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会社と株(1)

 「株」は今年のキーワードになりそうだ。昨年は「災」だったが一転して株式の年となるのだろうか。
 堤さんが株を持って支配する西武の問題、昨今のニッポン放送など「株」の問題が広くさらけだされた。西武グループでは堤さんの株をことさらに慎重に扱い表面化しないようにしてきたようだ。
 会社は株主のものだということは知っているのだが、これまではあまり大きく意識せずに過ごしてきていた。
 会社の買収や乗っ取りなどは、どこか小説の世界と思われてきたところがある。今回の騒動は事実は小説よりも奇なりを地でいくようなものだ。メディアを通じて、実地に経済の勉強をさせられている感もある。
 司法の場で株式会社とは経営とは何かという根源的なことが問われていきそうだ。

 「株」が大きく注目を集めたのがバブルの時期である。「エクイティファイナンス」という聞き慣れない言葉を耳にした。「新株」を時価で発行増資することで、会社はほとんどタダ同然で巨額の資金を得られたのである。
 会社を格付けする機関が幅をきかせた。AAAなど高いランクの格付けをもらうと、より多くの資金を容易に市場から集めることができた。在職の当時、その格付け会社が工場見学に来たことなども記憶に残る。
 しかしその時、株を買った人は時価で購入しているので利回りはほとんどなくて、かつ値上がりを期待したもののバブル崩壊で大損失を受けたのである。

 「株」はその後、日々の値動き以外にはあまり大きな社会的関心をもたれずにいたと思う。
 堤さんのところも騒がれずに置かれたのである。しかし市場から透明性を求められると、最も問題の会社であったということが判明し。おそらくはその実態を把握していたであろう各メディアも競って報道に走った。

 資本主義の根本的な問題であるはずだが、これまではあまり突っ込まれずにきていた。今回のことをきっかけに更なるオープン化がなされれば幸いである。
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by watari41 | 2005-02-27 09:33 | Comments(0)

皇室と王室

 昨年、皇太子が述べた「雅子妃への人格否定発言」は、終戦直後の昭和天皇の「現人神否定発言」と並ぶ皇室の「人間宣言」であると思っていた。
 しかし、皇太子が45歳の誕生日を迎えての会見で、前言を翻さざるを得なかったのは残念なことである。
 まだまだ、皇室の率直な発言そのものが問題視されているのは何を物語るものだろうかと思うのである。一般人に近い感覚で扱われるようになるのはまだまだ先のようだ。

 対照的なのが英国王室である。発言どころか大胆な行動を起こしてそれを完遂してしまうのだから驚いてしまう。
 チャールズ皇太子の再婚はまさに普通の人間のやることと何ら変りはない。
 先例があるのだ。1936年エドワード8世は離婚歴のあるシンプソン婦人と結婚した。そのことで王位を捨ててしまった。思い切ったことをしたものである。
 退位の時の演説が英語の教科書にあったので記憶に残っている。「夫人の助力なしには国王の業務をなしえない」それを国会が認めないのだからやむを得ないというようなものだった。
(これには、後日談がありシンプソン夫人には、その時、別に若い恋人もいたといのだからチャッカリしている)

 日本と英国、どうしてこうもちがうのかと思う。歴史のちがいなのかもしれない。英王室は900年程度と比較的短く人間くさいドラマにみちみちている。
 対するに日本では神に近い扱いがなされ、最近でも元首相が本音ともとれる「神の国」発言でヒンシュクを買ったのは記憶に新しい。日本人の潜在意識にもそんなことがあるようだ。奉っておくものがないと落ちつかない。皇室の存在意義はそんなところにあるようだ。
 皇族に凡人のような真似をされては困るのである。だが皇太子は人間として扱ってほしいとの希望がありそこにジレンマがある。
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by watari41 | 2005-02-25 09:44 | Comments(2)

合併と住民意識

 市町村の合併協議は最終局面を迎えている。宮城県南にある柴田,大河原、村田の3町合併に関する住民投票で興味深いというか住民意識を如実に示す結果がでた。近隣の町に住むものとして関心を抱いている。
 3町の対等合併なので市役所の位置が焦点となっていたのである。昔の合併で人口が多くなった柴田町に新市役所が置かれることが内定していた。かつては県南の中心と考えられ、県の出先機関も多い大河原町は譲らざるを得なかったのである。
 だが住民投票の結果は、大河原町で反対が上回った。他の2町は賛成が多かったのである。住民意識からして当然の結果なのかもしれない。自分の住む町のメンツというか、利便性が損なわれるからである。
 県北の遠田郡でも似たようなことがあり、これは住民投票までゆくこともなく議会が反対して合併から離脱した涌谷町の例もある。
 合併に際しては「名前へのこだわり」の他に「新市役所」へのこだわりがあって、現時点での住民エゴがもろに出てしまい、まとまるものもまとまらなくなってしまう。


 前回の大合併からは丁度半世紀が過ぎた。しかし、これを元に戻して再び昔の姿にしようなどとは誰も考えてはいない。一旦、既成事実が出来てしまうと、そこがベースになるのである。
 住民投票というのは、現在時点での利害得失、利便性、感情などが判断基準にならざるを得ない。
 本来は将来を見つめてやるべきことなのだが、個人ベースになると近視眼的になってしまうのが実態である。
 無理矢理にでも合併してしまえば、ある期間をすぎるとあたりまえのことになってしまい、その現状でよいのだとなってしまうはずである。
 だが民主主義の時代ではこうはいかない。将来に禍根を残す結果になったとしても、その時の民意だったということになる。今回の大河原町では町長がリーダーシップを発揮し、合併をまとめようとしているのだがどうなるのかを注目している。
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by watari41 | 2005-02-23 07:48 | Comments(0)

時代の底流

 ライブドアのニッポン放送株取得が大きな注目を集め、社会的問題になっている。違法行為ではないものの意表をつくものだった。
 これほどに大きな関心を持たれた背景には、現在の日本の行き詰まった状況があるような気がしてならない。そこに風穴を開けるというような潜在的期待感を持たれているような感じがするのである。

 停滞した時代の壁を破るのは、若い人の行動力である。今回の騒動はそのさきがけをなすもののように思える。幕末の高杉晋作といっては大袈裟かもしれないが、政財界の重鎮といわれる方々のコメントぶりは、長州藩の家老の方々のあわてぶりのようだといっては言いすぎであろうか。
 テレビで見る両者のスタイルはあまりにも対照的である。相対しているのは私などと同世代の人たちだがもはや古色蒼然たる感じがしてしまう。
 (司馬遼太郎小説の読み過ぎかもしれないが)、堀江青年には気負ったところは見られず、すずやかな印象さえうける。
 「IT」が社会を変えるといわれて久しいが、その一端が表面化した事例のような気がする。
 時代を変えるには巨額の資金も必要で外資の影も見えておりケシカランという人もいるが現代版「攘夷論」のような感じを受ける。

 今回のことがきっかけで日本社会が大きく変るような気がするが、期待のかけすぎであろうか。
 かつて、宮城県の北部地帯に空港までを抱える一大ソフトセンター計画をアスキーの西社長が企画し大きな夢をもったことがあったが、実現の寸前までいきながら挫折したことがあった。堀江社長は、西さんの時とはまた別の感覚で事にあったいるようだが、先行きを注目したい。

 メディアの関心は、もっぱら勝敗というか事の成否にのみ関心がもたれているが、時代の底流といったことにも目をこらしたいものだ。
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by watari41 | 2005-02-21 09:25 | Comments(4)

日本の酒(2)

 焼酎ブームは、今やバブルと化してしまったようだ。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。製造者は一様に、これからの反動を恐れている。
 日本人は移り気である。酒に関してもそうだ。一時期、地ビールがもてはやされ各地で沢山のビールが生まれたが、今や見る影もなくなってしまった。

 焼酎は、かつては下等な酒でしかなかった。このあたりではバクダンと呼ばれ酔うために貧乏人が飲むものだとされていた時期があった。
 戦後の頃である。旺盛なアルコール需要を満たすために、わが町の造り酒屋さんが大掛かりな焼酎製造プラントを設置した。原料であるサツマイモを集め10年ほどはフル生産が続いた。工場の近所である我が家はそのプンプンたるニオイを嗅がせられていたものである。
 しかし高度成長と共に焼酎は飲まれなくなった。所得が向上したこともあるが、酒米が容易に入手できるようになり本業に力を入れるようになったのであろう。

 ウイスキーが急速に伸びてきたのもそんな頃に重なる。「洋酒天国」というPR雑誌がでたりして、ウイスキーを飲むことに文化的雰囲気をかもし出すことに成功したのである。
 そのウイスキー会社の有名社長がとんでもない失言をしたことがあった。東北地方を指してのことだが文化程度の低い「熊襲(クマソ)の子孫」とやったのである。蝦夷と熊襲を取り違えたのはいうまでもないが、大変なヒンシュクをかい、お詫びの行脚に仙台まで来たことを思い出す。
 今や、その熊襲の焼酎にウイスキーは大打撃を受けている。もちろん日本酒もしかりである。もともとは九州南部の気候条件では清酒を造ることは難しく、やむなく焼酎を造っていたと思われるのだ。

 かつては嫌われた芋焼酎のニオイも喜ばれるようになり、もはやヤケザケなどではなくなった。しかし、一升数万円もするものは焼酎ではない。早く正常な姿に戻ってもらいたいと思う。
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by watari41 | 2005-02-19 10:00 | Comments(2)

日本の酒(1)

 私はどちらかといえば清酒党である。現在は歴史上日本酒がこれほど旨い時代はないのだという。なのにではあるが清酒の消費量は下がりっぱなしである。最盛期の半分程度に落ち込んでしまった。
 「酒」は一国の文化を表すものだともいわれる。ローマ帝国のワインはフランスに引き継がれ、アングロサクソンはウイスキーを生み、ゲルマン人はビールを育てたのだと素人考えをめぐらしていが麦酒の歴史は最古の文明まで遡るようだ。
 中国の酒にはこれまた独特の味わいがある。現在は世界中の「食」を味わえるように「酒」も楽しめる時代になった。

 清酒は日本人の好みに合わせて改良に改良を重ねられてきたはずだが、このところの低迷は何故なのだろうと考えてしまう。外国人にも日本酒を好む人は結構多い。
 日本人に受けなくなったのはダサイからなのだろうか。健康志向からなのだろうか。理由は判然とはしていないようだ。今も蔵元では良い酒造りに頑張っている人たちがいる。

 かつて日本酒には万余の銘柄があった。わが町にも数十年前までは2軒の造り酒屋があった。偶然にも隣り同士で競い合い、その脇に我が家がある。子供の頃は酒樽の中などでよく遊んだものだ。そこの大旦那が日本酒にはグルタミンソーダが含まれているので旨いのだと教えてもらったことが記憶に残る。味の素が珍しかった頃のことだ。酒蔵は今や住宅地に変ってしまった。特色のない清酒メーカーは生き残りを許されないのである。

 だが、清酒は日本の風土に合った酒だと思うのである。仙台地方は昨日来より今冬一番の大雪となった。雪見酒は日本酒でなければならない。
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by watari41 | 2005-02-17 08:32 | Comments(2)

ローマ人の物語

 塩野七生さんの「ローマ人の物語」第13巻が昨年末に発行された。表題は「最後の努力」である。いよいよ終幕が近づいてきた。毎年1巻づつ刊行されているので、初刊からはその年数が過ぎている。
 この物語には次第に関心が高まってきている。二千年も昔のことながら、妙に現代の世界とマッチするのである。

 ローマ帝国は現在のアメリカになぞらえることができるようだ。いろんな民族、人種をローマ市民として抱え込み、繁栄を誇り百万人以上の都市ができていた。日本ではまだ弥生時代のことである。ローマの遺跡に見られるような、衛生的で高度な文明が存在していたのだ。
 英雄カエサルの言など米国大統領の発言のような感じさえする。

 繁栄を誇った帝国の衰退は前線の兵士に厭戦気分が広がったことにあるようだ。何のために戦うのかが次第にわからなくなってきてしまったのであろう。
 現代風にいうと「ローマの一国主義が破錠した」ということになるのだろう。当時あまりにも多岐にわたる遠隔の地にコミットメントをしすぎたこともあり、強大な軍事力を誇ったが収拾がつかなくなってしまったようだ。
 最後は蛮族と呼ばれる現在のドイツ人たちの先祖であるゲルマン民族に滅ぼされる。これはこの後の14巻、15巻あたりの話になるようだ。

 滅亡に至るもう一つの原因は、内なる要因でローマ人の退廃にもありそうだ。快適な生活と娯楽を無償でを与えられていたというのだ。最大の楽しみは今も昔も格闘技見物である。ローマ時代は猛獣が相手だった。
 市民の要求は次第にエスカレートして獰猛な動物が運ばれ、その開催回数も増えていったのだという。

 ひるがえって現在の日本を考えるのはうがちすぎだろうか。k-1格闘技を民放にチャンネルを回せば無料で見られるしその人気も高い。こんな極く一面だけを捉えて、こじつけみたいではあるが類似性をみてしまう。

 現在は日米が一蓮托生のような関係にあり、膨大な米国軍事費の一端をを日本も担っているようだが、いろんなことを考え合わせ、ローマ帝国への道をたどらなければよいがと思うのである。
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by watari41 | 2005-02-15 08:29 | Comments(6)

プライバシー

 前科者の氏名を公表すべきかどうかについての議論が高まっているようだ。軽度な犯罪も繰り返し犯行が重大な事件に結びつきやすいので、一般市民を守るという観点からである。 先ごろ起きた奈良での小学生殺害事件がこの議論に拍車をかけている。さらには出所直後の殺人事件などもおきている。

 日本では昔から犯罪者の人権を守ることに力点がおかれていた。明治5年式の戸籍簿には犯罪履歴まで記入してあるのだという。現在はこの戸籍簿を入手することはもうできないようだ。プライバシーを保護するということからのようだ。
 昔は家の歴史を調べることなどに役立っていたという。

 被害者に比べて加害者が特に未成年者の場合には保護されすぎていると思うことが多々ある。犯罪に年齢はあまり関係がないような気がするのだが。被害者の心情に思いやることが少ないような気がする。
 これは加害者の更生を期待するということからのようだ。
 
 一方では犯罪ではないのだが、自己破産者の場合には官報でオープンにされてしまう。個人の住所、氏名が誰の目にも明らかになる。年間20万人もの人が公表されるのである。この人たちは今度は直ちにヤミ金業者のデータベースに加工されますます窮地に追い込まれ、大変な不利益を蒙るのである。
 やむを得ない自己破産もあり、その氏名などの公表は気の毒と思う場合が多い。(ご近所の自己破産に係った経験からである)

 犯罪者にもプライバシーがあり、これを守るというのは結構なことである。だが何を守り、何を公表するかは法律によって定められているのだろうが、その法律にチグハグを感じることが多い。

 有名人にはプライバシーがないのかということで問題になったこともあった。だが、この種の人たちは自分に都合の良いことは公表してほしいが、都合の悪いことは隠しておきたいというようなことが多い。ご都合主義である。
 全てをオープンにするのならまだしも、選別したことのみを与えるというのは情報操作そのものになってしまう。
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by watari41 | 2005-02-13 09:05 | Comments(0)

進化論

 ダーウインの「進化論」は、その時々の環境変化に適応した「種」だけが生き残り「進化」を遂げてきたとするもののようだ。マンモスの寒冷化での絶滅など、必ずしも強いもの、または良いものが生き残ったということではない。

 その自然環境を人間が大きく変えてきている。ここ百年の間でも日本オオカミの絶滅など現在の環境に生存できなくなった生物はかなりの数にのぼるようだ。良い毛皮であったが為に人間に乱獲され絶滅に近くなった動物などもいる。

 こんなことを考えながら、ひるがえって技術の進化を眺めてみよう。人間界では純技術的なこともさることながらビジネスが絡んでくるのでやっかいである。パソコンの「OS」のことを思い浮かべている。

 ウインドウズが進化を遂げているが、マックの「種」の方が良かったのではないかと思うのである。良質な技術だと思われたのだ。だが、ウインドウズの「種」を持った人が商業的感覚に優れ、これを進化させ「XP」に至るがどうも悪い遺伝子を抱えたままに進化しているようなのである。そのおかしな遺伝子が時々顔を出してくる。
 さしづめ遺伝子治療を願いたいところだが、ウインドウズはその時々の対処療法で済ませてしまっている。
 パソコンがいらなくなるなどの劇的な環境変化がないと、ウインドウズは絶滅しないのだろうと思うのである。

 「一太郎」もいい「種」であると思っていた。それなりの進化をとげてきたが、特許権の侵害で販売を差し止められそうだ。これはよくみると訴えた側が自分の血もいくらか混じているのでケシカランとクレームをつけたようなのだ。
 純潔でオリジナルなもでないと駄目ということだ。生物はいろいろな血を取り入れながら環境対応して進化をとげたようだが、人間界にはいろいろと複雑なことがあり一筋縄ではいかない。
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by watari41 | 2005-02-11 13:57 | Comments(0)

警察の報償費

 宮城県の浅野知事が県警本部の報償費予算に大ナタをふるった。報償費とは捜査に協力したした人に支払われるものだが警察はこの公開を拒んでいる。今後の捜査に差しさわりがあるからという理由である。
 県知事ならずとも大方は飲み食いに使われているのだろうと想像されるのだ。
 金額だけが記入されていて、真っ黒に塗りつぶされた書類が公開されたこともある。
 ケシカランことだというのは簡単なのだが、この税金の無駄遣いのような飲食費が意外な側面をもっているようなのだ。

 10年以上も前のことになるだろうか、仙台の中心街のある高級な料亭が倒産した。その原因の一つとして当時問題にされた官官接待の自粛があるのだという。オヤオヤと思ったことがあった。
 また、その頃に噴出した問題の一つに役所の食料費というのがあった。民間企業、それも貧乏会社にいると理解に苦しむことだが、一面ではうらやましくもあり、これらが飲食街を賑わせていたことも事実だったという。

 現在、仙台のタクシー業界が苦境にあえいでいることは全国的にも有名になっているが、以前にはこれらの官官接待とか食料費のお客さんが多かったのだといわれている。
 自分の懐から支出するとなると大変なことである。出来るだけ安い店を探すし、タクシーにも乗らないで済ませる場合が多い。役所では逆に予算は使い切ってしまわなければならない。
 名目は何にしろ官からの支出は、街をうるおしていたことは事実だったのだろう。隠れた公共事業?の一種だったといえなくもない。しかし今や地方自治体にはそんな余裕はなくなり、昔話でしかなくなってしまったようだ。
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by watari41 | 2005-02-09 10:13 | Comments(2)