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一年の重み

 「やっと一年が過ぎた」。いや「早いものでもう一年が過ぎてしまった」。
 人によって様々な思いがある。歳をとると概して、一年は短く感じられというが、個人差が大きいようだ。時間感覚とはどんなことなのか一考してみたい。

 一年は非常に長い時間である。いろんなことができるはずだ。
 だが、これを有効利用している人はそう多くはない。過ぎてしまった時間を思い。何も為さなかったことを考えると、如何にもあっという間に過ぎ去ってしまったと思うのも実感であろう。

 一年間で着実に何かを為しえた人もいる。そういう人は充実した年だったということになる。信じ難いような成果を得た人もいるはずだ。

 だが、歳をとると新たな経験もなくなり、えてしてやることがなくなってしまう。一年を無為に過ごしてしまう方々も多いはずだ。時は容赦なく流れていく。
 「少年老い易く、学成り難し」。千年も前の朱子の言葉だ。当時は人生50年にも満たない時代のことである。一年の重みは大きかったはずだ。

 ドッグイヤー並に、一年で7年分もの仕事をしているかのような、IT時代の寵児といわれる方々もいる。その業界のスピードが、一般社会の時間よりはるかに早く動いているのである。

 今年も師走を迎える。また一年が終わってしまうのだ。何があったのだろうかと考えてしまう。私にはかろうじて昨年から始まったブログが残ったような気がしている。こんな程度の内容でも、我々凡人には継続するのがなかなか難しい。
 読んでいただける人がいて、コメントをもらえるから続くのだと思っている。いつかは途切れるはずだ。その時まで出来るだけ一年を長く感じていたいものである。

 少年の頃には無限の時間があったように感じていたものだ。一年でいろんなことを学び経験できた。だが、もはや有限の時間を意識すようになってしまった。一年を貴重なものと捉えなければならない。
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by watari41 | 2005-11-30 08:08 | Comments(4)

単純化

 簡単な事柄をやたら面倒な話にしてしまう人がいる。物事の核心が見失われ、わけがわからなくなってしまうことがある。誤魔化したいことがある時に、こんなテクニックで複雑化するようなことがよくある。

 反対にどんなややこしい事柄でも、突き詰めると単純なことに収斂していくものだと、核心をついた分かりやすい話をする人は喜ばれる。

 だが、単純化を逆手にとったゴマカシも存在する。先の選挙での小泉首相も失礼ながら意識していたのか、いないのかはわからないが、そのたぐいのものだった。郵政に単純化したために周りのものが見えなくなってしまった。すべての事柄は郵政に収斂するとした。これに皆が喝采をしたのである。増税とか、憲法とかいろんなものが見えなくなってしまっていた。

 もともと複雑な事柄というのは、そんなにはないのかもしれないと思っている。鋭い洞察力を持った人は、一見して複雑に絡み合ってみえるものも本質を見抜いてしまう。

 やたら回りくどい話をする人がいると結論を先に言えとせかされる。「そんな単純なことではないよ」などと言い訳する。自ら複雑にしている場合もなきにしもあらずだ。

 「イエスかノーか」どちらなのだと迫られることがある。究極の単純化した話であろう。どちらともいえないと回答することがある。結論を先延ばしにしたいこともあるのだ。含みをもたせておきたいこともある。いろんな事情のあることが多い。普通の人間はこんなところが相場だ。日本語の特徴である曖昧さも、こんな人情から出来上がってきたのではなかろうかと思うことがある。
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by watari41 | 2005-11-27 08:02 | Comments(6)

マラソン

 「単なるランナーの域を超えた」先日の東京国際女子マラソンを見ての思いである。屈辱をバネにして高橋尚子選手は、厳しい鍛錬で新たな境地を拓いたようだ。
 一流スポーツ選手は、我々凡人に大きな感動を与えてくれる。アベベの走りもそうだった。哲学的ともいわれたその風貌は強く印象に残っている。日本人はどういうわけかマラソンに強く引かれるところがある。駅伝もそうだ。黙々と走っているだけなのだが、我々は何時間もその姿をテレビの前でじっと見てしまう。
 日本人の人生観に通じるところがあるからなのだろう。山あり谷あり、さながら徳川家康の「人の一生は重き荷を背負うて行くが如し」に代表される人生観に共感するのである。

 前回オリンピックでの女子マラソンの代表選考は、不明朗ですっきりしないものだった。選考結果に憤慨し、高橋選手を気の毒に思い同情し、モヤモヤした気分が残っていた。今回の結果はそんな俗人の感傷を吹き飛ばすものであった。
 42.195kmというのは人間の運動能力の限界を試される微妙な距離のようだ。途中で何度も止めたくなる危機が訪れるという。それを乗り越えるのは精神力である。個人競技ではあるが、サポートする人たちとのチーム力が問われるのである。

 天与の才能を持った人が、良い指導者に恵まれ、極限の修練をして与えられる栄誉である。
 こんな逸話を聞いたことがある。小出義雄監督がまだ有名でないころに姓名判断をする人から、あなたは稀に見る良い名前だ、大きな事を成すだろうと言われたそうだ。本人はあまり気にも留めなかったらしい。だが、そのうちに有森裕子選手で監督が一躍有名になった。
 指導を乞いに現れた高橋尚子選手の並々ならぬ素質を見出し、試みにとくだんの姓名判断をしてもらったところ、これまたすごい吉兆の名前だと言われその指導に一層の力が入ったということだった。
 非科学的なことだが、人智の計り知れないところで、人間が動かされているところもあるのではないかと思ってしまう。
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by watari41 | 2005-11-24 19:53 | Comments(5)

検査機関

 何事を為すにも事前チェックが必要だ。自己点検だけでは不十分で、第三者による検査が規定されている。しかし現代日本ではほとんど機能していないことが次々に暴露されている。信じ難いことに耐震強度不足の建築物が明るみにでた。設計審査がめくらで検査機関がこれを素通りさせていたのである。

 少し前には会計監査の問題があった。企業会計の検査であるが、全く機能しないばかりか、監査機関が主導して不正を働くようになったのである。
 原子力発電所が問題になった時には、原子力保安院というこれまたその検査機関が何の役目も果たしていなかった。いろんなところに監査・検査という役目のところがあるが、大方はこんな抜けぬけのものなのだろうと思ってしまう出来事が続いている。

 製造会社に勤務していた頃を回想すると、検査部門は不良品が市場に流出するのを防ぐ役割りがあった。しかし、不良品が見逃されるケースが度々あり、品質は製造工程で作りこまれなければならないなどといわれたものである。そうはいっても、最終的なチェックは検査部門の責任であった。
 設計上の品質、製造上の品質などいろいろとチェックしても抜けるところは出てくるものだ。厳しい検査をしても通り抜けて市場に出る不良品があり、完全ということはあり得ないのだ。はじめから悪いものを作ろうなどいうのは論外のことである。

 今回の耐震設計では、最初からゴマカスという意図があった。以前に問題となった会計監査もゴマカシだった。
 ゴマカシがまかり通るようになるのは、社会崩壊の前兆現象であるともいわれる。国家の崩壊はそんなきっかけが積み重なって起こるのだという恐ろしい話を読んだことがある。三菱自動車もゴマカシがゴマカシを生んで企業崩壊の瀬戸際まで行ってしまった。

 現在の状況は、日本社会が健全性を保ちうるかどうかの崖っぷちに立っているような気がする。関係各位に、そういう認識はあるのだろうかと思う。
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by watari41 | 2005-11-22 07:58 | Comments(3)

皇嗣問題

 日本人が皇室に抱く感情には特別なものがある。ロイヤルコンプレックスとでもいうべきものであろう。 その理由をうまくは説明できない。男子だけだと思われていた天皇に女子がなることに違和感を持つ人もいるようだ。

 憲法にある「象徴」という表現は実にいいものだと思っている。誰が天皇になろうとかまわないと思っている一人でもあるが、戦前の感覚を引きずっている方々もまだ相当にいるようだ。

 時代ごとに、天皇は時の権力者に利用されてきた側面もある。自らの権威を増すために天皇を利用してきたのである。勲章をもらうのも天皇からもらうとその意味合いが格段に増してくる。
 日本人の特質として奉るとか、祭り上げるものがないと落ち着かないところがあるのだ。強大な権力を持っていた幕府にしてもそんなことだ。征夷大将軍という位も朝廷から任命される形式をとっている。

 現在は権威というか象徴としての天皇家なので、血筋にはそんなにこだわることもないように思うのだ。だが、権力者の場合には血筋に大いにこだわっていた。江戸時代、大奥には年間200億円もの経費がかかっていたので8代将軍吉宗はこれを縮小して。御三卿という新制度をつくり、将軍のスペアを確保しようと務めた。

 21世紀の今日、天皇家というか皇族をもっとフランクに考えてはどうなのかと思う。だが、現状は逆に権威付けを高める方向にいっているようだ。警備の物々しさは、かつてよりも厳しく皇宮警察など大変な経費を要しているようだ。

 昔ならそんな考えは不敬だということになってしまうのだろう。私らの世代は子供の頃トイレットペーパーに新聞紙を使ったものだが、天皇の写真のあるところは使わないようにと祖父母から注意されたものである。

 そんなことを回想しながら、昨今の皇嗣問題や、清子さんの結婚を眺めているが、時代が大きく変わってきているなかでメディアは少し騒ぎ過ぎのような気がしてならない。
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by watari41 | 2005-11-19 07:00 | Comments(5)

西洋庭園・日本庭園

 このところガーディニングが盛んである。美しい花々に彩られた庭は美しい。日本に同化したかの感もあるが、本来の西洋庭園はシンメトリックなものである。西洋建築とマッチした幾何学模様に特徴がある。初めて目にしたのはもう何十年も前のことだ。
 日本庭園を見慣れたものにとっては新鮮なものだった。古刹の名園が頭に焼き付いているのでこんな庭もあるのかと思ったものだった。

 新宿御苑の広大な敷地に、西洋庭園と日本庭園のコーナーがある。東京の高層ビル群を背景に美しい眺めである。幾何学模様の庭園と、松や樹木のバランスを重視する日本庭園との対比で面白い。明治以降の作庭なので文明開化の象徴として西洋庭園もモデルに取り入れたのであろう。

 日本と西欧の大きな違いはこの庭園様式にあると思うようになった。
 同じ左右対称でも宇治の平等院の建物に西洋庭園では似合わない。庭園は建物との関係でもあるようだ。

 西洋庭園は単純明快な美を求めているといえる。庭園にそれ以上のものを求めてはいない。これに対して日本庭園は幽玄さであるとか、広大な自然を表現したいとかの作庭条件があったようだ。借景庭園だとか、枯山水とか、庭に芸術を求めている。
 その極地は、京都竜安寺の石庭であろう。石と白砂だけの庭に哲学的思想まで込められているのではないのかと見る人を考え込ませてしまう。

 名園といわれるものには、自然や宇宙との一体感を得たいという願望が表現されている。その行き着いた先が、石庭だと思ったものである。現代風にいうならシュールレアリズムである。
 絵画では具象画に飽き足らなくなった西欧の芸術家が辿りついた世界に、日本庭園では5百年も昔の庭師がその境地に達していたようだ。
 明快な美しさと、深遠なる美とでもいうべものなのだろうか。竜安寺石庭を見ながらそんなことを考えていた若い日を回想している。
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by watari41 | 2005-11-16 08:55 | Comments(7)

新聞さまざま

 あるお宅に伺った時のことである。食卓テーブルの上で新聞の「折込広告」を広げて母娘が熱心にスーパー商品などの品定めをしていた。新聞は脇に置かれてある。父親が読むもののようだ。
 新聞をとっている目的は折込広告にあり、それがなければ意味がないというのだ。中央紙では折込は少ないので、地方紙でなければならないのだということだった。新鮮な驚きを感じたことがある。
 週末にはドッシリと重いそれらの広告に、ほとんど目を通すことがなかったからである。

 折込広告には熱心な「読者」がいるので商店などにも出す意味があるようだ。新聞宅配業者にとっては、それらは大きな収益源だという話を聞いたことがある。

 宅配されている新聞は、いずれなくなるだろうといわれている。ネットで新聞を読む時代も遠くはないようだ。
 かつては、ひいきのチームや力士が勝つと、ラジオやテレビの他に翌日の「紙」でそれらを確かめたかったものである。
 活字ではじめて脳裏に刻み込まれるのだ。新聞にたいして郷愁を持つ我々世代も次第に少数派となりつつあるようだ。

 速報性では、テレビやネットにかなわない。地域ニュースも数日遅れで記載されることが多い。何に目がいくかというと連載小説や、政界などの裏話を読んでいるのである。なかば惰性のようなところがある。

 東京に赴任していた頃、地元のことも知っておかなければと、まとめて1カ月分の新聞を送ってもらったことがある。数日前のことはともかく、あまり遅れたことは興味もそそられないので止めてしまったことがあった。

 時代と共に、新聞に求められることは違ってくるのだろうが、記録に留めるという役割は残ると思う。
 百年前のこと、五十年前のことが、映像での記録、写真での記録と共に活字としての役割がどういうものになるのか、私は文字を主にしたブログなので興味をもっていることである。
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by watari41 | 2005-11-13 08:18 | Comments(5)

酸素のパワー

 長年、疑問に思っていたことがある時ふと氷解することがある。そんな出来事が先日あった。文化の日の夕刻にNHKテレビをみていた時である。地球の歴史に関する科学番組だった。恐竜の話がでていたのである。
 かなり以前のことになるが、あの巨体を動かすには、地球の酸素濃度が今の倍くらいはないといけないのだということを聞いたことがあったからである。だが、恐竜時代の酸素は今よりもずっと少なかった。なぜ恐竜が活動できたのかは謎なのだ、というような話がずと私の頭に残っていて長い間、疑問に思っていたのである。

 その回答が番組で解説されていた。それによると恐竜の肺は特殊な構造になっており、空気の吸い口と吐き出し口が別々についているのだという。そのため恐竜の肺はいつも新鮮な空気、すなわち酸素で満たされていたということだった。

 人間や哺乳類は、吸気と排気を同じ気管を使っているので、運動能力が低いのだという。恐竜が進化したといわれる「鳥」が、何故空中を飛ぶことができるかの答もこれにあるのだという。肺の構造が恐竜と同じなので翼を動かす筋肉能力が、この酸素の供給によってなされているというのだ。
 筋肉の働きは酸素の供給量によって決まるのだという。人間に翼を取り付けてもそれを動かす筋肉能力は出ないということだ。何となく新しいことが一つわかったような気がしたものである。
 スポーツ選手の記録も、如何に酸素を多く取り込めるかにあるようだ。近代的なトレーニングもこんなことを念頭になされているのだということだった。
 ヒマラヤ登山など空気の薄いところでの活動に酸素ボンベを背負っていくことを考えれば当たり前の話でもあるのだが、意外に気がつかないことだった。
 
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by watari41 | 2005-11-10 08:33 | Comments(2)

シンプルライフ

 高齢者には、物を捨てられずに困っている人が多い。何も無い時代から、物で溢れかえる世の中になった。この間、わずか半世紀の時間でしかない。我々年代も、「もったいない」という概念が強い世代の一人である。
 ご丁寧に物の捨て方を指南する本まで現れた。何も無い時には、物への憧れが強く何でも欲しがった。だが物が溜まりすぎるのも困ったことなのだ。物に囲まれて寝床を確保するのがやっとというような喜劇も紹介されたことがある。

 人間の歴史では、物の無かった時代が圧倒的に長い。物がありすぎると無い時代への郷愁がでてくる。もともと、何物にもこだわらない生活というのが日本人にとってあこがれとしたようなことがあった。
 貧しいということではなくて、物に執着しない「シンプルライフ」が、一つの理想だと考えられていたのである。
 方丈記を書いた鴨長明は、一丈四方の庵に住んでいたという。方丈とはそういう意味だ。四畳半の広さでしかない。良寛和尚とか、現代に伝えられる清貧な人とは皆なそんなところに暮らしていたようだ。

 生きていくうえで最低限必要なものは何だろうかと考えることがある。衣・食・住、望めばキリがないがそんなに多くのものは必要としない。しかし、日本中が「シンプルライフ」となってしまっては経済活動が滞ってしまうだろうから、痛し痒しのところがある。
 ひところ、浪費は美徳のような風潮があったが、明らかに行き過ぎである。年金生活者となって出来るだけ「シンプルライフ」を心がけているのだが、多少は誘惑に負けることがあるのも仕方のないことかと思っている。
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by watari41 | 2005-11-07 07:47 | Comments(8)

無防備社会

 日本は「無防備社会」だといわれる。個人はもちろん、家の防御も玄関やドアの鍵が全てである。その前提として日本は安全な社会だということがある。誰もが銃や凶器となる刃物などを持ってはならないという法律もある。
 数十年前までは、夜もカギをかけることはなかった。盗られるものが何もなかったのも事実ではあるが。

 「無防備社会」の原点は、豊臣秀吉の「刀狩り」に端を発しているのだと思う。秀吉の思惑は、歴史家からいろいろ取りざたされているが、結果的に現代に至る安定社会をもたらしたと思う。
 国内では個人に無防備を強いながら、朝鮮には武力侵攻した。ずっと後の第二次世界大戦での日本の行動も似たようなものだった。強大な武力で相手国民を塗炭の苦しみに陥れた。今も歴史認識が甘いといわれる所以である。

 戦後に非武装中立論が大きく幅をきかせたのも、こんな過去の下地があり日本人にもあれは良くなかったという潜在的な意識があったからだと思う。

 江戸期の武士の刀も「魂」としてのウエイトが高いようだった。戦国時代はともかく実際に刀を使うことはほとんどなかったようだ。幕府も社会の秩序を守ることに相当な力を注いでいた。
 「無防備社会」の前提は社会の安定があってこそである。これが最近はどうもおかしい。貧しくとも平穏な社会というものがあるのだろうと思う。豊かさと平穏が両立しないのは悲しいことだ。
 警備会社が大繁盛する所以でもある。行過ぎた市場経済のためであるとする説もあるようだ。一般家庭にもセキュリティーに関心を持つ人も多くなってきたのは良い傾向とは思えない。

 このところ騒がしくなってきた憲法の武力放棄を見直そうという動きも、こんな社会的変化と無関係ではないだろうと思う。さらに驚いたのは大都市などのミサイル防衛構想である。戦後60年、何ともチグハグなことだと思う。
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by watari41 | 2005-11-04 07:26 | Comments(7)