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眠り症

 果樹に「眠り症」という病気がある。今冬は寒かったので問題はないようだが、暖冬であると次の年の実りが悪くなるというのである。

 昨年、「梨」の出来が良くない木々があったのを見た。植物も冬は寒い中で十分に眠る必要があるのだ。人間の体内時計みたいなものがあり、一年の温度サイクルを検知しているようだ「りんご」なども冬は寒く、夏は暑いところがよいといわれている。

 我が町では、40年ほど前に「株冷いちご」とか「電照いちご」といわれるものを始めた。10月頃にイチゴの苗を蔵王の標高千メートルのあたりに運ぶのである。約2ヶ月間さらして、冬を過ごしたと錯覚を起こさせるのである。それから下界の温室に植えて冬至の頃に夜は2時間ほど電球をつけ、朝も同様にして春が到来したと思わせるのである。そうすると3月頃には立派なイチゴが実った。

 自然のイチゴよりもかなり早く市場に出せたので高値で売れた。その当時イチゴ御殿などといわれるシャチホコまで上げた豪邸が我が町の農村地帯に出現した。

 当時は大型冷蔵庫もなかったので高い山へ運んだのだが、現在はそんなこともする必要がなくなった変りに競争も激しくなり、そんなに儲かるものでもなくなった。何年間かは創業者利益を得たのである。仙台いちごのブランドは今も健在で「とちおとめ」などの立派な品種に進化している。

 人工的にこんなことを出来るものはよいのだが、地球温暖化が進むと「眠り症」などというおかしな病気まで心配しなくてはならなくなる。
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by watari41 | 2005-03-30 11:01 | Comments(4)

男女同権

 イランではサッカーの試合に、女性が入場できないということを聞いて、イスラムの戒律というのを改めて知った思いがする。アフガニスタンでのタリバンというイスラム原理主義下では、女性は想像を絶するような扱いを受けていたようだ。

 21世紀の世の中に考えられないことのような気がするが、日本でも昭和20年に戦争に敗れて初めて女性にも選挙権が与えられたわけで、そんなに威張れた話ではない。

 日本の山岳信仰の盛んなところでは、山に女性が登ってはいけないとか、かつてはいろんな制約条件があったが、現在では女性を拒否しているのは「土俵の上」くらいだけであろうか。伝統を守るということだが、そんなに意味のあることとも思えない。

 本来は天皇に女帝がどうだなどということが、議論に上ることさえおかしいのに、真剣に検討されていること自体が欧米人からみると変なことなのだと思う。

 「男女同権」とは言うは易く、行なうは難いようで、男女雇用機会均等法とかまで作らているが、女性を募集しているのにそのように限定できないのでかえって混乱を招くとかいろいろあるようだ。

 ファーストレディというのは、わざわざ意識しないとおろそかになるからであろう。アフガニスタンやイラクでのことは文明の衝突ではないとはいうものの、女性の扱い一つみても大きな差異がある。軍事力だけでは片付かない、このギャップをどのようにして埋めるのだろうか。
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by watari41 | 2005-03-28 08:31 | Comments(2)

領土問題

 「北方領土」は面積をもつが、「竹島」、「尖閣諸島」、「沖ノ鳥島」は点でしかない。領土問題というより、漁業権や海底資源の問題といった方がより正確な表現であろう。北方領土も、つきつめると漁業問題である。領土問題は「陸」の問題ではなくて「海」の問題なのだ。

 北方領土は、良質な毛皮をもつテンを追って千島列島を南下したロシア人が、エトロフ島あたりで日本人と接触したというようなことが、司馬遼太郎の小説にあった。そのときには協定らしきものも結ばれたのであろう。
 だが現在の状況は戦争が絡んだもので、ヤルタでの戦勝国の約束でこれを覆すのは容易なことではない。
 領土問題は、そのほとんどが戦争がらみで取った取られたとなる。かつて樺太を領有したことなどもそんなことだ。平和時の領土問題はややこしい。これが原因で戦争に突っ込む場合もあるからだ。

 「竹島」もあまり大きな問題にはなって欲しくないものだ。江戸時代には日本の武士が駐在していたというのだが、韓国側はさらに歴史を遡ってくる。6世紀にはこれを領有していたのだという。
 大昔の歴史になると日本は弱い。「好大王碑」という4世紀あたりに建てられた古碑の話を読んだことがある。日本との関係を書いたくだりでは、戦前に日本軍がこの碑文を改竄したとかの噂まである。
 いずれにしろ韓国大統領の発言など竹島問題は今や感情論にまで発展してしまった。

 尖閣諸島のことも、中国は大陸棚の延長であると主張している。海面が低下すれば、そこは中国と地続きになるということで一理はありそうだが、そう単純なことではない。
 領土問題には勇ましい議論もあるが、冷静に対処してほしいものだ。
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by watari41 | 2005-03-26 09:28 | Comments(2)

ガンへの金属加熱

 久しぶりに金属材料がニュースになった。ガンを焼き殺すのだという。ガン患者の一人でもあり、かつ金属技術者の端くれでもあった私としては実に興味深い。

 ガンは熱に弱い。60℃程度で焼き殺されてしまうのだという。ガンの局部に熱を与えることがこれまでは難しかったのが、今回実現できたのだ。
 磁気材料の特徴であるキュリー点(磁気を失う温度)を使ったもので、温度を正確に決めることはそんなに難しいことではない。今回の発明は非常に脆いフェライトという金属を使いながら、「細い針」を作ったことにあるようだ。どんな技術なのか興味がある。係ったのは工学部の先生だった。
 今回のことでの新聞ニュースにはそんな詳しいことは書いてないが、記事の概要からこんなことを連想していた。

 この金属材料は温度の上限を物理的に決めてしまうので、外部から高周波のエネルギーを与えるのだが加熱しすぎの心配はない。
 これは、このブログで以前に書いた、零℃度にキュリー点を調整した雪を溶かす融雪電線の原理と同じである。面白い応用があったものである。

 医療に関することは、表現は悪いが、ある程度金に糸目をつけずということが許される。効果が広く認められれば急速に普及するであろう。
 レーザー治療とか、温熱療法とかガンを焼き殺すいろんな手段がこれまでも考えられ、実施されてきていたがこれに金属が加わる。
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by watari41 | 2005-03-24 09:35 | Comments(2)

お彼岸雑感

 「彼岸」は、最も好きな日本語である。個々の漢字には何の意味もないのだが、合わさるとその音韻から現実世界とは離れたユートピアみたいなものを思い浮かべてしまう。天国とか極楽とはまた違う意味での黄泉の世界を連想する。

 「彼岸」は、年に2回の大きな季節の変わり目である。「暑さ寒さも・・・」というように、日本の風土に合った感覚がある。昼と夜の長さが同じというのも、あの世と、この世の合わさり目を表しているのだろうか。

 「彼岸」の中日は、太陽の運行に起因する。昔の人は不思議に思ったことであろう。毎日太陽の昇る位置と沈む位置が変り、昼と夜の長さが違ってくる。春と秋のある日に同じになる。そこに「西方浄土」をみたのだろうか。昼は生きている人々の世界で、夜は死者たちの世界だったのだろう。

 「彼岸」は、うつろいゆく自然、そして生活習慣のなかで、人間が勝手にイメージし、死者との関係を作り上げたのであろうが、千年以上も継続し親しまれているのは、我々の心にフィットする何物かがあるのだと思う。仏教的な意味は別にしても、ごく自然な形で理解できるものである。

 「彼岸」は、漠然とし、曖昧模糊でもある。あまりはっきりとしないのがよいのかもしれない。忙しい世の中ではあるが、個々の心に「彼岸」の世界を作ることができれば、心安らかな生活がきるのではなかろうか。

 昔の人があがめた太陽は、今やエネルギーの対象としてみられている。クリーンで無限に続く資源として捉えられその有効活用が競われている。太陽がもとになっている地上の風もそうである。昔とは違う意味で環境問題にうるさくなった現代人の信仰の対象になっていると言っては、いいすぎであろうか。
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by watari41 | 2005-03-22 10:47 | Comments(2)

歴史認識

 中国や韓国から、日本は戦争加害者としての歴史認識が不足しているとの責めを折に触れては受けている。
 だが、ほとんどの日本人は戦争の「被害者」は自分達であると思っている。大空襲や原爆による何十万人もの死者など戦争の惨禍は日本が最も大きかったのだと。

 日本が「加害者」だとするとそれはいったい誰だったのか。軍人であろうか。しかし弾薬や食料もない状態で戦わされ、悲惨な戦闘状態におかれたのである。当時の国家の意思が非難されるべきであろうか。

 小泉首相の靖国神社参拝が殊更に問題になっている。不戦の誓いであるということだが、外国に対してうまく説明しきれているとはいえない。
 靖国神社の展示館を見学したことがある。軍人とその家族の往復書面など当時の個人レベルでの悲しさに胸を打たれてしまう。ここでも被害者は日本人自身なのである。
 無差別空襲など日本への加害者は米国のはずだ。だが、日本が仕掛けた戦争であることや、敗戦によって奴隷的扱いを受けるのではないかと思われたが、そうではなかったことなどによって、米国に対する日本人の感情は悪くはない。

 しかし、米国が一般市民を攻撃対象にしたことは、いずれ歴史的な糾弾を受けることになるのではなかろうか。戦争とはそういうものだといわれれば、やむを得ないのだろうが、今のイラク戦争にもこんなことを引きずっているようだ。

 中国などがいう歴史認識とは事実を正視してくれということではなかろうか。時が過ぎるにつれて、事実はあいまいさを増していく。感情やイデオロギーに捉われずに正確な記録を残すことは難しい。

 戦後60年の節目を迎えて、東京大空襲の研究が進んでいるが、これからは仙台の空襲などの被害実相は勿論だが、そこに至る日本の戦争責任についてもどういうことだったかという総括がなされることを期待している。
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by watari41 | 2005-03-18 21:59 | Comments(2)

融合

 ライブドアの堀江社長は、テレビとインターネットの「融合」を目指すという。どういうことなのかが、現時点ではいまひとつ具体的によくわからない。

 「融合」について思い出すのは、30年ほど前にNECの社長が「C&C」ということを言い出した。20世紀末にはコンピュータとコミニュケーション(通信)が「融合」するというのである。
 当時は何を意味しているかがわからなかった。だが今や通信回線につながれていないパソコンは考えられない。見事に「融合」したのである。

 堀江社長の頭には将来の「融合」したイメージがあるのだろう。凡人には伺いしれない未来図が描かれているのだと思う。断片的な発言では、ニュースも金で買えるとか、ショッキングなことをいう。10年後、テレビは現在の姿ではありえないということだ。人々の関心あるものを第一に考えるのが筋であるとも。

 メディアのあり方ということまでも突っ込んでいるようだ。私もテレビを見ていておかしいと思うことは多々ある。大リーグのニュースは朝一番に登場する。松井がホームランを打つと、夜のニュースまで繰り返し、同じ場面を10回も見ることになる。
 ニュースからエンターティメントまで混在しているのも疑問である。そんなことを考えながらも漫然と日がな一日テレビをつけていることがある。誰かが何かをしなければならない時がきているのだと思う。

 映像の百貨店がテレビなら、活字のデパートは新聞であろう。これも配達されるから目を通しているだけだ。目の前にテレビがあるからスイッチを入れるのとあまり変りはない。たまの休刊日はさみしい気もするが慣れてくれば週一日の休みでもおかしくはなくなるであろう。

 大袈裟なメディア論までいかなくとも、日常的な疑問は多々でてくる。堀江さんの登場はこれらのことへの一石を投ずるものでもあると思う。
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by watari41 | 2005-03-15 07:42 | Comments(2)

抜き取り検査

 牛の病気である「BSE」の検査問題で日米間にかなりの食い違いがある。日本の牛はすでに全頭検査されているが、米国は抜き取り検査で十分だという見解だ。

 もう何十年も昔のことだが在職の頃、抜き取り検査では何度も興味深い体験をしたことがある。千個ほどの製造ロットから50個を抜き取って検査するのである。その抜き取ったものに一個までの不良品ならそのロットは合格という規格があった。しかし不良品がでると、念のためと全数検査してみるのだが奇妙なことに千個を調べても、その一個の不良以外は全て良品だったということを、何度か経験した。
 無作為に抜き取った時には、意外に正しい実態を表すものだと思ったことがある。

 この抜き取り検査基準は、米軍が使用していた規格を日本でも戦後に使っていたもので不確かな記憶がだが「AQL」検査基準と呼んでいたと思う。
 全体の品質水準を把握しながら、ある程度の不良品は許容されるという基本的な考え方である。だが、日本の工業水準が上がるにつれて、この考えでは不十分だとされるに至ってきた。
 PPMすなわち不良品は百万分の一以下でなければならぬとか、あげくのはてはゼロディフェクトという、不良品は認められないという考え方が出てきたのである。
 このような過去の経験に照らし合わせると、今回の牛騒動はまことに興味深い。

 半世紀前の日本は、まだ食品の安全性に関しては、そんなに気をつかってはいなかったように思う。後々に尾を引くような種々の食品問題が発生していて万全ではなかったように思う。
 今や何物にもまして食の安全が最大の関心事になっているのは時代の進歩なのであろう。
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by watari41 | 2005-03-13 07:17 | Comments(2)

流線型

 走行抵抗を少なくするための「流線型」のデザインは、流麗な姿とともに近代工業社会のシンボルであると思ったことがある。
 日本の車がまだ四角だったころ、外車のスタイルは何とも美しいものだと思ったものだった。

 速度が上がると車体の形はより重要になってくる。スピードアップに伴い新幹線が目覚しく変りつつある。その先頭車両が面白い。単純な「流線型」ではなく、アヒルのクチバシのような形など、より抵抗を少なくするためであろうが、あまりに特異な形で違和感を感ずることさえある。

 先日、東海道新幹線のとある小さな駅で列車を待っていた。その間に通過列車がビュンビュンと通っていく。その時に異様な列車が近づいてきた。外観はねずみ色で、先頭が尖り全体に丸みを帯びたミサイルのようなものがやってきた。気違いじみた猛烈なスピードで通過していった。おそらく最新の系統に属する新幹線車体なのだろう3百キロもの高速を目の当たりにすると怖いものがある。
 「せまい日本、そんなに急いでどこに行く」という川柳を思い出した。

 今度は、東北新幹線用の次世代型車両が発表された。一見して失礼ながら「青大将」(この地方の言葉で蛇の一種)を連想してしまった。私の感覚がもう麻痺してしまったのか、次代を4百キロで疾走するであろうデザインにも奇異な感じしか持たなくなってしまった。

 30年前、超音速旅客機コンコルドが登場したときには、「流線型」デザインの極地を見る思いがしたものだ。その姿が消えてしまったのは残念だが、陸を走る、空を飛ぶにしてもスピードを上げることは、エネルギー効率を落とすことになる。むやみに速さだけを求める時代ではなくなったが、人間の欲望には限りがない。
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by watari41 | 2005-03-11 10:07 | Comments(0)

砂と土

 海風に吹かれて歩く砂浜は気持ちが良くてかつ美しい。だが「砂」のようにもろいとか、砂上の楼閣とか、砂はあまり良い表現としては使われない。日本は「土」による農耕文明だからなのだろうか。
 中東は文字通り砂の文明だ。砂に生活を左右されることが多い。砂嵐など我々の想像を絶することのようだ。しかし、日本人は苛酷な砂の世界を「月の砂漠」などロマンチックな詩にしてしまう。実生活とは馴染みのないところで、比喩的に語られてきた。砂場など子供の遊び場的なイメージもある。

 だが、「砂」が工業上、重要なのだと認識することがあった。機械を作るのに大切な役割をはたしているのを知って驚いたことがある。学校の実習場でのことだった。
 同じ機械部品を何個も作るときに、最初は「木」を削って機械と同じ形を作るのである。これを木型と呼ぶ。このまわりを「砂」で固めて、木型を引き抜き空洞になった部分に、熔けた金属の湯を流し込むのである。冷えてから砂をばらして、機械部品となった金属を取り出すのである。
 大袈裟にいうと、半世紀前の近代文明は砂で作られるというような感慨をもったものである。 入社した工場でも当時は、まだこんな方法で金属磁石を作っていたのである。

 「砂と土」は、「ニワトリと卵」の如く、どちらが先とはいえないところがある。降雨量によってその状態を変えるようだ。砂は作物を育てないが、肥沃な土地は、それだけで豊かさをもたらした。
 だが、今や「土」を使わない農業が幅をきかせる。「水耕栽培」である。養分を与えれれば作物は生育する。農業にも革命が起きつつあるように思う。

 我々は素足で土の上を歩くことが少なくなった。海水浴でようやく砂浜を歩いてその心地よい感触を得る。田植え時に、素足でぬかるみに入ったことなどは遠い昔の記憶になった。
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by watari41 | 2005-03-09 09:48 | Comments(0)