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教育費

 今年も確定申告書の用紙に、税金はこんな風に有効利用されていますというデモンストレーションなのであろうか。小学生から高校生までの教育費用が記載されている。一人当たりで示されているこの数値は国民年金の額に近い。
 義務教育なのだかから国家が負担するのは当然であろうが、老人の扶養も国家の義務と考えれば、そんな負担があってもよいのではなどという気がする。財政難の時にとんでもないことだといわれそうだが、現在は国民年金の三分の一が国の負担であると聞いている。

 教育費の数字も素直に受け取れないものがある。子供が少なくなればこの数字は小さくるはずだがおそらく、そうはならないであろう。そんなことに誰もが気がついた時には、この数字は出てこなくなるのではなかろうかと思っている。都合の良い別の数字に切り替えられるのではなかろうか。

 教育費予算というのは一種の聖域化されたもののようだ。その内容に口を挟む人はあまりいない。しかし、考えてみれば人の基本的な考え方や行動様式などは、この義務教育期間から高校教育まででほとんどが決定づけられるのだと思う。
 ホリエモンと周囲の人達の出現や、青少年の犯罪とか問題行動まで、その原点は、この間の教育に由来するのではなかろうか。そこに突っ込んだ議論というものをあまり聞いたことがない。問題が出ると、本人、個人の資質に求めようとしているが、教育まで遡るべきではなかろうか。

 歳をとってからは、社会経験なども加味されてくるので、幼い頃の教育を云々できなくなるが、それでもやはり同窓会などに大きな意義を感じるのは、されだけ多大な影響を受けているといえる。

 学校が評価されるのは学力ぐらいである。社会生活の根幹に係るようなことが、どう教えられているのだろうか。ものの善悪、社会規範などがどう扱われているのだろうか。いささかジジムサイ戯言になってしまったが、確定申告用紙をみながら考えた。
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by watari41 | 2006-01-31 09:30 | Comments(2)

三権分立

 ライブドア事件で司法権力の存在を久しぶりに認識した。三権分立とはいえ司法は、立法、行政に対して存在感が薄い。しかし、時折はこうした事件で民主国家の原点が健在であることを示してくれる。

 かつて、田中元首相や金丸さんの逮捕で、司法ここにありと国民に印象づけられたことを回想する。今回の事件は、時代の寵児ともいうべき男が一夜にして容疑者となってしまった。

 それにしてもテレビの扱いにはあきれたことだ。あれほどまでに持ち上げておきながら逮捕となると、手のひらを返したような扱いとなってしまう。まるでスターの結婚をはやしたてた次には離婚をあおり視聴者をひきつけると同じ手法である。池に落ちた犬を叩いているようなものだ。護送車が拘置所へ行くところの実況中継とか独房を微にいり細にいる解説など、何もそこまでしなくてもと思う。ライブドアのマイナス面をこれでもかと暴き立てる。

 今回の事件は、かなりややこしい金融、経済事件である。それなりの専門知識もいるだろう。
検察はどこかのアドバイスを受けたのであろうか。ホリエモンを英雄視する一方でライブドア商法を苦々しく思っていた人たちは多かったのだと思う。どこかにか問題はないのか探られていたのであろう。
 感覚的には、ライブドアの70%くらいは真っ当な事業だったのだろうが、残りがグレイゾーンでそこを調べられたようだ。
 粉飾まがいの決算は多くのところでやられていることだと思う。検察はいちいち問題にもしていられないのだろうが、今回はそういう法律違反を突破口としてライブドア商法そのものを問い直そうということのようにも思える。

 行政が改革の旗手だと持ち上げ、立法府にまで送りこもうとしたのを司法がこれを阻止したという構図である。
 良く言えば、ライブドアは市場経済下では、ここまで出来るんだということを世間に示した功績はあるのだろう。しかし、従来考えられていたモラルとはあまりにもかけ離れたものであったのも事実である。
 はからずも司法が、現代社会に対して市場万能主義ともいうべきものに一考を与えるきっかけを作ってくれたと思っている。
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by watari41 | 2006-01-28 08:41 | Comments(2)

食文化差異

 米国産牛肉の輸入トラブルについては、改めて日米食文化の大きな違いをまざまざと見せつけられた思いがしている。
 牛肉を食べるのは米国人には安全論議以前のことのようが気がする。危険性などさらさらいただいてはいないのであろうと考えられる。
 長い禁輸処置だったので、日本では誰しもそれなりの意味合いを感じており、万全の対策が施されているものと信じて疑わなかった。しかし、米国では時間の経過を待っていたという感覚 しかなかったようだ。結果的に業者から検査官までそんな認識のようだった。日本はお客さんであるはずだ。米国には客先要望をかなえるなどという意識は全くなかったようだ。自分達の基準、感覚でOKだとの判断をしたのであろう。

 農務長官が契約書を確認して明らかなミスだったとお詫びの発言している。事の重大性を再確認したようだ。深刻な問題だと受け止めている。
 今となってみれば、書類を作成した当事者にも、もともとそういう概念があったのかという疑いもある。業者はミスを認めながらもこと、ここに至っても米国基準でよいのではないかと言っているのである。ニューヨークタイムズのこれを扱った記事もきわめて地味なものだったとテレビで報じられた。

 今回の事件は、U.Sスタンダードがどこにでも通用するものではないということを知らしめる大きな契機になるのではなかろうか。
 「各国固有の文化を尊重しながら」などと口ではいうものの、実際には難しいことである。こんなことが世界各地での反米感情につながっているのではないのだろうかと思う。

 日本で食べる鯨、韓国で食する犬など、米国など西欧からみれば野蛮極まりないことなのだろうが、その国の人たちには何の違和感もないことなのだが、わざわざ他国に配慮してその食を控えているのである。
 米国は、その国力のなせるワザであろうが、他国に遠慮するところがない。また自国の文化が良いものであるとも思っているようだ。

 日本人は、食に限らず繊細な感覚が特徴でもある。科学的究明は別として遺伝子操作食物にも敏感に反応してこれを拒絶している。米国人は、これをまったく問題にはしていないようだ。口の悪い極端な言い方をすれば食物は腹を満たせばということになる。

 日本での食事は味は勿論、見て楽しむ、料理に用いる器を鑑賞する、懐石料理など、食の芸術的要素も多い。食べることにかつては禅的な意味合も含まれていたようだ。勿論西欧でも食事にあたっての神への感謝などがあるが、根本的な差異が存在するように思うのである。だが、一方では今やわが国でも牛丼をかっ込む様な食べ方が存在するのも事実ではある。
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by watari41 | 2006-01-25 08:17 | Comments(4)

ハングリー精神

 大相撲初場所が面白い。栃東が頑張っている。久しぶりの日本人力士の活躍だ。
 ハングリー精神の欠如といわれながらも、外国人力士にやられっぱなしであるのは残念なことだった。

 ハングリー精神とは何だろうか。こんな話がある。
 宮城県からはまだ首相が出ていないが、岩手県は4人も輩出している。ハングリー精神の差異だと聞いたことがある。江戸時代に岩手県中央から北部を支配した南部藩は表高23万石だが、実質は10万石しかなかった。格式と面子にこだわったのだという。
 それが為、領民は重税に苦しんだ。片や伊達62万石の実質は、百万石をはるかに超えていたようだ。百姓一揆の数が如実にそれを示している。南部藩では150回、伊達藩は5回にしか過ぎなかったという。
 宮城県は比較的豊かであったが、岩手県人は逆境に耐えて向上しようとする反逆精神があったという説だ。初の平民宰相の原啓がでた由縁ともいわれるがややこじつけがましいように思う。

 あらゆる事柄にハングリー精神ということが多用され過ぎている気がする。貧乏であれば良いのかということになる。事象を解釈する手段として、便利な言葉に使われているようだ。
 事を成すには「動機づけ」が重要である。ハングリーなことは、必要条件のひとつにしかすぎない。キッカケではあろうが十分条件ではない。

 今は昔とちがって、多くのスポーツが存在する。運動神経の優れた若者が活躍できる分野は広くなった。大相撲を目指す人が少なくなり底辺の狭くなったことが、大相撲不振の大きな理由ではないのだろうか。岩手県の首相輩出も、ハングリー以外の説明があるのだろうと思う。

 栃東の父は福島県相馬市の出身でわが町からは近い。今日の千秋楽結びの一番、優勝を祈念しながらハングリー精神が、便利な言葉として安易に使われすぎていることを考えてみた。
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by watari41 | 2006-01-22 09:42 | Comments(2)

賭け事社会

 洋の東西を問わず「賭け事」に魅了され、のめりこんでしまう人は多い。賭けは人間、特に男子にとっての本能ではないのかとさえ思うことがある。

 最近読んだ本に面白いことが書いてあった。(*)歴史上、数少ない女帝の一人である「持統天皇」の夫は天武天皇だが、賭博に嵌りこんでいたらしい。次の皇位についた彼女は、「賭け事禁止令」を出したというのである。少し後の女帝「孝謙天皇」も、そんなお触れを出していたそうだ。
 「奈良の都は咲く花の匂うが如く今盛りなり」と詠われた一方で、その裏は賭博社会でもあったようだ。
 昨今のホリエモン騒動も、21世紀初頭の現代社会の側面を、歴史家はそんな風に語ることになるのだろうか。

 「賭け事」は勝つか負けるかの勝負だ。負ければ何もかもなくしてしまい借金まで背負ってしまいかねない。自殺する人もいる、親が相場に手を出して、全てをなくしたなどという話を昔はよく聞いたことを回想する。

 だが、「賭け事」すべてを悪とは決め付けないで、少しスマートにしたのが「宝くじ」であろう。夢を与えながら広く浅く、少しづつのお金を巻き上げようとしたものだ。
 競馬・競艇などの公営ギャンブルもその一種である。為政者がその胴元なのである。株式市場と同列に論ずるのはおかしいのかもしれないが、その実態は似たようなことではなかろうか。

 一方では、青少年に射幸心を煽るので教育上良くないと意識的に目をそらさせている。これはむしろ逆ではないのかとの論議を聞いたことがある。積極的に子供の頃から体験させるべきだとの論者もいる。小学校のゆとり教育でパチンコ屋の実地勉強をさせたらなどと極論をいう人もいる。大人が何故、はまり込むのかを学習させたらという意見だ。

市場と賭博と法律について、人間の性(サガ)をも含めて考えてみることがあってもよさそうだ。

(*)新潮新書「金貸しの日本史」著者:水上宏明
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by watari41 | 2006-01-19 09:27 | Comments(2)

日本語の不思議

 東北経済は「緩やかに持ち直している」。3カ月前には「持ち直しつつある」だったので、景気判断が上方修正されたのだという。わずかな表現の違いでしかない。この言葉をみるだけでは、どれほどの違いがあるのかはわからない。
 東北以外をみると「持ち直しの動き」という表現もあり、これは東北より景気が悪いことを表現しているのだという。
 さらには「回復の動き」であるとか「回復しつつある」あるなど、ワンランク上の状態での差異を示しているようだ。景気判断に何種類の表現方法があるのだろうかと思う。日銀各支店からの今四半期報告が新聞に記載されていた。この表現を見る毎に何故「数字」で表わそうとしないのだろうかといつも思う。

 天気予報は確率数字で出される。大きく外れることも稀ではない。景気判断は現状認識であるからより数字化しやすいはずだ。お天気は予報なので難しいにもかかわらずが、数値化している。
 これは、お役所の性格差なのであろう。気象庁は最もお役所らしくないところだといわれている。片や、日銀はお役所の中のお役所だというのが定説である。

 数値を示されると、見るほうには判断の余地を与えなくなることが多い。それ以上でもなく、以下でもない。数値を提供する方は、結果に対して言い訳がきかなくなってしまう。

 日銀の景気判断は、日本語の特徴を余すところなく使っているようだ。あいまいだが読む人に想像の余地を与えている。しかし、こういう表現があまり不思議にも思われず日本社会では許容されているのである。

 かつて、日本は数十年遅れで米国の後をついているといわれた。米国で起きていることは、いずれ日本でも起こることだとされ、多くのことがそのようになってきた。そんななかで「訴訟社会」も同様だろうといわれたことがある。米国にはおびただしい数の弁護士がおり、なにかにつけて裁判沙汰になるというのであった。
 しかし、日本ではそうはならず今後もなりそうにはない。その理由が「日本語のあいまいさ」にあり、それを使う日本人の気質にあるのだと思うようになった。
 「気持」ですと、お金が物事を解決してしまう芸当は日本独特のものではないのかと思っている。
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by watari41 | 2006-01-16 09:44 | Comments(2)

雑音

 「世の中の雑音に惑わされることなく・・・」、やや大時代的な表現を昔はよく聞いたことを回想する。人間界の場合には、それぞれの立場によって「雑音」の意味合いが異なってくる。

 片や、宇宙にも雑音がある。何億kmも離れた天体から、鮮明な写真が送られてきて驚くことがあるが、途中に写真信号を邪魔する宇宙の「雑音」がなければ映像を再現することはさほど難しいことではないらしいのだ。雑音信号をいかに分離するかがポイントなのだという。

 在職の頃に係った工業分野でも、「雑音対策」は重要なことだった。磁気的雑音と、電気的な雑音除去を「メシの種」にさせてもらったことがある。
  計測工業では特に重要なことであった。雑音があると、正確な測定が出来なくなるからである。

 昔はテレビを見ているときに、蛍光灯をつけたり、外を自動車が通ると、画面がちらつくことをよく経験したものである。これが電磁的な雑音である。その発生源はいろんなところにあった。
 雑音が極端な場合には精密機器が壊れてしまうようなこともあった。これら雑音を除去するために特殊な金属材料が使われたのである。当時はかなりの需要があった。

 今に例えれば、ウイルス駆除のソフトを購入せざるを得ないことと似たようなものである。
 「現代の雑音」ともいうべきウイルスは人間が悪意を持って発生させているものだ。苦々しいことである。昔の雑音は蛍光灯の安定器から出るものなど、当時の技術水準からやむをえないものが多かったのだ。

 「雑音」は、邪魔で余計なものなのだ。その対策に多くの費用を要している。
 しかし、雑音が全くないのも実は困ることなのである。外部からの脅威のない状態が長く続くと、無防備のままでよいことになってしまうからである。そうなるとそのシステムは何らかの原因で外部から侵入する異質なものに対して極端に弱くなってしまう。

 工業界に限らず、人間社会でも同様だ。意見の違うものをすべて排除してしまうとおかしなことになってしまうのだ。
 「雑音」を含めた多様なものの存在が、余計な費用がかかっているようでも実は強靭な社会を作っていることに気がつく。
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by watari41 | 2006-01-13 07:52 | Comments(8)

説明責任

 最近、「説明責任を果たせ」ということがよく言われる。そんなに昔からある表現ではない。ここ10年程度のことなのではなかろうか。
 古来、言葉で納得させるのは貴人にはなじまないとされてきたふしがある。どちらかというと日本人にはきちんとした話を不得手とする人が多い。
 要求する方は明確な説明を求めるが、あいまいにしておきたい場合もある。日本では古くから多言を弄しないことが美徳とされてきたところがある。

 先日、「能」を解説する番組を見ていてその思いを強くした。ごくわずかの動作で多くのことを語ろうとする芸能である。見る人はそれを読み取り理解しなければならない。ちょっとしたシグサで喜びも悲しみも表すのである。一言も発してはいない。
 演者の動作が物語を構成している。無表情な能面が、いかようにも見えてくる。
 「能」は、6百年前に世阿弥が作り上げた。幽玄の美を求め、日本人の人生観を形づくる思想の一でもある。。「説明責任」ということとは、対極を為すものであろう。言葉以上のものを表現しようとしている。

 「心中を察してほしい」「苦しさを理解して欲しい」など、こんな表現がまかり通るのも「能」に由来することではなかろうか。だが、21世紀のグローバルスタンダード時代に通用する話ではない。

 説明はされるのだが、かえってわけがわからなくなる時がある。日本語は説明には向いていないのではないのかと思うことさえある。「言語明瞭意味不明」などといわれた首相もいた。本人は言葉を発したことで「説明責任」を果たしたつもりかもしれないが、何も伝わってはいないのだ。海外から日本人が分かりにくいといわれる主たる理由なのだろう。

 小泉首相は、靖国参拝で「説明責任」があるといわれているが、説明してもわかってもらえないとか、あげくには心の問題だといわれてしまうと説明も意味をなさなくなってしまう。言葉にも限界があるのだ。
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by watari41 | 2006-01-10 09:03 | Comments(4)

発想の転換

 在職時に何回となく聞いたのが「現状を打破するには思いきった”発想の転換をして”・・・・」という言葉である。だが、言うは易く行なうは難しである。発想を転換するとは、現状を否定するのみならず、過去をも消し去ってしまいかねないからだ。

 外部からの圧力が、強引に「発想を転換」させてしまう場合がある。最も極端な例が終戦の時であったろう。これまでの価値観が180度転換してしまったのである。生きていくためには新たな発想をぜざるをえなくなったのだ。過去の全てが悪かったようなことになってしまった。

 平時における「発想の転換」は難しい。物事が比較的順調にいっている場合にはなおさらだ。多少状況が悪くなったからとて、まったく新たな発想にたどりつくのは困難である。

 人間誰しも追い詰められると、個人レベルでは発想も変ってくるが、大組織での「発想の転換」は極めて難しい。ダメだとわかっていながらもズルズルと破局に至ってしまうことが多いようだ。

 先日の大晦日に紅白の裏でNHKが「ゼロ戦の悲劇」という番組をやっていた。開戦当初には名機といわれた戦闘機が、後半に無残な姿をさらすことになったのは海軍という組織が発想法を変えることができなかった為であると有名な柳田邦男さんがレポーターとして解説していた。

 会社もそんなもので、最後には倒産に至ることが数多くある。「発想の転換」がやりにくい最たる例がお役所なのだと思う。
 最近「県庁の星」という新刊本に人気がある。出向先の民間会社を経験する公務員の悲喜劇が描かれていている。役所と民間では発想方法が全くことなり異質な経験をするところが面白いのだ。置かれた立場が一転しないと考え方を変えることはできない。同一組織の中にいては、「発想の転換」は難しいのである。
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by watari41 | 2006-01-07 08:04 | Comments(3)

名義貸し

 「名義貸し」という言葉にあまり良いイメージはない。資格を持っていない人が名前を借りたりするのだが、犯罪に結びついてしまうことも多い。サギだとか悪徳商法を連想してしまう。国会議員も弁護士の名義を貸して問題になった。お金になるからだ。

 「顔を借りたい」、「名前を貸してほしい」などいろんな場合がある。これらは日本人に特有なことなのだろうか。

 20年ほど前の在職時に、同僚の一人がさる高名な教授から技術解説の執筆要請を受けた。
その教授がある雑誌社から頼まれた原稿依頼を振ってきたのである。同僚の書いたものがそのまま雑誌に掲載された。もちろん執筆者はその教授名だ。読む人はそんなことを知る由もない。
 高名な先生が書いたものとして読むのである。「執筆者名」が説得力をもっているのだ。その教授は原稿料が入ったからと、半額を送ってきた。代筆者への相場なのだというがかなりの金額だった。同じ内容でも名もなき人が書いたのではそんな高額な原稿料などはありえない。有名な先生だからこその原稿料だ。そんなことが懐かしく回想される。これも一種の「名義貸し」だ。

 ゼネコンからの工事丸投げなども「名義貸し」の一つである。実際の工事業者の名前はどこにも出ない。
 「名義貸し」には当然のことながらピンハネが伴う。相手先ブランドによるOEM生産もその典型例である。中味ではなくて、表面についている名前で価値が大きくかわるのである。

 日本では個人から、会社まですべからく「名前」がものをいう世界なのだ。これに資格が絡んでくる。一度取得した資格は一生ものなのである。これを見直すべきだとの議論もあるようだ。日本文化を特徴づける「名義貸し」だが、その根源は根深いところにあるのだろうと思う。
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by watari41 | 2006-01-04 08:45 | Comments(2)