<   2005年 09月 ( 15 )   > この月の画像一覧

空海と最澄

 日本仏教界の創始者ともいうべき「空海と最澄」は、いろんな意味で対比される。8世紀は奈良時代の人である。
 同じ遣唐使船団で留学し、それぞれに仏教を修めながらその行動様式は全く異なる。空海は真言密教を極めようとしたのに対して、最澄は広く浅く仏教を捉えようとした。比叡山を仏教の総合教育機関としたのである。その弟子に連なる人たちは、後に日蓮宗・曹洞宗・浄土宗などを拓き、現在では日本のお寺の大半を占めるに至るのである。

 空海は、このやり方をとらなかった。高野山に篭もったのである。そのままなら、あるいは忘れ去られてしまったかもしれないのだ。
 だが、空海が没して300年後に「興教大師」という方が、偉大な仏教者がいたのだという再評価をしたのである。これが契機となって全国に広まったのだ。
 私も真言宗の末寺の檀家なので、空海すなわち弘法大師の偉さを繰り返し聞かせられてきたものである。

 このお話とは関連はないのだが、昭和の囲碁界に「呉清源九段と木谷実九段」という巨星がいた。若い頃のお二人は有名な十番勝負などで新しい打ち方を試み、囲碁の革新をもたらした。だが、その後の生き方は全く異なった。
 木谷さんは、たくさんの弟子を教育し、現在のトップクラスにある方々の殆どは木谷門下なのである。現在の囲碁界の隆盛の恩人ともいわれている。
 それに対して呉さんは、孤高に徹して囲碁の奥義を極めようとしたかのようなのだ。10年ほど前に高齢の呉さんは、21世紀の打ち方というテレビ番組に出演し自ら編み出したものを解説していた。老齢になってなお探究心を失わず関係者は驚嘆したものである。
 お二人は、囲碁界の「空海と最澄」だと言われたものである。
[PR]
by watari41 | 2005-09-29 18:56 | Comments(0)

成功と失敗

 若い人には「失敗体験が必要だ」いや「成功体験こそが自信をつけさせる」。いろんな議論がある。どちらの言うことにも一理はあるようだ。

 私のつたない経験からは、失敗こそが成功の母だという昔からの格言が当たっているような気がしている。在職の頃は、それこそ数え切れないほどの失敗をやったものだ。こうやると駄目なのだといことを身をももって知ることになる。

 成功の積み重ねが逆に大失敗を招くこともある。国家的なレベルでは、日清・日露戦争での大勝利が、第二次大戦での破滅的な敗戦につながったのだといわれている。大艦巨砲主義という時代錯誤だった戦略も、日本海々戦の大勝利がなければ、採用していなかったと思われるのだ。
 有名な会社でもある商品で大成功すると、それにこだわってしまい、次の商品戦略に失敗することは、よく耳にすることである。

 成功談は、得々として語られるが、失敗は出来るなら隠してしまいたいという心理がはたらいてしまう。だが、失敗からは多くのものが見えてくる場合が多いのである。
 ある会社が失敗事例集を集め始め話題になったことがあった。失敗の中には多くの教訓が含まれているのである。わかってはいるのだが、こんなことをやるのは、なかなか勇気のいることだ。

 在職時代に付き合いのあった他社の方が面白いことを言っていた。「数千万円の失敗をすると左遷されてしまうが、数十億円もの大失敗をすると社長になる可能性がある」というのだ。失敗の中味にもよるだろうが、大失敗をしても、考え方が正しくてそれを実行する力もあったが、時の運に恵まれなかったという場合なのであろう。

 だが、一般には成功を積み重ねた人が栄光への道を歩むのである。まだまだ、敗者復活は難しいのが現実である。
[PR]
by watari41 | 2005-09-28 07:48 | Comments(5)

人間の根気

 あるか、なしかのものを求めて百年間も海を見つめ続けたという驚嘆すべき話がある。
 江戸時代の鎖国中のことだ。外国船に対して異常に神経質になっていたのである。17世紀半ばに全国の海岸に異国船監視所が設けられた。幕府の命令で仙台藩でも海岸沿いに5箇所の監視所を設けている
 そのうちの一つが、わが町からも近い宮城県と福島県境にある。海を見下ろす小高い岡に史跡として残っている。監視業務には、40名がチームをつくり、交代で当たっていたのだという。
 ”来る日も来る日も”沖合い遙かを眺めていたようだ。三代将軍家光の時代に始まったこの監視業務は始めてからおよそ百年の間、1隻の異国船も見なかったのだという。
 ようやく、18世紀も半ば近くになって、後にベーリング海峡を発見することになる、その名の船長の船が通りかかるのを見つけたのだ。もちろん仙台へ向けて早馬が走ったのであろう。

 上記のこととは何の関連もないのだが、似たようなことの現代版だと思ったのが米国の「オズマ計画」である。
 宇宙のどこかに人間と同じような知的生物がいるのではないか。そこから電波のメッセージが出されているかもしれないと電波望遠鏡でその信号を捉えようという試みがなされたのは、もう半世紀も前のことだ。「オズの魔法使い」から連想した宇宙探査計画の名称である。
 どこかにいるかもしれない未知の高等生物に興味と期待を膨らませたことがあった。
 ”来る日も来る日も”宇宙を睨み、いつまで続くかもわからない果てしない計画だと思ったものである。だが財政難で中断してしまった。百年くらい続けていれば何かが出てきたのかもしれないと思う。だが現代では、こんな長期間は無理なのだろう。

 何の脈絡もない二つの話だが、史跡公園に立って海を眺めていると、人間の根気について想い起こさせる。
[PR]
by watari41 | 2005-09-26 07:20 | Comments(2)

全体最適と部分最適

 あちらを立てれば、こちらが立たずというようなことがよくある。中央と地方の関係もそんなことだ。最近地方への分権が叫ばれている。中央官庁は日本全体のことを考えてやっているのだというが、地方の不満は多い。だが地方分権が進めば国としては統制上の問題があるというのだ。

 「全体最適と部分最適」は、現職の頃に品質管理などで議論したことがあった。記憶に残る言葉の一つでもある。ある規模の会社になると全体のバランスが必要になってくる。

 総論賛成、各論反対などもこれに類したことであろう。ゴミ処理場の設置は誰しも必要なことだと思っている。だが自分の近くに出来るとなると反対する。

 大きくは、人類全体についてもそんなことがありそうだ。自国の利益だけを追究すると結局は世界を壊してしまうことになる。地球環境問題がその好例だ。二酸化炭素排出を自分の所だけは減したくないという国がある。「部分最適」の積み重ねは全体最適にあらずということだ。

 人間の体もそのようなことがいえる。どこかの内臓が悪くなって、そこを下手に治療すると体全体のバランスを崩してしまうことがある。病気は治ったが本人は死んでしまったなどは、その極端な例だ。

 調和の裏返しとして「全体最適と部分最適」があるのかも知れない。この延長線上には、「現在最適と将来最適」の問題も隠されているようだ。今をよかれのことが将来への禍根を残すことは誰しもわかってはいるが止められていないことが多い。時空を超えた調和を考える必要があるのだろうと思う。
[PR]
by watari41 | 2005-09-24 16:50 | Comments(2)

旅の余韻(2)

a0021554_19103498.jpg 北海道伊達市への訪問で入手した資料類を整理し眺めていた。その中に「北の湘南誕生」という本があった。(定価1300円)著者は「早坂義征」さんという方である。伊達市に生まれ、現在は長野県にお住まいの方だ。発行所は伊達郷土研究会(伊達市長和町707)である。(写真)

 明治初期の、わが町(宮城県亘理町)から北海道伊達市への移住、そして開拓者の方々のご苦労のことが克明に記された小説である。

 これまで、戊辰戦争での仙台藩の亘理要害での降伏のことや、わが町から多くの人々が移住して開拓に成功したことなどは、一つの物語にして余りあることだと思っていたが、そのような書籍が存在しなかった。

 今回、この本を入手して感激した。多少のフィクションをおりまぜてはいるものの、それらがよりいっそう物語を盛り上げ、読みやすくしている。著者の筆力もあり、面白い小説となったものだ。我々郷土の者にとっては、なくてはならない一冊となるものであろう。今年の6月に発刊されたばかりである。

 さらに著者の経歴をみていてあるいはと思い、私の高校時の同級生に問い合わせてみたら近しい方だとわかり、より一層、身近に感じられたものである。奇縁だと思った。

 伊達市など北海道への訪問記は、これにて締めたいと思うが、最後にわが町の知人より聞いたことを一つ載せておきたいと思う。
 昭和25年頃、その知人が仙台の高校に通っていた時に、東北・北海道野球大会があって札幌まで行き試合をしたそうである。その時、大会関係者の一人が近づいてきて、亘理の人ではないのかと、非常に懐かしそうな顔をして話しかけられたのが印象に残っていると言っていた。
 その知人は、亘理に特有の苗字の一つだったからである。その北海道の野球関係者は開拓移住した人の子か孫になるのだろうが、父祖の望郷の念が如何に強いものであったかが印象に残るといっていた。
[PR]
by watari41 | 2005-09-18 19:18 | Comments(4)

旅の余韻(1)

 a0021554_805375.jpg 
 今回の北海道旅行は、わが町郷土史研究会一行の研修旅行ではあったが、費用は全額個人負担なので、残された時間は観光をした。函館の街を巡った。

 江戸時代後期の大商人、高田屋嘉兵衛の巨大な像があった。近代函館の創始者ともいうべき人だ。この方の特筆すべきは、偶然なことから、ロシアと幕府の間に立って命がけで当時の重大な外交問題になっていた、ゴローニン事件の解決に尽力しあわやの日露戦争を回避したことである。すごい胆力を持った人でもあったようだ。

 こんな歴史をみると、現在の行き詰ってしまった、北朝鮮との拉致問題も外務省ではなく、民間人に任せてしまったほうが早く解決するのではなかろかと考えてしまったりする。

 函館名所の一つでもあるトラピチヌス修道院も見学した。ここは観光地ではありませんといいながらもたくさんの観光バスが次々とやってくる。異国情緒ただよう雰囲気や修道女の生活に興味を引かれるからである。
 私は中学校に入ったばかりの頃だった。T先生という若くて美しい音楽の受け持ちがいた。あこがれでもあったが一学期の終わりに、先生は遺伝上の問題で結婚できないこともあり、函館の修道院に入ると退職されたのである。現在も存命であるとすると80歳くらいだ。どうしているのだろうかとも思うが、中でのことは全くうかがい知ることはできない。(写真)
 自ら終身刑を課したようだといったら言い過ぎであろうか。現代の娑婆の空気を吸っているものからみるとそんな気がしてならない。

 もう一つの観光の目玉は五稜郭とそれにまつわる物語である。土方歳三の像もあった。幕府に準じたといえば格好はよいが、最後は悲惨なものだった。その死を函館は貴重な観光資源としているのだ。北の国まで来て戦った新撰組の土方副長はさぞかし苦笑していることであろう。
[PR]
by watari41 | 2005-09-17 08:09 | Comments(2)

過去から未来へ(7)

  a0021554_19264486.jpg
 北海道伊達市への滞在は、わずか24時間程度しかなかったが、わが町から移住した人たちが拓いた町の発展、そして今後への取り組みには瞠目すべきことが数多くあった。(右の写真はパンフレットからの抜粋である。奥に洞爺湖と羊蹄山が見え、そして太平洋へと続く噴火湾に面した街である。)

 市内見学で驚いたのは、「大雄寺」というお寺である。我が町にも同名のお寺がある。代々の殿様の菩提所でもある。伊達市のお寺はその末寺とういことになるのだが、それは比較にならないほどに大きく、斬新な試みを企てているのだ。
 東京の寺では、すでに実施されているようだが、お寺のなかに檀家の納骨堂を設けている。土地の広い北海道なので墓地はいくらでもつくれそうだが、寒さと雪の対策のようだ。小子化で無縁仏になるのも多くなる世の中なのでその先駆けをなすものであろう。

 明治の初期に、わが町の知識階級でもあった旧武士の方々は、そのほとんどが移住したので、わが町の頭脳は空っぽになってしまったのだと聞いたことがある。
 移住した方の中には優れた歌人もいたようだ。伊達市内の町名は和歌よりとられたものだという。それぞれの町にその碑がある。

 「武」においても、小さな城下町に過ぎなかった亘理だが見るべきものがあったようだ。私は若い頃に剣道をやっていたときに、その関連雑誌に「天流」という優れた武術が亘理伊達藩にあったことを知った。
 腕の立つ武芸者も多かったようだ。それらの方々も伊達市に移ったのである。天流荒川派という名称を記憶している。その他の流派の武芸も盛んだったようだ。明治以降の天覧試合などでも大いにその面目をほどこしたのだという。
 「大雄寺」の宝物館にはそれらの誇りを記念するかのような、移住の時に持ち込んだものであろう立派な甲冑などの展示に驚いたものである。百聞は一見にしかずと改めて思ったものだ。

 過去から未来への挑戦をしている伊達市に幸いあれと思う。
[PR]
by watari41 | 2005-09-14 19:42 | Comments(2)

過去から未来へ(6)

a0021554_20192057.jpg 縄文人も、自分の竪穴住居からこんな美しい夕焼けを眺めたのだろうか。(写真はパンフレットからのものです)

 伊達市噴火湾研究所では、この「北小金貝塚遺跡」周辺に、現代人による縄文の森を再現しようと試みている。遺跡に新しく木を植えるなどということは、従来の文部科学省の保存方針からいったらとんでもないことであろう。
 しかし、遺跡を現代人のものとするために、中央のお役所を説得したというのである。森は少しづつ大きくなってきている。縄文時代がより身近に感じられるようになるのだと思う。

 子供の縄文体験コーナーもあった。この遺跡整備には3億円以上を要したというが、外観上はそうは見えない。内部の目につかないところにお金をかけて、より確かな保存を計っているようだ。これからの文化財保存行政のモデルになるのではなかろうか。その先進性に目を見張る思いである。

 また、遺跡全体を見渡せるところに、総ガラスばりで20人ほどが横に並んで腰掛けられるところがある。説明を受けやすく、気のきいた施設になている。当時の人々と同じ目線で、その生活を偲べるようだ。

 縄文人の末裔はアイヌ人だという。人類学的にも証明されているそうだ。熊祭りなどの行事は自然との共生をしてきた太古からの祭事であると解釈されている。
 現代人の感覚では、進歩から取り残された人々のようにも感じられるが、一万年も生きてきたのである。進歩を急ぐ我々は、弥生人の子孫なのだろうが、進歩の果てのその先は、以外に短いのかもしれないと思う。様々なことを考えさせてくれた遺跡の見学だった。
[PR]
by watari41 | 2005-09-13 20:25 | Comments(2)

過去から未来へ(5)

 
a0021554_16333061.jpg 「進歩は善である」。現代に生きる我々は率直にそう思っている。だが「進歩」を拒否した人たちがいたというのだ。縄文人たちである。

 伊達市に「北黄金山貝塚」がある。6千年前から縄文人が住んでいた遺跡だ。湧き水が出ている小さな祭祀場跡と思われるところに千点を超える石器が捨てられていた。いずれも壊れているが、使えるものをわざと壊して捨てたのだという。
 そうすることで、新しいものが生まれるのだと当時の人は考えたらしいのだ。生きとし活けるものは、ある時間を経過すると死んでしまう。そして次のものが出てくるという考えだ。石器は半永久的に使えるものだが、これを壊して葬ることで、次の道具への生命を与えるということのようなのだ。

 「貝塚」からは人骨も出てくる。貝塚はゴミ捨て場ではなかったということだ。この世に生命を得たものすべての墓場だったという解釈である。人間もその生命のひとつに過ぎないと考えていたようなのだ。

 「自然との共生」などと、現代人は偉そうに言っているが、はるか昔にそれを実践していたのである。貝塚の年輪を調べると縄文人は、生活するだけのごく僅かの貝しか採取していなかったらしい。長い年月の間には膨大な量となっているが、その時々の消費は少なかったのである。自然の恵みを大事にしたようだ。

 縄文人の「脳」の大きさは、現代人とそんなにも変らないのだという。それでいながら一万年も続く縄文時代の道具や生活様式に変化がないのは、「進歩を拒否した」としか考えられないのだという。噴火湾研究所の大島所長からは、このような私などが考えてもみなかった見解を伺った。
 
 連綿と続いた縄文時代の輪廻転生ともいうべき考え方は、後に仏教が日本人にすんなりと受け入れられる下地になったとも思うのである。縄文人の思想には改めて注目すべきことが多そうだ。

<冒頭の小写真は、「NPO法人だて観光協会」発行のパンフレット「伊達文化探訪」から採取したものです。貝塚公園に縄文の住居を復元してある。>
[PR]
by watari41 | 2005-09-12 16:44 | Comments(5)

過去から未来へ(4)

<伊達市歴史広場より、中央に有珠山、右にかすかに昭和新山を望む>
a0021554_1793810.jpg
 伊達市はその歴史だけではなく、現在の基盤を固めながら、未来を見つめた施策を着実に実施しつつある。さすがに開拓者達の末裔だ。農業でスタートした町なので見るべき産業はないが、人口は減少していない。住みやすい街なのであろう。「北の湘南」をうたっているが気候だけではないようだ。街並みがきれいである。地価も上昇しているのだという。街作りのいろんな努力がなされている。

 今後は大都市から流出するであろう定年後の団塊世代の長期、短期の滞在を狙っているということだ。人材誘致という考え方が面白い。

 六十台半ばに達する我々の世代でも、裕福な人たちは東南アジアの国々でロングステイすることが流行っている。この試みはうまくいくのかもしれない。宮尾登美子さんもこの滞在者の一人だ。この地で多くの傑作を生み出している。

 さらに驚いたことには、住宅地を網羅する光ファイバーを設置したというのである。時間がなくてそれらを見学できなかったがインターネット時代の重要なインフラであり小規模都市で、いち早くこのようなことをやるのはすごいことだ。わが町では周辺地域にようやくADSLが入ったばかりだ。

 これらに加え、市には「噴火湾文化研究所」というユニークな機構がある。文化財の研究・保存とともにそれらを街づくりに生かす提案型の研究所である。その所長は医学博士の称号を持つ方だ。
 名刺の裏には「伊達市で学会を開きませんか」とある。これまでの常識では学会は東京や地方でも大都市でやるものと決まっていたようなものだ。これを誘致するのは街づくりへの大きなインパクトになる。学会が開催されれば運営は市民がサポートしますとも書き込まれている。

 研究所長曰く「文化財は現在に生かしてこそ価値がある」という。文部科学省が定めるようなマニュアルに従った保護方式ではいけないのだと、中央が決めたやりかたに果敢に挑戦し、文化財保護の改革を企てているすごい方だ。

 私もこの話を聞いて、どこに行っても見られる、あの決まった寸法の角材に白いペンキが塗られ黒い文字が書かれた遺跡の標識がそのマニュアルの一例だと知ったものである。これだけでは古跡の存在を知るだけでそれ以上もものではない。次回ではさらに遺跡の意味を考えてみたい。
[PR]
by watari41 | 2005-09-11 17:18 | Comments(0)