に商品を出していない会社も広告を出す。企業イメージの向上を計るのだという。

 市町村も「知名度」の獲得に熱を上げている。よくぞ、わが町を全国にPRしてくれたと表彰される方もいる。もちろん、良いイメージでの「知名度」向上だ。地方自治体も知られたい、知ってほしいという欲求がある。

 個人レベルでも同様なことがいえるようだ。政治家は知名度があれば圧倒的に有利だ。選挙費用は知名度の向上に使われているようなものだ。文字通り名前を売っているのである。青島幸夫さんは抜群の知名度があったので、選挙期間中は海外旅行をしていても当選できたというバカバカシイようなこともあった。

 大会社に勤務する人は企業知名度に敬意を払ってもらえる。名も無き人が、そんなことで記憶してもらえるという利点がある。知名度の恩恵に浴しているのである。世の中に認知してもらいたいという欲求は、人間の重要な側面でもあるのだろう。

 (このブログも多少、知名度が上がったのかヘンテコリンなコメントが入り、ご覧になった方には不快な思いをさせました。すぐに削除しました。)
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by watari41 | 2006-03-23 21:19 | Comments(2)

技術力

 ライブドアが意外な展開となった。上場廃止が決定して、どうなることかと思っていたところに、食指を動かす会社が出たのである。ポータルサイトとしての技術力に目をつけたのだ。
 以前から、その技術力には一定の評価がなされていた。「虚業」の部分が大きくクローズアップされてしまったがしっかりしたものを持っていたのである。(買収して社名まで拝借した元々のライブドアの技術ではあったのだろうが)

 もう、50年も前になるが機械メーカーの津上製作所が倒産した時のことを思い出す。その時には技術力のしっかりした会社だからすぐに立ち直るであろうといわれたのを記憶している。事実、そのとおりになった。
 その後もいろんな企業が会社更生法の適用を受けたが、再建のキーポイントは技術力だった。
 健全だった会社がその技術力を過信してしまい巨額の設備投資をした結果、経営が行き詰まったこともあった。だが得てしてそいう会社の立ち直りは早かった。

 会社の基盤は技術力と共に財務体質もある。これは外から見ていてなかなかわかりにくい。在職のころさる大企業の幹部が、うちはライバルと比べて財務体質の劣るのが弱点だと言っていたことを思いだす。見た目には良い会社に見えるが借金に頼るところが大きかったのである。
 その後、法律改正で株価の時価発行増資が可能となった。簡単に多額の自己資金を確保できるようになった。優良会社といわれるほど、株でお金を集めやすくなったのである。

 ライブドアは、皮肉なことに技術力からスタートしたのだろうが、株式分割など安易な方法で巨額の資金を集めることができたので、カネ回りのよさが世間評価を高めた。

 かつては技術力の裏付けがあって良い会社と評価され、それによって資金を得ていたものが、株券の操作などでタダのお金を得ることが出来るようになってしまった。その虚の部分をメディアが大きく持ち上げてしまい、今度は全てが「虚」であるかのような話になってしまった。

 ライブドアには何千億円とはならないものの、評価されるべき技術力という実体のあったことがUSENの参加で明らかになった。事件が発覚してから種々の騒ぎがあったが、これらのことは今後どのように経済史的に評価されていくのだろうか。
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by watari41 | 2006-03-20 07:27 | Comments(4)

誤解

 私は誤解されている。この件については誤解があった。誤解のなきように願いたい。などなど誤解に関するいろんな事柄がある。誤解が誤解を生んでとんでもないことになる場合がある。

 誤解の典型例がベトナム戦争だったと思う。戦争が終了してから20年くらい過ぎて、あの戦争は何だったのかというテレビ企画があった。両者の主張を聞く番組だった。
 当時の国防長官だったマクナマラ氏などが出演した。米国が戦闘を拡大した理由を説明していたが、それに対してベトナム側は全く違う見解だった。お互いにそれぞれの誤解に基づくものだったことが判明したのだ。しかしこの戦争でおびただしい人々が死んでいるのである。
 米国が事実上、敗北した戦争だったので両者の主張が展開されたが、勝っていたなら相手を戦争裁判にかけていたのであろう。
 イラク戦争も、大量破壊兵器を保有しているはずだという米国の誤解によるものだったことが明らかになっている。誤解を解こうとする努力をせずに戦争に訴えてしまった。聞く耳をもたなかったのかも知れない。

 国家間の誤解は、時としてとんでもないことになる場合が多いのだが、個人の間でもやっかいなことになってしまう場合がある。相手を生涯誤解したままで終わることもなきにしもあらずだ。誤解を解くのは容易なことではない。

 この場合のキーポイントはお互いの信頼関係にあるといえそうだ。これがしっかりしていれば、多少の誤解は氷解してしまうことが多い。しかし相手を全く信用していない時には、その誤解が消えることはない。相手の話を聞かなくなる。あいつには何を言っても駄目だということになってしまう。人間生活のやっかいなところである。そんな人間が構成する国家も似たようなものだといえる。

 このところイスラム社会に対する誤解が増幅され、いがみ合いが激しくなってきている。これを解くのは容易ではない。相手を理解しようとすることを拒否してしまう何物かがあるようだ。
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by watari41 | 2006-03-17 08:38 | Comments(5)

有線と無線

 3月に入ってわが町では、光ケーブルの敷設が急ピッチで進んでいる。これに合わせて光への切り替え勧誘が毎日のようにくる。ネット社会の拡大に拍車がかかりそうだ。

 インターネットは「有線」が主流だ。かつて通信手段は無線方式が万能の時代になるのではないかと考えたこともあった。電線がいらないからである。だが、「無線」は有限の資源であることが次第に明らかになった。実用可能な周波数範囲にいろんなものがひしめいてしる。ラジオやテレビの局数が少ない頃はまだよかったが、今やたくさんの電波が入りこんできて混線を起こすようになってしまった。
 加えて非接触の近接無線が増ている。スーパーの自動レジであるとか、トラック一台の積荷を瞬時に自動計測してしまうなど、ICタグなどと組み合わせたシステムが盛んになるようだ。もともとは電線がいらずに遠距離に電波を飛ばすことで通信するものだという認識だった無線が、近接使用という意外な発展と展開をみせている。

 電線があるから厄介だと思っていた有線通信はADSL技術で、大容量のデータが送れるようになり、今度は光となると無限に近い感じを持ってしまう。かつて抱いていた有線と無線のイメージは、今やまったく様変わりしてしまった。

 光の時代でインターネット放送も現実化してきた。誰もが簡単に放送局を開設できる。ブログに次ぐ革命的な出来事だろうと思う。個人で試験放送を始めた人もいる。FM放送など本来は狭い地域に限定されていたものが、それをネットに乗せることで、全国に放送できるようになった。

 大正末年にNHKが東京の愛宕山から電波を出して放送開始以来80年、今や一般の人々が千円程度のマイクを片手にパソコンにつないでそれぞれに無免許で放送することができるのである。ポットキャスティングと呼ばれている。
 私も十分に理解できたわけではない。こんなことなのだろうかと、そのソフトをダウンロードすると、すでに開設されているインターネット放送を聞くことができた。次は映像放送である。ビデオポットだという。この世界は目まぐるしい。かつての夢が目の前にある。

 半世紀前に、鉱石ラジオを組み立てて放送が聞けて喜んだことを回想するが、今やデジタルの分野は信じ難い世界になってきた。
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by watari41 | 2006-03-14 08:08 | Comments(6)

親と子

 かつて、楽天の野村監督が面白いことを言っていた。プロ野球界では、いまだに親を超える選手が現れていない。自分の息子のカツノリ捕手や長嶋一茂選手がなかなか活躍できないでいるのを見て、はがゆい思いをしていたのであろう。
 相撲界では若貴兄弟をはじめ多くの力士が親以上の地位を獲得した。歴史の違いだろうか。囲碁・将棋の世界でも親を超えている人たちは多い。作曲家でもヨハンシュトラウスの息子はワルツ王といわれている。

 特異な才能を要求される分野は別として時代が安定してくると、親の職業につく人が多くなる。
政治家などは特にそうであろう。公務員、学校の先生、大会社勤務などの方々はその子供に同様の道を歩ませたいと思うようだ。だが、貧乏会社に勤務していた人や農家の人々は、そうではない。親の苦労をさせたくはないと思うのが人情だ。

 野村さんのボヤキは個人レベルのことなので社会的影響はないが、創業者の二代目となるとそうはいかなくなる。子供が親を超えるということはほとんどない。企業を世襲して悲劇的なことになる例も多いようだ。本田さんは偉かったのだと思う。子供が継いでいたら現在のホンダはなかったであろう。

 だが、自分の成功を引き継がせたいと子供に期待をかける親は多い。
 生まれながらの天与の肉体と才能を引き継がせたいという逸話もある。マリリンンモンローが文豪アーサーミラーに、2人が結婚して、私の肉体とあなたの頭脳を持った子供を得たらすばらしいことだと言ったのに対して、アーサーは、逆になって私の肉体と貴女の頭脳のような子供だったら悲惨なことになると切りかえしたのだという。面白おかしく誰かが作りあげたのだろうが象徴的な話ではある。

 女子ゴルフの宮里や横峰選手の父親はつとに有名になったが、子供の才能を見抜くのは容易なことではない。成功例はごく稀なことだと思うが、子を持つ親には期待感をもたせてしまう。それは人間の本能でもあろうが、子供の重荷となる場合も多いようだ。そんなことは誰しもわかってはいるが人情としてはそうではない。世の親に代わって野村監督がボヤイテみせたのかもしれない。
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by watari41 | 2006-03-11 06:48 | Comments(6)

バスと鉄道

 都市間バスが便利である。仙台から山形、福島へなど、とにかく安い。
 その一方では田舎のバスがどんどん廃止されている。わが町からも、とうとうバスが消えた。町が多額の補助金を出して支えていたが、もたなくなった。代わりに、今までのバス路線を役場が直営する10人乗り程度の車が走っている。宮城県全域でこんなことが起こりつつある。バスが田舎の交通手段ではなくなった。

 かつてアメリカでは車がないと生活できなと聞いたことを回想するが、半世紀前には日本もそんな時代になるとは考えもしなかった。車のない人が田舎に住むのは難しくなってきているのだ。街から商店も消えている。

 田舎の鉄道はこれまた苦戦である。JRのワンマン列車が走っている。かつては考えられなかった光景だ。宮城県北の栗原鉄道も廃止になった。第三セクターでかろうじて命脈をつないでいる地方線もある。
 かつて鉄道の開通は、地域住民の悲願だった時代もそんな昔ではない。レールの行き着く先は東京だというのが大きな理由の一つであり、唯一の交通手段ということもあった。時代の変遷は早い。特に田舎の町では、変化に翻弄されることが多い。
 一日当り利用者数千人のわが町の駅も、自動改札の導入で無人駅に近い状態になってしまった。

 かつて重宝されたものが今や無用の長物、あるいは厄介者扱いされている。仙台市では地下鉄東西線の建設が始まろうとしている。もうこれ以上の人口増は見込めないのだから不要な気がする。仙台空港への鉄道も来春完成する。これもどうかと思っている。空港利用者数からみると大量輸送機関の鉄道は必要だったのだろうか。

 その昔、鉄道のある町は、住民にとってシンボリックなものであった。バスしかない町では格好がつかなかったのだ。そんな頃を懐かしく思う。
 今や地下鉄が都市のステータスだが採算を度外視してもやるべきことであろうか。
 新設の神戸空港などもステータスとしての要求だったのではなかろうか。出来たとたんにもう無用の長物扱いをされている。遠い将来は別として、10年くらい先の見通しはさほど難しくはないのだろうが、こと交通機関になると楽観的すぎる見込みが後に問題を複雑化してしまっているようだ。
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by watari41 | 2006-03-08 08:10 | Comments(6)

道州制

 過去に何度か論議されてきた「道州制」が現実味を帯びてきている。この背景には、ややうがった見方ではあるが各県の極端な財政難があるのではないのかと思っている。多くの知事が賛成しているのは「道州制」への移行によっていろんな負債がチャラにできるのではないのかとの期待感と思惑が見え隠れしているような気がするのである。

 明治初期の廃藩置県が、すんなりと決まったのも財政的に困窮した各藩が進んで応じたためであるといわれている。
 物事が進むか否かは大概の場合お金が絡んでいる。わが町が隣町との合併がギリギリのところで失敗したのもそうである。あまりにも両町の財政格差が大きすぎたのである。

 「地方自治」というと格好はよいのだがものすごい無駄がある。宮城県と仙台市の関係などはその典型であろう。市は県の人口の半分を占めている。知事がいて市長がいる。お互いに似たような議会がある。まったく無駄だと思う。
 宮城県全体が合併して仙台市となれば、県が必要なくなりすべてが半分で済むのではなかろうかと思う。貧乏人の極端な発想かもしれないが、県の財政難を聞くにつれそんなことをつい考えてしまう。

 日本の民主制度を維持するために地方議員は全国で6万人がいる。どうみても多すぎる。「道州制」の前提は、現在の市町村を合併によって20万人程度の中規模都市に括ってからということのようだ。これが実現できれば本当の意味での大改革となるであろう。だが、平時においてこんなことをやるのは大変なことだ。

 在職当時は、無駄の多い職場を称して「宝の山」であるなどと言われたことを回想する。カイゼンの余地が大きくいくらでも財源が生み出せるということだ。
 地方自治体には、まさにお宝がいっぱい詰まっているようだ。財政難などはたちどころに解消するのだと思うが、いろんなしがらみがあるのだろう。機構改革はそんなことを断ち切るチャンスでもあると思う。
 「道州制」は、まさにその大きな宝の一つを取り出すことにつながるのである。ウヤムヤにはしてほしくないものだ。
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by watari41 | 2006-03-05 10:46 | Comments(5)

葬儀会館

 わが町に3つの葬儀会館ができた。人口は3.5万人しかいない地域である。お互いに競いあっている。祭壇の写真と花輪の名前が違うだけで、葬儀に行けばどの会館も似たようなものだ。

 亡くなったのが近しい知り合いの場合には特に違和感を感ずることが多い。淡々と式が進み終わってしまう。病院で死の直前まで苦しみに耐えていた人が、何事もなかったかのように、祭壇には元気な時の写真が飾られる。大勢の参列者が詰めかける。故人とは一面識もない方々が多い。
 子供の勤務する会社の方々とか取引先の方であるとか、ほとんどは義理で来ているのである。弔電にしてからがそうだ。延々と読み上げられ、議員の宣伝の場にもなっている。形式化した儀式に空々しさを覚えることがある。

 会館の経営者は、昔はガンバコ屋と呼ばれていた職業である。葬儀に際しては、どうしても必要な棺桶を作っていただけだ。昔の葬儀は自宅あるいはお寺でお経があった後は、墓地に穴を掘って埋めるだけであったことを回想する。
 今や棺桶屋は総合葬祭業者である。ご婦人方は一生の間で何回も着ないであろう喪の和服を会館の専属着付師に着せてもらい、遺族席で頭を下げ続けてる。葬儀の形は整っているが心が全く感じられないのである。死を悼み悲しみを共有する場ではない。まさに式場なのである。

 人の死をもっと別の形で扱えないものだろうかと思う。会館での葬儀はまるでベルトコンベアに乗せられた感じのするものだ。毎年15件もの葬儀に出席し、会館を往復するたびにこんな感慨をもってしまう。
 人の死が乾いたものとして扱われてしまっている。これは現代人の行き方の問題でもあろうかと考えることがある。生きていること自体がパターン化されているのかもしれない。その延長に死がある。
 昔のように食べるための苦労があまりなくなった。コンビニやスーパーに行くと何でも売っている。皆が同じようなものを食べて似たような生活をしている。葬儀もパターン化されたものにならざるを得ないということだろうか。

 人生終焉の弔い儀式は、その国の文化尺度でもあるのではないかと思う。現状にはやや寂しい感じがしている。
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by watari41 | 2006-03-02 07:55 | Comments(8)