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オリンピック

 トリノが終わった。個々の競技もさることながら、最近のオリンピックでは夏・冬を問わず、マスゲームというか開会・閉会式でのショーが最大の見ものだと思っている。またこれを楽しみにしている。
 このところは国家の威信をかけたともいうべき、大掛かりで華やかものになっている。まさに「地上最大のショー」ともいうべきものだと思う。これを見ずしてオリンピックを見たということなかれというような感じまでしている。開会式の聖火の点火にはドギモを抜かれた。閉会式もきれいだった。世界の人が見ているのでイタリアもそれなり以上の趣向をこらし、巨額の費用をかけたのであろう。

 いつの頃からこんなことになったのだろうかと思う。素朴なスポーツイベントがいつのまにか世界的なショーになった。オリンピックは国家的な契機になることが多く東京がそうだったように、北京が中国の近代化をこれにかけているようである。オリンピックはそれなりの意味をもってはいるようだ。
 政治とは無縁であるというタテマエながら、いつの時代にもそうではなく利用され続けてきたと思う。ヒットラーをはじめ米ソ冷戦時代の選手ボイコット合戦など、これからもこんなことがあるのだろう。今後は対イスラム圏とのトラブルが多くなるのではなかろうかと思う。

 日本は惨敗だった。荒川選手の「金」は、大会関係者にとってまさに「値千金」ともいうべきで、これがなかったら救いようがなかったであろう。仙台の出身者であることが何とも嬉しい。

 オリンピックの金メダルは、世界最高峰のものだが、そうでないものがある。野球のメダル価値は低い。メジャーリーグには一顧だにされてもいない。何しろワールドシリーズなのだから、その以上のものはありえない。これからもそうであろう。これもU.Sスタンダードみたいだが、そうではなくてオリンピックの方がおかしいのである。
 アマチュアリズムの権化が、いつの間にかプロも入り込んで、今や何がなんだかわけのわからないものになってしまった。
 フイギュアの行き着く先がアイスショーであるように、オリンピックもスポーツというよりも、ショーの要素がますます強くなっていくのだと思う。
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by watari41 | 2006-02-27 08:44 | Comments(4)

日は、また昇る

 戦後日本の発展は「官民一体」によるところが大きかったというのが定説になっている。ところがこれに異を唱える人たちは多い。官と民は、いつの時代にも激しく衝突していて、そこを打ち破った民間企業が新規なビジネススタイルを打ち出して日本を牽引していったというのである。最近では宅急便のヤマト運輸が有名な例だ。デジタル革命にかけるソフトバンクなどもその類であろう。

 昔とはいっても昭和25年頃に川崎製鉄の西山弥太郎社長が千葉に最新鋭の一貫製鉄所を建設しようとしたとき、時の日銀総裁一万田さんが猛烈に反対してそんなことをしたら製鉄所にペンペン草が生えるとまで言ったそうである。
 なぜなら日本にはそんな需要はなく、無駄な投資になるということだった。能率は悪くとも戦前からの古い製鉄所の再建を優先させるべきという考えだった。官には時代を見る目がなかったということが、それから10年足らずして証明されることになる。まもなく高度成長が始まったのである。
 戦前における鉄鋼は、軍艦や戦車などへの需要が大半を占めており、平和日本には大きな鉄の需要はありえないという考えだったというのだから今からみると信じ難いような話である。
 日本の鉄鋼業が隆盛期を迎えた頃に学校で聞いた「ペンペン草」という余話みたいなことを妙に記憶している。

 東海道新幹線も当時の十河国鉄総裁が構想した段階では前記の製鉄所同様に無謀だとの反対を受けたようだ。時の運輸省などは同じような狭い軌道をもう一本作れば済むという考えだったようだ。
 ホンダも四輪車に進出する時は通産省から大きな抵抗を受けたようだ。現在の時点で考えるとこれまた信じ難い話である。
 ところが、一度成功したとなるとこれへの悪乗りがはじまってしまう。全国新幹線網計画であるとか、高速道路整備計画など、今度はこれにストップをかけるのに、大変なエネルギーを費やしてしまうことになる。

 最近、日本経済が回復してきて「日はまた昇る」という議論が盛んである。何度かの浮き沈みはあるにしても、日本にはまだまだ使われていない能力が沢山あるのだと思う。
 これからも事あるごとに隠れた日本人のエネルギーが出てくるのだろうと思う。日は何度でも昇るのだと信じたい。
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by watari41 | 2006-02-24 08:21 | Comments(2)

先入観念

 往々にして、先入観念に捉われていて思わぬ大失敗をすることがよくがある。そうだと思い込んでしまっていることは、なかなか頭の中では簡単には矯正できない。行動を起こして初めて気のつくことや、「そういうことだったんですか」と時間の経過が間違いを教えてくれることもある。
 ごく最近ではスキージャンプで原田選手のスキー板長さの思い違いでの失敗があった。オリンピックでの失格という重大な結果を招いてしまった。

 先日、ラジオを聞いていたら、老人ホーム慰問の話があった。お年よりだから時代劇を喜ぶだろうと、それを上映したということである。それなりに喜ばれはしたが、その後で、今何を求めるかと問うたら、ほとんどの方にニュースが見たいと言われ、ガクゼンといたというような、思い出話をされていた方がいた。テレビがでる前は映画館に行くと、最初に週間ニュース映像が流れ当時は珍しいこともあって、料金の何分の一かは回収したような気分だったことを思いだす。老人だからという思い込みの間違いに気がついたということだった。

 固定概念に捉われず、自由な発想でなどといわれるが実際には極めて難しいことだ。その昔、ブレーンストーミングとか、KJ方とかで、問題解決のために埋もれた知恵を引き出そうといろんなことをやったのを回想する。

 何をやるにしても、先入観念がつきまとう。初対面の人に会うのに一応は下調べをする。それは悪いことではないのだが、その人への思い込みになってしまうことがよくある。何の偏見もなく頭をまっさらな状態にしておくことはむずかしいことだ。
 「人は見た目が9割」などという本が売れているのも、第一印象が思い込みになってしまう例なのだろうと思う。

 捜し物にしてもそうだ。そんなところにあるはずがないというようなところから見つかったりする。大きな建物だろうと思って探していたら実は、小さな家屋で見つからなかったとか。数え上げればキリがない。

 行動する前に、矯正できた思い込み、勘違いは良いのだが、恐らくはそのままになっている先入観念が頭のなかに沢山残っているのだろうと思う。
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by watari41 | 2006-02-21 10:19 | Comments(4)

年齢制限

 冬季オリンピックでの女子フィギュアの年齢制限で、メダル確実といわれた浅田選手が出場できなかった。実に不可解なことだと思っている。
 若年者は女子フィギュアの全ての大会に出場できないということなら話はわかるが、世界選手権などはOKで、オリンピックだけは駄目だというのもおかしなことである。

 いろんなところに年齢制限が存在する。未成年者や18歳未満お断りなど等。これらは社会的に認められたことだが、最近は高齢者への年齢制限をかける動きもある。運転などに関することだ。事故が多いのでやむを得ないののかもしれない。ある年齢で自主的に免許を返上する方もいるようだ。

 昔は元服すると一人前に扱われ、隠居で公的役割を終える。いわば当時の年齢制限であったのだろう。
 現代社会では、いろんな年齢制限が存在する。議員が面白い。衆議院は25歳だが、参議院は良識を問われるからと30歳だ。民主党などは、これに65歳定年制を設けようとしている。これに反発する議員がいるのは当然のことだ。
 少年法の適用を受ける上限年齢だとか、根拠はあやふやだがいずれも人間が決めたことである。

 老齢者が65歳からというのも、今や実情に合わなくなっている。従来はこれに合わせた特権があったからよかったが、税金の老齢控除もなくそうとしているし、実質的にはなし崩しになってきている。
 若い女性にとっては年齢がカギとなる場合が多い。年少者が偽って夜の職場に勤めを求めたり、逆に若く偽る人など年齢制限での悲喜こもごもがある。

 周囲の人々が無意識に年齢制限を設けている場合もある。女子スピードスケートの岡崎選手が本人はそうは思っていないようだが、周りはその年齢でよくやっているとなる。
 女子フィギュアを機会に頭をめぐらしてみたが、我々は定年が過ぎて今度は寿命という年齢制限が待ち構えている。個人差があるので一律ではないところに妙なるところがある。
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by watari41 | 2006-02-18 08:26 | Comments(2)

消費者ニーズ

 我々の嗜好は、知らずのうちに変ってしまうことがある。前回取り上げた主食のこともそうだ。消費者は気づかずとも、売る方は敏感にわかってしまう。これまでのものが売れなくなるからだ。

 消費者は、じつに気まぐれなものだ。そのニーズが簡単に変ってしまうことが多々ある。だが、我々消費者自身がこのことに感ずいていていないことが多い。
 巨大スーパーがこの消費者ニーズの変化に戸惑っている様子が放送されていた。売り手と買い手がマッチングしなくなっているのだ。売らんが為の従業員の涙ぐましい努力が紹介されていた。コンビニも売れる商品づくりに必死である。

 消費者は、案外にして主体的というより時代の気分や流行みたいなものに敏感で、無意識に要求条件が左右されてしまうことが多い。お酒の甘口、辛口などというのもそんな気がする。焼酎の人気もそんなことではないのだろうか。

 農家もいまや「うまい米」、「売れる米」を作らなければならない時代だ。量ではない。昭和30年頃に国民の主食が不足しては大変だと秋田の八郎潟に巨費を投じて干拓したが、当時はだれが考えても理にかなっていたことが、半世紀過ぎてみるとまったくおかしなことになってしまった。
 全国平均では30%もの田で稲作を休まざるを得なくなった。わが町の米は多少評判が良いとのことで隣町よりも、休耕率が少し下げられている。より多くの一等米を作るために苗の株数、植え付けバランス、田植え時期などいろんなことが検討されている。

 消費ブームは人為的に作られることもある。日本人は案外に乗せられやすい人種なのだともいわれるのだ。現在の消費者ニーズがいつまでも続くとは限らないから困るのである。人間というのは実にきまぐれなものだと思う。

 ソ連などの計画経済がうまくいかなかったのは、結局は人間の嗜好が変化することを無視したがためだと考えている。計画通りにいかいことは多い。
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by watari41 | 2006-02-15 08:46 | Comments(4)

日本の主食

 日本人が「米」を食べなくなってきている。前々から騒がれてはいたが、その減少に歯止めがかかっていない。かつては、一人当たりの年間消費量が150kgあったものが、最近では60kgであるという。
 「米」からのカロリーは、今や20%程度らしい。食の多様化というと聞こえはよいが、生産者からすると大問題である。
 退職してから、農業関係の役職を一ついただいたお陰で、その関係の新聞が週に一度配達される。いわゆる農業業界紙の一つである。これまで知らなかった世界を覗いているような感じがしている。在職中は、工業関係の業界紙しか読んでいなかったので、いろいろと新鮮な驚きがある。

 かつて「米」には、単なる食物以上の精神的な意味合いまであったように思っている。また、40年ほど前までは豊作や不作は、日本経済にも大きな影響を及ぼしていたことを回想する。
 日本人は「農耕民族」ともいわれるが、その基幹を為すものは「稲作」であった。それが大きく揺らいでいる。

 麺類、パン食などの方がむしろ健康的だなどという概念まであるようだ。この半世紀、いろんな分野で何もかもが変ってしまう激変があったが「主食」も例外ではありえない。

 「米」は、日本の根幹を貫く文化でもあったのだろうと思う。外国居住者は別として「米」を食べない日本人とは何なのだろうかということにもなる。こんな感慨に浸るのも我々の年代が最後なのであろうか。

 先に取り上げた「伝統」にも関連するが、数千年来続いた一国の主食が変ってしまうというのは、実は大変なことのはずだ。女系天皇以上に問題なのではないだろうか。
 それが、生産者以外にはあまり関心を持たれることもなく数十年足らずで淡々と変化が進んでいる。こんな実態に、そら恐ろしさを感じている。
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by watari41 | 2006-02-12 08:03 | Comments(6)

00年危機

 「07年危機」が叫ばれている。団塊世代の大量退職が始まるからである。
 これまでに、この種のたぐいの「00年危機」ということを、何度も聞いたことを回想する。近くは2000年危機があった。コンピュータが一が誤作動して大変なことになるというものだった。92年危機というのもあった。日系自動車工場が米国で一斉に稼動するので供給過剰になるということだった。この他にもたくさんの危機が叫ばれた。
 しかし、たいしたことは起こっていない。そこを通り過ぎると何事もなかったかのように静かになる。実に不思議なことだ。
 危機というより話題づくりであったのだろう。たしかに危機と騒がれるとそれなりの対策をとるのでたいしたことにならずにすんでいる側面もあるのだろうとは思う。

 日本人は危機を好む。常に緊張感を強いられるからである。地震がいつ起こるかわからないなどはまさにそうだ。危機意識を持つことは何も悪いことではない。危ない会社ほど安定だなどともいわれる。
 危機も根拠があればそれなりの説得力がある。しかし、いい加減な理由でいたずらに恐怖感を煽るものはいただけない。99年地球滅亡説(ノストラダムス)や、「00年」経済恐慌説というのも何度か流布した。何の根拠もなく、いたずらに人心を惑わしただけであった。

 若い人たちが老後のことを心配するのも、具体的な「00年」はないものの、将来への危機感の表れでもあろう。

 団塊世代危機も、一斉退職ではなくて徐々に進んでいくのだと思う。業績の悪い会社では60歳以前に退職せざるをえなくなるようだし、余裕のある会社ではそれなりの対策がとられるようだ。

 「核の危機」「小子化の危機」・・、数え上げればキリがないほどに危機がある。本当の危機は表面化していないところで徐々に進んでいるのではなかろうか。「00年」とは限定できない危機が怖い。オイルショックでのトイレットペーパー騒動のように、ある時、突然パニックを起こし、わけもわからずに走りだすような、いつ爆発するかわからない危機があるのだろうと思う。事前に危機だと騒がれるのは、いいことなのかも知れない。
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by watari41 | 2006-02-09 09:14 | Comments(5)

伝統

 女系天皇は、わが国二千年来の「伝統」に反することである。こんな論調が目立ってきた。これまで男系が継続したのは結果としてはそうなのだが、皇室の歴史を振り返った時に偶然にそうなっていただけのような気もする。

 これからの一夫一妻制では、確率的に男系が続くなどということはあり得ない。自明の理であるはずだ。どうしてそんなに、こだわるのだろうかと思う。これは憲法を超えることだなどという話もあるが論外である。
 男系に特有のY染色体などというのは、ごく最近の知見である。その対象者ならそれこそ何万人もいることだろう。生命科学の発達が問題を複雑化してしまったのは皮肉なことだ。もっとフランクに考えたらどうかと思うのだが「伝統」という言葉には弱い。

 「伝統」だと言われると一種抗し難いことのように思ってしまう。「伝統を破る」には大変な勇気がいる。その歴史が長くなるほどにあがらいがたくなる。

 「伝統」は大事なことであろうが、「伝統」に縛られてしまうのも窮屈なことである。時には悪い「伝統」を引きずっていることもある。こんなものを因習というのだろう。一般に物事を始めるのは簡単だが、止めることの方が難しい場合が多い。

 「伝統」の始まりは、意外に簡単なことなのかもしれない。現在新しく若者が始めたようなことが「伝統」になってしまうことだってあるだろう。新しいところに伝統はない。これから始まる全てが伝統になっていく可能性もあるのだ。

 皇室は全てが「伝統」なのであろう。その祭祀を守るのが天皇家であるというのは理解できる。しかし、血統にこだわりすぎるようだ。これは近代になってからのこだわりではなかろうか。急がず、十分に議論を尽してなどといわれるが、時間が過ぎるほどにやっかいさが増してくるような気がしている。
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by watari41 | 2006-02-06 09:34 | Comments(5)

潔癖性

 日本人の特質に異常とも思えるような「潔癖性」がある。新品にはわずかたりとも「傷」があってはならない。使用すればすぐに汚れてしまうようなことでも許されない。実用的には何の問題がなくとも新品としての商品価値を大きく損なってしまうのだ。中古品扱いになってしまうこともある。
 そのために不必要とも思われることまでやっている。かつて輸入外車は、日本にはいってから塗装を全面的にやり直して市場に出していたようだ。高級品には特にそういう要求が強い。どうして、そんなにこだわるのだろうかと思う。他国では、そんなことはないのではなかろうか。

 日本人には、「けがれ」を嫌うという風習が強くあった。傷ついた品物も清浄無垢ではないのでケガレたものなのかもしれない。初期状態のものにケガレは認められないのである。物に対しての潔癖性のみならず、かつては精神上にもケガレなき「潔癖性」を求めていたようだ。
 神主の「お払い」も、ケガレを除くという意味合いがあったのだろう。いまではすっかり形骸化してしまったが昔はそれなりの重要性があったのだろう。極寒の海中での禊であるとか、滝に打たれることなどに、わずかにその名残があるようだ。一般には、形式としてのお払いでしかなくなった。

 しかし、物に対する潔癖性は強く残ってしまった。これは新品に対するあこがれの裏返しでもあるような気がする。昔は新品を使うなどということはなくて古いものを補修しながら繰り返し使用していたので、新品へのこだわりが特に強かったのではなかろうか。
 それ故に、ケガレなきものである新品に汚れや傷などがあってはならないことだったのだと思う。購入した新品に傷がついたりすると価値が無くなってしまうのだ。

 古いものを使用していた時には問題ではなかったが、新品は傷がついたりすると、ケガレたものだと次々と捨てられてしまう。無欠陥の次の新品を求めてしまう。新品を修理して使うという思想がない。新品に嵌った人は、新品しか使わない。
 「ケガレ」の思想と結びつけるのは、いささかごじつけがましいことだろうか。
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by watari41 | 2006-02-03 09:04 | Comments(5)