<   2005年 07月 ( 10 )   > この月の画像一覧

機能美

 昔から、美しく出来上がった物は使い易い。格好の悪いものは使い勝手が悪いといわれたものだ。「機能美」というものである。見た目の良くないものは品物としても駄目なのである。
 設計図を見ただけでこれは良くないと判断されてしまうこともあった。

 人間の目は一瞬にして相手を、すなわち対象物を判断してしまう。実際には脳の働きなのだが、自からの手足など体の動きを勘案して、それがよい物か否かを決めてしまうのだと思う。それが「美」の感覚とも一致するようなのだ。

 名刀といわれるものは、いずれも美しい。今は観賞品でしかないが、かつての達人はそれを縦横無尽に振り回すことができたのであろう。
 農作業に使う、鋤、鍬のたぐいから、最新の電気製品に至るまでその「機能美」は通じるのである。

 かつて松下幸之助さんは、新商品の試作品が届けられるとそれを手にとって眺めては、これはいいものだとか、あるいは頭を振ってしまうようなものもあり、これが市場にでてからの評価と一致するという神話もあったようだ。

 デザインの重要性はこんなところからもきているのだと思う。見た目を良くということが、それはすなわち使い勝手につながるからである。デザインも日々進化している。昔のものをみると時代感覚もあるのだろうが、いかにも古臭くみえる。

 だが今やその使い勝手もあまりに進化しすぎて、ボタン一つで、あるいは遠隔操作で何でも扱えてしまう。人間が直接物を動かすことが少なくなり「機能美」もどこかにいってしまうような気がしている。
[PR]
by watari41 | 2005-07-30 07:46 | Comments(2)

様式美

 先ごろの夏場所で優勝を決めた朝青龍が土俵上でガッツポーズを示した。今は見ていて何の違和感もないが、30年前なら非難ゴウゴウだったにちがいない。
 当時はホームランを打ったり、三振をとったりした時に、ガッツポーズする選手をみて、舶来のスポーツだからこんなことも許されるが、土俵上でマゲをつけた力士がこんなことをしたらみっともない、日本古来の「伝統美」を保っている相撲の世界ではありえないこととされていた。

 だが、時の移ろいは、あっという間である。伝統もだんだんとおかまいなしになってきているようだ。日本の伝統文化は、どちらかというと「様式美」に彩られている。
 茶の湯などがその代表例であろう。相撲もまさにそうだ。わずか数mの距離にいる力士を土俵に上げるのに朗々たる声を響かせる呼び出しがいる。横綱の土俵入りは「様式美」の極地であろう。

 「古式に則り神事を・・」をというようなことがたくさんある。相馬野馬追いの出陣式には、神前で「カクカクたる武運を・・」をというような形どうりの昔ながらの誓いの言葉をのべる。今の時代に何ともおかしなことのように思えるが「様式」を大事にする。「伝統を守る」というのはこういうことなのだろう。

 戦国時代には一騎打にも独特の美学を求めたようだ。現在も日本での柔剣道の試合は、礼に始まって礼に終わる。
 囲碁将棋では、終局後にお互いに頭を振りあい、どちらが勝者かわからない場合がある。相手をいたわるというか、失礼にならないようにしているようだ。
 ガッツポーズには、自分よがりのところがある。そのポーズは今や当たり前になっているが、日本の「様式美」も少しづつ失われていくように感じている。
[PR]
by watari41 | 2005-07-27 09:19 | Comments(4)

健康寿命

 先日、集団検診の後で老医師からの講話があった。健康寿命に関する体験談を聞かせられた。50年も前に秋田に勤務の頃に20代後半で脳溢血に倒れた男が現在も存命なのだという。奥さんは看病の過労で早死にしてしまい、娘の世話になっていたが、それも看病疲れで倒れ、今は孫娘が世話をしているのだという。医療技術が向上し、寿命が延びた陰にそんな悲惨な現実もあるというお話だった。

 私の住んでいる隣町のことだが、医療費の総額は町の予算の半分にも達するのだという。しかも年々増え続けている。一例として80歳の老人が骨折して2カ月間入院した実例があった。医療費の総額は200万円で自己負担は6万円なのだという。すなわち老人が転んで怪我をしたりすると、本人の身体的痛みにも増して大変な財政負担が生じるということだった。逆にいうと現在の日本はとてつもない福祉国家であるともいえる。

 個人負担が意外に少ないことは、まだ高齢者ではない私も病気入院をしたことで身をもって経験した。
 寝たきりになって、介護度の高い人は別として日常生活に不自由のない人は、できるかぎり健康でいて医者の世話にならないようにしてほしいとの願いがある。

 「健康寿命」を延ばすことは、本人のためはもちろんだが、これからは国家的課題になっていきそうである。
[PR]
by watari41 | 2005-07-24 21:32 | Comments(4)

個人情報

 かつては、家を留守する時に「カギ」をかけることなどは、ほとんどなかったものだ。
 盗られるものは何もないよ、などと、のんびりした時代があった。そんなに昔のことではない。隣近所の人たちは、お互いに何でもわかていた。何を持っていて、子供たちがどうしているかなども。今から考えれるとプライバシーなどというものはなかったのだが、そんなことを意識したこともなかった。個人情報保護の話になると、いつもこんなことを回想してしまう。

 いつの頃から、「個人情報」が意識されはじめたのだろうか。日本が豊かになってからのことだと思う。知られたくないことがだんだんと多くなってきたのだ。
 最近は同窓会名簿作成の自粛などという話も聞くが、これはやや行き過ぎの感があるようだ。

 だが、個人の情報はいろんなところにその足跡がつく。例えば銀行には預金残高がある。それらは人に知られたくてはないことだ。しかしこれらが、金融機関から紛失したり、漏れているという報道がしばしばある。

 先日は福島県相馬農協の保険担当職員が、あらぬサイトをクリックしたがために、パソコンの中身がすべてネット上に公開されてしまった事件を起こした。あたかも自分のマイドキュメントを眺めるようにその職員の関係する全書類を見ることができた。その地域の数百名の人たちがいくらの保険金をもらっていたかが一目瞭然となってしまったのだ。本人の不注意によって、ネット社会ではこんな危険が常に潜んでいることを認識させられた出来事だった。

 一般個人の情報流出で最大の問題は犯罪に利用されかねないことであろう。漏洩したのではなく、自ら対価を払って公開する個人情報にも問題がある。
 死亡広告を出した知人は墓石の売り込み攻勢にネをあげたということがあった。商売をする人のネタになってしまうのである。新聞広告を出せる人だという個人情報が含まれているのである。
[PR]
by watari41 | 2005-07-21 16:31 | Comments(6)

 男は、40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持たなければならないと言ったのは、米国大統領リンカーンである。顔が良くないからと男を不採用にした有名な逸話がある。

 人生経験や、何を考えてきたかなどが自ずと「顔」に表れてくるようだ。巨大教団に属する人たちは、それを母体とする国会議員までもが、皆な似たような「顔」に見えてしかたがないこともあった。学校の先生なども、年配者は誰をみても同じようなタイプの「顔」に見えてしまう。

 大きくいうと、公務員か民間会社員かの区別もつくような気がする。「顔」はその人の全人格を表す場合がある。選挙ポスターの重要性もそこにあるのだろう。

 宮城県の著名な彫刻家である佐藤忠良さんには優れた「顔」のブロンズ作品が多い。県の美術館にも何点か展示してある。「王」選手の顔もあった。ホームランバッターの個性をよく表現していると思う。その人の内面性までをも表すのは難しいことで、超一流芸術家ならではの技だ。

 時には何とも卑しい顔の人に出会うこともある。第一印象は顔で決まる。昔からヒゲをたくわえて威厳をつけてみたり、いろんな工夫があったことも理解できる。

 「カオ」はシンボリックな表現にも使われる。俺の「顔」を潰したとか、「顔」に泥を塗りやがった。何とか「顔」を立ててくれ、どのツラ下げてとかいろんな言い回しがなされる。

 事故でメチャメチャになった顔を火葬までのわずかな期間のために写真どおりに整形する商売まであるようだ。顔は文字通り、人生の最後までその人のカオであり、今や遺影となっていつまでも飾られてしまう。
 口には出さずとも、誰しも無意識に人のカオの評価をしてしまうことがあると思う。
[PR]
by watari41 | 2005-07-18 08:19 | Comments(3)

観光

 知床半島が世界遺産になった。「観光資源」としての価値がぐんと高まるようだ。だが、考えてみると認定を受けたからといって景色が変わるものでもない。お墨付きをもらったことで、そこを見る人が世界遺産だという感慨をもってもらい、行ってみようとする人が増え、地域の人たちにはそこを守らねばならないとする意識の働くことが認定の狙いなのであろうと思う。

 先日、福島県の会津を旅した。そこで聞いた話では、これまでの観光は「白虎隊」に頼ってきたところがあったという。近隣諸県の小学生の修学旅行は、自刃の地である飯盛山ときまっていたものだが、最近は半減しているという。
 戊辰戦争での少年達の悲劇で百年間、飯を食わせてもらったという感謝の一方で、新たな観光資源が課題になっていたところに、野口英世の千円札でその生家が脚光を浴びた。周辺には世界ガラス館という大型施設もできた。かつての賑わいをもう一度ということなのであろう。

 今や観光は一大産業でもある。とにかく人を呼び込まなくてはならない。知床にもハクがついた。先年の熊野道もそうである。観光資源は、景色であったり、自然であったり、偉人に絡むもの、街並みなど様々だ。

 日本最大の観光地は「東京」なのだという。田舎にないもの全てがある。次々と観光スポットが登場してくる。
 日本人はよく動く。小学生の修学旅行から我々シニアの観光旅行までどこかに行かないと気のすまないところがある。
 だが「観光」という言葉に何となく後ろめたい気持ちが働くのも事実で、「研修旅行」という名前がよく使われる。農協の旅行、町内会の旅行などにも、何かとこの「研修」という文字が出てくる。
 無駄遣いだと問題視されている議員の「視察旅行」も観光旅行そのもののはずだ。そのうちに「世界遺産視察」などというのもでてくるのだろう。へたな言い訳をせずに堂々と「観光」であると宣言してもらえばすっきりする。
[PR]
by watari41 | 2005-07-15 13:16 | Comments(0)

晩翠草堂

 仙台のメインストリート青葉通りに「晩翠草堂」がある。仙台の誇る詩人「土井晩翠」の住居跡だ。一見したところ立派に詩人を顕彰してあるように思う。しかし、こと、ここに至るまでに半世紀もの遺族と仙台市との葛藤があったことを最近に至って知ることになった。
 「晩翠草堂の顚末」という著作である。98年に晩翠の孫に当たる中野好之さんという鎌倉にお住まいの方が書いたものだ。

 仙台市は、一時期この土地を遺族から無償で得て売却しようと図ったこともあったらしい。その後は「観光資源」としての活用に方向転換したのだという。

 この著作では、仙台は文化都市を自称する百万の田舎街であるとかケチョンケチョンにやられている。当時の島野市長や助役、観光課長とのやり取りなど、こんなことが実際にあったのかと驚くような裏面の出来事が記されている。
 遺族が遺品などを引き上げてしまったので、困った仙台市は草堂には位牌が必要だと、観光用の位牌を作り上げて勝手に法要まで催したとか。いろんなことがあったようだ。

 結局のところ、その土地は仙台市が買い取ることになる。遺族が得た売却金には通常は公共の目的に使用されるのであるから税金はかからないのだが、仙台市が書類手続きを怠ったために著者の住んでいる鎌倉の管轄税務署が勝手な書類を作り上げて課税したというのである。

 これは晩翠騒動番外編ともいうべきもので、中野さんは大変な税務騒動も経験をしたようだ。
 その課税はおかしいと国税不服審判所に訴えたら、極めつけは当該の税務署長がその審判所に異動して、自分の事件を自分が審判するというようなことが現実にあったのだという。
 当然ながら中野さんは敗訴となり、今度は裁判所に訴えたというのである。世の中には奇奇怪怪なことがあるものだ。

 今回のブログは単なる本の紹介にとどまってしまった。昭和30年頃の仙台は「荒城の月」のチャイムが市内に流されており今も懐かしい思い出として耳に残っている。晩翠と聞くとそのメロディを思い出してしまう。
[PR]
by watari41 | 2005-07-11 10:28 | Comments(4)

漫画とアニメ

 今や日本文化を代表するような感のある漫画やアニメである。しかし半世紀前には漫画本は忌み嫌われていた。
 子供が漫画ばかり読んでいるのでバカになってしまうとか、漫画亡国論まがいのことをいわれたことがあった。昭和20年代、小学生の頃だったが「イガグリ君」という柔道漫画に人気があって、誰かが買ってくると回し読みしたものだ。面白かった。
 漫画は次第に市民権を得ていった。「マンガ日本経済入門」が出て、世の中の動きを解りやすく伝えるのはマンガに限るというような確固たる地位を獲得したのだと思う。
 宮城県石巻市では、衰退ぎみの街の活性化策として、多額の費用を投じ巨大な漫画館をつくった。それなりの効果はでているようだ。今や難しいことを何でも漫画化しようというような風潮さえもある。
 
 数年前にテレビで人気のあった「ヒカルの碁」は、囲碁に多少心得のある私などのシニアが見ても面白いものだった。少年少女の囲碁ファンが急増したという。

 アニメも宮崎監督によって新しい境地がどんどん開かれていくようだ。新しい映像文化ができつつあるように思う。

 マンガと似たような経緯を辿ろうとしているものに「ゲーム」がある。かつては親から眼の仇にされていたものである。
 だが今や、これも日本発の文化みたいなものになりつつある。機器やソフトは巨大な産業となった。ゲーム感覚でとか、難しいことをこれまた単純化しようとしている。面倒なことを簡単にしてしまうのは誰にでも分かり易くということではよいのかもしれないが、同時に思考回路の短絡化が起きているような感じがしてならない。
[PR]
by watari41 | 2005-07-08 07:05 | Comments(2)

神々の国

 日本中、どこに行っても沢山の「神社」がある。大きな神社から小さな祠まで、どうしてこんなに神社が多いのだろうとか思うことがある。

 古来、人の生活になくてはならないもの、役に立つもの、ありがたいものを奉ったのが神様の起源らしい。太陽信仰が人類にとっては最初の神様だったのであろう。そのうちに古代の人間は石器に代わる「金属」のありがたさを尊び、日本には金属を祭った神様が意外に多いのだという。
 偉人がそのまま神様になってしまうこともある。なかには「ヤマノカミサマ」を奉るご主人もいる。かつては、どんな家でもいろんな神様がいた。家の中には神棚がある、そこには天照大神が祭られている。我が家では外に明神様がある。そして井戸のあったところに水神様の小さな祠があり、道祖神もあって今や朽ち果てようとしているが立派な御神体がチンザしている。

 正月には生活上使用している各部屋にシメナワを飾り、最近は少なくなったものの自動車にもシメカザリをつけて走る方がいる。日常役に立つものを神様扱いにする名残りなのだろうと思う。

 日本は神々の国であると発言しヒンシュクをかったのは前首相だったが、こんなことをみていくとあながち的外れなことでもない。
 宮城県志津川町に行ったときに、ここにもかつては多くの神社があったのだろうが、それらをまとめて湾内の小さな島に合祀したという、そのまとまった神社を数年前に見たことがあった。

 これからは、日本の八百万の神々も徐々に集合されていくのだろうと思う。地域の伝統行事というのは神様に由来することが多いが、現代人にはこれまでの神様の概念が消えつつあるのもたしかなことのようだ。
 21世紀のこれからは神様のことなども過去との断絶がより一層鮮明になるのだろうと思う。
[PR]
by watari41 | 2005-07-04 19:55 | Comments(0)

水素ガス

 クリーンなエネルギーとして「水素ガス」が注目を浴びている。燃やせば無害な水になってしまうからだ。今や地球環境破壊の悪玉になってしまった二酸化炭素がでてこない。

 私は40年以上も前のことだが入社の頃に水素ガスを扱った。高い温度で特殊な金属を熱処理するのに使っていた。
 水素ガスには、危ないとか、爆発するとかのイメージがあるがその性質をわかってしまうと、極めて安全なガスである。
 何よりも軽い。ガス漏れがあったところで、たちまち上へと逃げてしまい、隙間があれば出ていってしまう。そして空気中に拡散してしまうのだ。床に留まってしまう重いプロパンガスなどとはちがうのである。

 その水素ガスを自社で作っていた。水を電気で分解するのである。水素と同時に酸素も出てくる。むしろこの酸素ガスの方が危険なのである。私の入社前には、副産物だった酸素をボンベに詰めて販売していたようだが事故があって止めてしまったという。
 先日、仙台の学校で授業中に酸素を教室で爆発させてしまった先生がいたが、危険性への認識が足りなかったようだ。物の燃焼を助けるものの方がむしろ危ないのだ。
 自社で発生させた水素ガスを一時的に貯蔵する赤いペンキで塗られた大きなガスタンクをもっていた。工場の外からも見えていた。水素ガスを入れる容器は赤で表示する規則がある。
 そのうちに、苛性ソーダを作る時に出てくる副産物の水素ガスを安く買えるようになって、自社製造を止めてしまった。

 昔は工業的な特定の用途にしか使わなかった水素ガスも、燃料電池など一般の用途に供される時代が近いようだ。
[PR]
by watari41 | 2005-07-01 07:59 | Comments(0)