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人間と動物(後)

 人間は他の動物に比べると「身体的能力」は、はるかに劣る。
 ・獣のように鋭い牙や爪を持っていない ・鳥のように空を飛べない。 ・早く走れない。ナドナド。
 原始人類はこれらにあこがれ、克服しようと努めてきたのが人間の歴史でもあろう。

 最初は弓矢を持ったことで、他の肉食動物と同等以上の地位を得たが、やがてはこの武器で
人間同士が殺しあうようになってしまう。動物と同様に強力な武器は仲間同士の争いに使われたのである。人間の歴史は一面では戦争の歴史でもあるといわれるユエンだ。闘争本能は如何ともしがたい。大晦日の格闘技が人気なのも、こんなことなのだろうか。

 人間の知能は、やがてあこがれた動物の能力を、はるかに超えるものを次々と生み出した。空を飛ぶ、高速で走る。海に潜る。人類の夢が実現する一方で、これらは大量殺人の道具ともなった。

 食うか食われるかの戦いは動物の常である。だが、人間の「理性」はこれらを超越したのかと思われたこともあったが、そうはいかなかった。闘う本性がむき出しになることがある。その結果、多くの戦争が行われた。
 しかし、人間は反省する能力も持っている。日本人は第二次大戦を60年間反省してきたといえる。ブッシュ大統領もイラク戦争を反省した。だが、やむを得ない戦いだったとか、フセインを排除したから成功だったなどとあらぬ言い訳がついている。ご先祖様でもある、猿軍団のハンセイ猿の如くひたすら反省に徹すればよかったのだと思う。

 動物は群れをつくるが、人間は国家をつくる。この国家がややこしい話になる。戦争は国家が行う。国家の安全とか尊厳とかが武器を持つ理由になってくる。一度所有した軍事力はこれを使ってみたくなる。人間から闘争本能がなくなることは有り得ないのだろう。動物的な本性から脱却するのは難しいようだ。

 一方で、動物には人間の知らない隠れた能力が、まだまだあるようなのだ。昨年のインド洋の大津波では、象が1頭も死ななかった。人間には聞こえない低周波音で津波の襲来を察知したのではないのかといわれる。自然への順応とその脅威から身を守るすべは、まだまだ人間のかなわないところがある。
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by watari41 | 2005-12-29 09:53 | Comments(4)

人間と動物(前)

 ペットブームは異常な様相を呈している。貴重な動物のペット化は論外だが、本来は家の外で飼うべき大型犬などが、室内で家族同様に扱われている。一緒のお墓に入りたいなどという人もいるようだが、畜生と人間を一緒にしては駄目だとお寺さんから諭されるらしい。

 昔から日本人は、動物との一体感が強かったように思う。縄文人のDNAが今も多く残っているのだという。中世以降、特に農耕や運搬などの労働力を提供してくれる「馬」への愛着が大きかったようだ。「人馬一体」になってなどという言葉をよく聞く。
 田舎に行くと道端に「馬頭観音」という石碑を見かけることが多い。子供の頃に何故なんだろうと思ったことを回想する。後になって仏教には「馬頭観世音菩薩」という「仏様」があることを知った。
 昔の人たちは苦労を共にして、一緒に働いてくれた馬を人間同様にねんごろに供養したいという思いが強かったのであろう。「馬」への思い入れがこの数多く見られる石碑となって今に残っているようなのだ。
 南部の曲屋も、馬を家族の一員として扱う象徴的なものである。
 戦国時代には駿馬は貴重なものだったようだ。武将の働きはそれで決まるともいわれた。歴史上有名な山内一豊の妻が来年の大河ドラマになる。馬は人間のパートナーであったのだ。路傍に立っている馬頭観音の薄い石碑を見るたびにそんな思いがする。
 現代人は「馬券」にしか縁がなくなってしまったが、それを扱っている厩舎の方々の馬への思いは特別だ。

 犬、猫、馬など人間の気持ちをわかってくれるかのような動物の行動に我々は、おもわず心を癒されることがある。小鳥や熱帯魚などの小動物にそれを求める人もいる。

 動物を間近に、しかもその生態を詳細に観察できるようになったことで旭川の動物園が大人気となった。動物を遠くから眺めるのではなく、人間には動物と触れ合いたいという本能があるのだろうと思う。

 我々には他の動物たちと一緒に過ごした何百万年も前の遠い先祖の記憶が残っているのだろうか。そんなに遡らなくとも6千年前といわれる北海道の貝塚には、人間も動物も一緒に葬られているのだ。
 昨今、自然との共生などといわれるが、人間が動物の一つに過ぎないことを忘れかけてしまっているようだ。
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by watari41 | 2005-12-26 07:00 | Comments(4)

塾と学校

 「学習塾」の講師に子供が殺された。塾に行かなければと誰もが思うが、そうもいかないようだ。
 学校が教育機関としての機能を全うしていれば、「学習塾」は存在理由を失うのだが、本来の役目を果たしていないから、民間の塾が活躍する場がでてくるのである。国家が膨大な教育費用をつぎこみながら、学校ではその任務を果たしているとはいえないのである。周囲もそれを当然としているところがある。学校で足りない分は塾で補えばよいとする考えが一般化している。不思議に思うことの一つである。
 それならば塾の勉強だけで十分ということもあり得るはずだ、学校はなくてもよいということになる。

 しかし、学校は学校、塾は塾なのである。入学試験には、学校に通っておりますというお墨付きが必要なのである。内申書が学校権力のよってきたるところになっているようだ。よく書いてもらおうとその成績をあげるために塾に行くということもあるのだろう。

 何年かに一度、学力の国際比較がある。その学力は学校でのみつくのではなくて塾の寄与度も多いはずだ。その点数が悪化すると、ゆとり教育がどうのこうという話になる。学校にのみ原因を求めようとするからおかしくなる。容易には計測できないが、学校と塾の対比は面白いことだと思う。

 費用対効果の点でみるならば、塾の効果は圧倒的に高いであろう。同じ教育効果を得るのにその費用は十分の一とはかからないはずだ。だが、学校や先生は聖域化されているのである。子供の教育が大切なのは論をまたないがもう少し考えてみる必要はないだろうか。

 在職の頃に、就業者の休業日数というのが発表されたことがある。あまりに休みが多くて不思議だったがこれには、先生の数字も含まれているので、平均休業日数は多くなるのだと聞いて驚いたことを回想する。
 優秀な教員が集められないからと給料も高くなっている。おかしなことだと思う。ただ、中には熱心な先生もいて、テレビなどで紹介され感心することもあるが、教育界全体としてはどうなのだろうか。「塾」と「学校」の問題は、根源までさかのぼって考えてみなくてはならないことだと思う。
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by watari41 | 2005-12-23 07:58 | Comments(4)

子供を買う

 一人っ子政策の中国が、お金を支払えば二人目以降も正式に認めることになったようだ。すなわち子供をお金で買うようなものである。
 公式出生率1.0の中国が、数十年にもわたって人口が増加し続けるのは論理にあわない。以前からそんなことがあっただろうというのは推測がつく。
 まだ在職中だった10年ほど前に、中国の工場群を見学したことがある。一つの工場に20歳前の若い女性が数千人もいて驚いた。農村地帯からやってきているらしいが、公式の登録から外れている子供達であると聞いたことがあった。お金で買える裏戸籍があるというのである。
 一人っ子以外にも相当数の人口があるということを実感したものだった。

 日本は、どうしたというのだろうか。出生率1.29の日本は、この12月から人口減少のパターンに突入したと報じられている。
 新刊本コーナーに「進化しすぎた日本人」というタイトルを見た。本を読んだわけではないが題名から察すると、おそらくは、生物の本能である「子孫を残す」ことをしないような「進化!」を遂げたということなのではなかろうかと推測している。おかしなことをいわれたものだ。
 江戸時代には人口調節に「間引き」などという悲惨なことが行われていた。殺人である。当時は米の生産量で養える人口が決められていた。現代社会は何によって人口が制限されるのだろうかと思う。

 中国のように国家が人口問題に干渉し、個人はそれをお金で解決しようとしている。社会主義市場経済のなせるわざなのだろうか。
 社会の成熟化が人口増に歯止めをかけるんだと、イギリスやフランスの例を半世紀以上も前の小学生の頃に習ったことを回想する。成熟社会になると国家が複数の子供を持つ親に奨励金を支払うようなことまでもしている。中国とは逆に国家が子供を買っているのである。
 成熟社会の次に来るものは何なのだろうか。日本はそののステージに入ってしまったのかもしれないと思っている。
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by watari41 | 2005-12-20 07:57 | Comments(4)

地域のイメージ

 今年の12月は異常に寒い。地球温暖化が叫ばれる中でどうしたことなのだろうかと思っている。
 私の住む地域は、気候温暖で宮城県あるいは東北の湘南として有名である。その最も大きな理由が、テレビの天気予報に現れる県内各町村の気温である。県の最南端に位置しているのだから当然なのかもしれないのだが、いつも最高気温が示されることが多い。

 だが、長年住んでいるものからするとそんな感じもしない。何故なのかと思っていたのだが、それは気象観測装置が非常に良い場所にあるのが原因のような気がしている。それが設置されたのはかなり昔のことなので、そんなことを意識するはずはなく、たまたま適当な空き地のあったところに設置したにすぎたのだが、後世に大きな影響を与えたのである。

 宅地の販売会社にとっては、願ってもないPR文言となっている。だが、わが町もかなり広いので、ところによっては蔵王おろしの吹きつけるところもあって、こんなはずではと思った人もいるであろう。だが、県内で最も良いところに住んでいるという気分と、他の人たちからいいところに住んでますねと言われるので、まんざでもないらしいのだ。

 反対に、今年8月16日の地震では宮城県内で唯一、震度6弱を示した町があった。震度計が地盤の弱いところに設置されていたのではなかろうかと思う。過疎化が進むその地域にとっては、地震に弱いところだと、かなりのダメージになったのではなかろうかと同情を禁じえない。

 これらは、まったく意図せざることによって地域イメージが作られてしまう例である。現地にしばらく滞在してみればわかることなのだが、現在は目や耳からの情報で事前にイメージが形づくられてしまい、現地に行ってそこを短時間見てその概念を再確認しているにしかすぎないようだ。
 朝に晩に県内各地の気温を記した天気予報が幾度となくテレビの画面に現れる。そこに小数点以下の数字差しかないのだが県内で最も高い気温を示しているのは、○○町ですとアナウンサーがわざわざ言うのである。何度もわが町の名が出てくる。
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by watari41 | 2005-12-17 09:07 | Comments(4)

口には出せない

 今年を回顧する報道が多くなってきた。警察が犯罪捜査の協力者に支払う報償費というものがある。その取り扱いをめぐる話題が賑やかだったが、うやむやのうちに決着した形となった。2005年宮城県の大きな出来事のひとつだった。

 これまでは警察の支払い実態が不明であるとして前知事の浅野さんは県警にその予算執行を止めていたが、新知事はこれをあっさりと解除してしまったのだ。
 浅野知事が目玉にしていた情報公開に係る重要な事項の一つだった。しかし、警察は頑強に公開を拒否し続けた。何故にそうまで頑なのだろうと誰しも考えた。単純に内部の飲食費に使っていたのなら謝って済むことである。こうまで拒否するのは何かがあるのだろうということは大方の予測するところだった。

 県警の言い分は、治安の秩序維持を計る為にどうしも欠かせない情報提供者に支払うお金であり、その名前を明らかにすることはできないのだというのであった。
 文字通りに受け止めれば、犯罪とか秩序を乱す多くは暴力団や右翼が占めている。それらの動向は治安の維持に重要である。それ故に、その関係者からの情報収集は大きな意味を持っている。平たい言葉でいえばヤバイ人たちとの接触である。それら協力者への費用支払いというのが一般的には妥当な解釈であると思う。

 こういうことであるとすると、警察は間違いなく公共の治安維持に使っているお金なのだが現代社会のモラルからして、そんなことは口が裂けてもいえないことなのであろう。

 何十年か前に、暴力団幹部の葬儀へたくさんの警察関係の花輪をみて不思議に思ったことを回想するが、当時はまだ半ば常識みたいなところもあって、問題ともされていなかった時代であった。犯罪を起こす側と取り締まる方は持ちつ持たれつの関係があり、今も継続しているのであろう。

 先日、NHK地方版でこれに関して、このようなことを暗に示唆するともとれる内容の番組を組んでいたが、社会通念も時代とともに変ってきている。それがトラブルの一因ともなっているようだ。
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by watari41 | 2005-12-14 08:04 | Comments(3)

一瞬のミス

 一株61万円のものを、誤って1円で売ってしまい証券会社が300億円以上もの損失を出した。間違いましたと謝ったとて、取り消しは出きないのである。これを買った人は、瞬時にして大儲けが出来た。
 何故なのか、この間の事情を理解するのにしばらく時間がかかったのは私だけではあるまい。ようやく理解したのは契約の重みである。約定してしまえばそれは契約である。何があっても実行しなければならないのだ。

 以前に10万円もするパソコンを誤って1万円で販売しますと、インターネットで売り出し大損をした会社があった。後の祭りで、これも一旦契約したものは取り消せないのである。瞬間的な判断ミスも許されないのである。
 ネット社会は、「ちょっとマッタ」ということがもはやきかないことなのだ。同じミスに関する事柄ながら、品物の取引ではわかった気がしていたのだが、お金の取引になるとなかなかピンとこないのだ。

 だが、これは「囲碁・将棋」の世界では、はるか昔からの常識なのだ。誤りは絶対に許されないのである。「マッタ」などというのは論外である。契約の概念などはなかった大昔から勝負に対する妥協を許さぬ厳しさがあったのである。
 素人のヘボ将棋ならともかく、それこそ一度打ってしまった手は、どんなポカであろうと、取り返しがつかないのは当たり前のことである。タイトル戦などでは巨額のお金がかかっており、場合によっては単純ミスで棋士が一生を失いかねない場合もある。

 同様なことが相撲の行司にもある。立行司が刀を腰にさしている。一瞬の間に起こる勝負ながら、判定ミスは許されない。間違えたら切腹をも覚悟して仕事に当たるという姿勢だ。
 相撲観戦をしながら、こんなテレビ解説を何となく聞いているのだが、証券会社のミスで改めて思い知ったことだが、現代社会はすべからくこんな一瞬のミスも許されない時代になったのである。
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by watari41 | 2005-12-11 09:27 | Comments(3)

反対を貫く

 12月8日の太平洋戦争開戦の日が来る毎に、繰り返し、聞かせられるのは、山本五十六元帥が戦争には頑強に反対しながらも、開戦を指揮しざるを得なかったという話である。

 山本元帥には今も国民的人気があり、日本人の多くはその立場に同情している。だが、冷静に考えてみると真珠湾攻撃の大成功ですべてがおかしくなってしまったのである。元帥は緒戦に大勝利を挙げて講和に持ち込むというという考えだったようだが、時の政治家はそうは考えていなかったのだ。
 山本元帥は勝手な判断をしたということになる。緒戦の大勝利で日本中が沸き立ってしまったのも想定外のことであったろう。
 そればかりか、奇襲攻撃での勝利は後々まで尾を引いて、いつの戦いかでまた勝てるのではないかとの幻想を抱かせてしまった。最後には大都市が焦土となるような空襲や、原爆投下までいってしまったのである。

 初戦から敗退していれば、あるいは早く諦めがついたのではなかろうかとも考えられるのだが、これは戦後世代の勝手な解釈であろうか。元帥が最後まで反対を貫かず開戦を指揮したのは、誤りであったと後世の史家は評価するのではなかろうかと思っている。
 当時の状況では、反対を貫くのは容易なことではなかったのだろう。元帥の心の中での葛藤はどういうものであったのだろうか。時の勢いに押されたのであろうか。天才的作戦能力を持った人の悲劇でもあろう。

 何事によらず、最後まで反対を貫くのは容易なことではない。良し悪しは別として、成田空港の中に今でも反対した農家が存在する。空港拡張の障害になっている。
 当局ではそのうちに折れるだろうと考えたらしいが、反対を貫き通している。既成事実となってしまった空港で、よくも頑張っているものだと思う。山本元帥とは比較対照にはならないものの妥協せざる日本人をみる思いがしている。
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by watari41 | 2005-12-08 21:35 | Comments(0)

謝罪文化

 日本、広くは東洋の文化では「謝罪」が重要な要素だということを折に触れて耳目する。中国、韓国では先の大戦での謝罪を執拗に要求している。これに対して日本は謝ったようなそうでないような曖昧さが残っている。

 我々は日常会話で、相手からの行為に対して感謝の言葉を「スミマセン」と表現してしまうことが多い。「ありがとう」というべきところを「すみません」と言ってしまう。謝っているのではないのだが、こんな表現を無意識に使っている。

 先に謝ってしまうと人間関係がスムースにいくことが多い。だが、外人に「アイアムソーリー」という言葉をむやみに発してはならないのだと教えられたことがある。こちらから謝ってしまうと責任問題があるらしい。交通事故でも最初に「すみません」を言ってはならないそうだ。
 古来からの謝罪文化も、法律や金銭が絡むとややこしくなる。人情としての話にとどまるようだ。

 面白い話を聞いたことがある。大正末年生まれの中央官庁勤務の方が、会津の地方事務所長を命じられたそうである。昭和40年台のことだったという。その人は困ったらしい。というのは山口県出身だったからである。昔風にいえば「長州人」である。会津では幕末の戊辰戦争の恨みがあると聞いていたからだ。当然その人の経歴なども紹介されているはずだ。
 中央の役人が赴任してくると地元名士が揃っての歓迎会が行われるのだという 。この人の場合も金屏風を背に上座の席が用意されていたらしいが、下座から入るなり、いきなり額を畳に押し付けてこう述べたと言う。先祖が大変なご迷惑かけましたと深々と「謝罪」をしたというのである。その一言がきっかけで宴席はなごやかなものになり過去のことは水に流そうということになったのだという。
 百年以上も前の曽祖父時代のことながら、勝利者としての薩長人の悪逆非道ぶりが語りつがれており、「謝罪」を要求するような雰囲気が残っていたということだ。
 日本人同士でもこうであるから、国家間のことになるとさらにやっかいなことではないのかと思う。
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by watari41 | 2005-12-06 08:06 | Comments(6)

社会の宝

 かつて、老人は「社会の宝」であるといわれたものである。長い人生の知恵があると大事にされた。「生き字引」であると尊敬を受けていたものである。単なる敬老精神以上のものがあった。地方に行くほどにその傾向が強いものだった。
 昔からのしきたり、地域の困りごとなどは長老に相談するものであった。何よりも老人が少なかったことがある。生き延びるのが難しい時代を過ごしてきた人たちである。

 だが、今や誰もが長生きする時代となった。百寿の方も珍しい存在ではなくなってしまったのだ。高齢者は役割を終えた人であり、はなはだしきは厄介者扱いにされかねない時代になってしまった。生活習慣がすっかり変わってしまったので、昔の知恵もほとんど必要がなくなってしまったのである。加えて老人の特典も、医療費や税金など、どんどん失われていくようだ。
 「宝」ではなくなってしまったのである。

 最近は、子供が「社会の宝」になっている。この地域で、何年か前に老人会の人員が子供会を上回ってしまったと話題になった。その差はどんどん広がっている。昔は子供が多かったこともあって、仕事の邪魔だからあっちへ行っていろなどと、大人たちから気にも止められてはいなかった。勝手に遊んでいろというような時代を回想してしまう。

 少子化の影響で、子供を宝物化する雰囲気は益々大きくなっているようだ。これまた田舎へ行くほどにその傾向が強い。何も悪いことではないのだが、いささか度が過ぎるような感じも受けている。
 生徒数が減少して、いくらも子供のいなくなった小学校が老朽化したからと立派な体育館やプールなどを新規に建設している。こういう予算などは聖域化しているのであろう。これらを見るにつけ、表立ってのクレームをいうわけにはいかないが、考えさせられることである。少子高齢化の一側面をみる思いがしている。
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by watari41 | 2005-12-03 07:27 | Comments(3)