人間は誰しも高いところに上がるのが好きだ。「お猿さん」がご先祖なのだから当たりまえのことだとも言えそうだ。より高い山に登ることもそうなのだろうと思う。
しかし、一方では多くの人に高所恐怖症がある。私などはハシゴで5mも上るともういけない。足が震える。お猿さんとは別のDNAがどこかに入り込んだのだろうか。それとも、進化の産物なのだろうか。
スカイツリーは大都市のど真ん中にあることで、存在価値がある。450mの展望台というと、高さだけなら近くの山頂がそうだ。例えば福島県北部の新地町に鹿狼山というところがあり、似たような標高であり360度の景観は誠にすばらしい。ただ、そこまで登るのにたっぷりと一時間はかかる。山頂からは相馬・亘理地方一帯の田園と街並み、工場や周囲の山岳風景もすばらしいが、東京の光景にはとてもかなわない。近代都市の魅力である。
単に高いところから見下ろすだけなら、飛行機から見ればよいことだ。現在は、かなりの上空を早い速度で抜けてしまうが、低空でゆっくりの時代もあった。YS11の時代を回想している。仙台から大阪まで2時間もかかった。当時は東京上空の飛行コースで、かなり長い時間に渡って都市を見下ろしていた気がしている。それとスカイツリーは何がちがうのかなどと言うのはアマノジャクと言うべきか。いろんな催し物に趣向をこらしているようだ。
テレビ報道の過熱ぶりもすごい。スカイツリーを見に行かざれば日本人にあらず、みたいな感じにもなっている。東京に出来るから名所になるとも言える。しかし、タワー形状に益々日本人の一極集中が進んでしまう象徴的な感じもしている。何でも東京が吸い上げて登っていく。そして電波によって発振される。
経済効果が計算されている。何でも換算しないと気が済まない。GDPをいくら押し上げようと、今や次の時代の価値観が頭を出しかけているようにも思えるが考えすぎであろうか。
①さる葬儀式場に地元大銀行の花輪があったということを聞いた。めったに見ないことである。従業員でもなければそんな縁があるとこでもないのだという。町内の大概の人は日常生活の利便性もあるので、この銀行口座は所有している。さては預金量なのかと思ったそうだ。支店長氏曰く「千万円では花輪は出ません」ということだ。と、いうことは億の単位でなければならぬのかと思ったものだ。そういえば、故人は高速道路とか宅地開発で大量の土地が売れたとか。
②お役目のことながらもあるが、町内のいろんなお宅をご訪問することがある。玄関を入った途端に、この家は豊かなところだと直感することがある。ご高齢の夫妻ながら2人ともに学校の先生だったりする。民間人の年金だとこうはいかない。2人合わせての上限があるそうだが、私などには無論のこと縁のない話だ。何故豊だと感じるのか、冬などは特にそうだが、扉を開けると暖かい。おそらくはオール電化なのであろうと、特に羨ましいとも思わないのだが、それなりの悩みはあるのだろうと玄関を出る。
③大震災のことであるが、被害農家に共済金が出て、わが農協の預金量がいきなり200億円増加した。農協会員は5千戸なので、平均400万円。しかし私のごとく名前ばかりの会員が半分以上のはずだから、実際には巨額をいただいた人も多い。しかし家から農地まで歴史の全てを失った方にしてみれば、お金どころではないということになりそうだ。幸いにして、これは一年過ぎてもほとんど引き出されていない。被災者は頑張っておられるのだ。通帳は最後のよりどころでもあるはずだ。
④原発の計画避難区域では一人当たり月額10万円の補償金みたいなものが出ているそうだ。今時は珍しいことだが、子供を入れて7人家族だと70万円となる。しかし、その区域からわずかに離れたところでも自主避難している人は補償金ゼロのようで、ものすごい不公平感があると聞いた。これまた原発近くでは、生きているうちには帰れないと思う人もいるのだろうと、それはつらいことであろう。
いつの時代、どんなことでも街中では噂話が飛び交う。下衆の勘繰りである。そうやっているうちに時は過ぎゆくものだ。昔と比較すると下世話な話は少なくなったように回想している。時代の変化なのかもしれない。
仙台の繁華街近くに斉藤報恩会ビルと自然史博物館があった。これは近々取り壊されて、NHK仙台の新しいビルができ、今は街の中心よりやや外れた感のある放送局が引っ越してくることになっている。
もともとのビルの所有者である斉藤さんは、石巻市北方の大地主だった。酒田市の本間家はあまりにも有名であるが、それに次いで全国第二位の土地を所有していた。明治から大正にかけての当主である斉藤善ェ門さんは、財産は私のものではなく、神仏より授けられたものだとして公(おおやけ)に使うものだと考えていたのだからすごいものだ。
大正12年に現在のお金に換算すると300億円を投じて、科学技術の振興発展にと斉藤報恩会を設立した。これには文部省の認可を受ける必要があり、お役所でも初めのケースであり、相当に面倒な手つづきがあったらしいが、斎藤さんは私財を寄付するにもかかわらず、黙々とお役所に通ったのだと言う。
このお金で、東北大の八木さんはテレビのアンテナなどで世界的な大発明であろう八木アンテナを作って現代人に恩恵を与えた。等々、近代の発展に大きな貢献を果たしている。
これを先例に財閥の三井報恩会などが後にできたのだとされる。
この斉藤さんに、わが町から明治初期に北海道伊達市に移住した3千名近い方々がお世話になっている。北海道に移住完了はしたものの開拓資金に窮していたのである。現在のように政府や銀行が融通してくれるわけではない。困り果てた移住のリーダーである家老だった常盤顕充は、融資してくれるのは斉藤家しかないと決死の覚悟で石巻に出かけた。善ェ門さんは、上記の如き矜持を持った方なので、伊達家随一の名門たるところが、そのような状態とはということで、記録には残っていないが現在換算で100億円程度を30年の年賦で貸し付けてくれたのだという。それを満期の大正2年には利息をつけて、すべて完済したというのだからこれまたすごい。常盤さんは、その年に82歳で亡くなった。
この話は後に、斉藤家に養子に来られた方から当町の方が伺っている。借用書もなかったのではなかろうか。
これは、少し後年になるが、当町より小学校を出たのみで東京で昭和初期に土建業として大成功した阿部亀吉さんという方が、昭和19年に私財20億円(現在換算)を投じて宮城県の学術振興にと阿部報公会を設立したのである。しかし敗戦とその後のインフレでその価値がなくなってしまった。阿部さんは、それにもめげず、戦後は仙台での事業をはじめたのだが惜しくも50歳代半ばでたおれてしまった。
偉人というのではないが、そんな昔の人たちのことを回想している。現代の大金持ちはどんな矜持を持っているのかと思う。
自然現象の中でも、天体に関するものは極めて精度よく計算が出来ている。21日には金環食がある。秒の単位まで狂わない。天文現象の計算は2千年前のギリシャの時代から理解されていたのだから驚く。
壮大な宇宙現象に比べれば、地球表面のことなど取るに足らない自然現象のはずだが、これが未だ計算できないのだから何ともアンバランスなことだ。
連休最後5月6日の巨大な竜巻の発生も、予測というか計算が出来ないでいる。先日の太平洋岸の大雨も降りそうだということはわかるが、どこに何mm降るのかまでは計算できていない。ベガルタ仙台のサッカー競技場に大きなヒョウが降り注いで試合が出来ず、選手は調子を狂わされ、負けなしの記録がストップした。天気に八つ当たりしても仕方がない。
気象庁には最も優れたコンピュータがあるそうだが、未だ計算できない領域なのだろう。計算するには細かな観測データが必要である。このデータが決定的に不足している。
遠くで雷がなり、周囲が暗くなったら注意してください、と、いうのでは科学技術の現代にあっては誠におかしなことだと思っている。この分野では100年前と変わらないことになる。
大気圏内の現象解明が遅れているからに他ならない。数値化されていないのだろう。テレビでは人気の天気予報士が冷たい気団と暖かい気団があって・・・と、定性的な話に終始する他にない。これが現在の観測レベルなのであろう。
地球上の嵐や、地震・津波も宇宙規模からみれば、取るに足らない小さなことでしかない。これによって宇宙の運行が狂うなどということでもない。しかし、それによって人間の運命が大きく狂ってしまうことも数多い。
何とかならないものかと思ってしまう。将来は5km四方での確実な天気予報もできると言われているが、何時のことになるのだろうか。
気象データの蓄積には、衛星など宇宙からの観測も欠かせないようだ。まことに薄い大気の膜でしかないが人間を含めて全生物が生きていく上では最も重要な存在である。大昔の人々は神が暴れたと思うしかなかったのだが、我々の存命中に計算が出来上がることを願っている。
宮沢賢治の「風の又三郎」を読んだことを回想しているが、現実はその解説的読み物からまだあまり前には進んでいないのだ。
船岡(宮城県柴田町)が桜の町と呼ばれるようになったのは、そんなに古いことではない。大正12年に高山さんという東京に働きに出た人が、望郷の念にかられて大河原に至る白石川堤防上に千本の桜を植えたのが始まりなのだという。
船岡駅には石川啄木の歌碑もある。
『はるかに北に ふるさとの山みれば えりを正すも』
これまた望郷の思いが強かった人である。啄木は明治の人だから、その時代に現在の桜はまだない。
船岡は山本周五郎作の「樅の木は残った」ですっかり有名になった。小高い丘に樅の木を中心に公園が整備され、一目千本が見渡せる。この山もまた桜で埋まる。今や少々の桜には驚かなくなっているが、町の全体に桜の雰囲気が漂うのはあまり類をみない。
「樅の木・・」の大河ドラマはもう40年以上も前のことだ。その頃は、ここの桜もまだ若々しかったに違いない。今やすっかり老樹の風情が漂う。樅の木にも風格がでてきた。そんな時代を回想している。
樅の木・・、すなわち伊達騒動の主役だった船岡の舘主である原田甲斐は5千石で仙台藩の奉行職にあった。だが甲斐は相当に貧乏をかこっていた。藩主に従って江戸に行くためには2千両のお金が必要だったのだが、5千石の身で仙台本藩から借用できるのは千両のみであった。甲斐は山を一つ越えた隣の亘理に泣きついた。亘理領主は2万4千石で仙台藩随一なのである。豊かであった。
その借用書に印を押したのは、亘理4家老である。その一人の手記によると、殿様がすでに了解しているのであるから我らも認めるしかないというものである。殿とは言っても病気の幼君であった。そして貸し出す時には幼君は死亡している。きわめておかしい事情なのだが、これは甲斐が前領主の婦人とは言ってもまだ20歳程度なのだが、その未亡人と昵懇の仲なのだから何ともやむを得ないと他の家老から言われて印したそうである。
原田甲斐は、こんな傍証からみると、気前の良い色男でもあったようだ。なおかつその手記には本藩の要職にあって私腹を肥やそうとすればできたはずだが、それもしなかったという潔癖性も持っていたようだ。
私は甲斐がおそらくは借金でノイローゼになっていたのではなかろうかと思っている。最後には江戸の酒井藩邸での刃傷事件で終結するのだが、錯乱状態の中で刀を抜いたのではなかろうか。先日のNHKで鬱病患者が抗うつ剤で自殺に至るというのを見た。漢方薬にもそんなものがあったのだろうか。色男、金と力はなかりけりという言葉を思い出す。
「熱しやすくて冷めやすい」は、日本人の一大特徴なのかと思っていたが、中国人はもっと極端なのだというのだから驚いてしまう。
「私はなぜ中国を捨てたのか」ワック㈱発行で石平さんという2007年に日本に帰化した人の著作を読んだ。
内容は日本礼賛に満ち満ちている。読んでいるこちらがクスグッタクなるようだ。曰く「孔子の儒教精神が未だに生きづいているのは日本において他ならない」とか!。

著者は1962年の生まれであるからまだお若い方である。だがそれまでの人生において、文化大革命、天安門事件、江沢民時代の嫌日思想教育などを見ていて、中国がつくづくいやになったのだという。
毛沢東は、その右腕とも言われた林彪によって自分の権力が脅かされていると見るや号令一下、「批林批孔」という、今からみると奇妙な文化大革命という運動を展開して、若者を熱狂させ何千万人もの人命を奪い、過去の文物を破壊しまくり、孔子をもやり玉に上げて自分の権力基盤を再構築した。
天安門事件の当時は、毛沢東時代など以前の弾圧的な空気もあって中国にも自由が生まれるのかと思ったが、鄧小平は権力維持のために武力弾圧を選んだのである。一方では国民に社会主義市場経済と称する経済的自由を与えるのが権力掌握には好都合だと考えたのだ。
江沢民時代になると、権力中枢を占めた人たちが国内の思想統一を計らないといずれ大変なことになると考え、外に敵を求めたのである。その仇役として日本に矛先を向け、排日教育に力を入れたのだという。丁度現在の北朝鮮が韓国の李大統領をネズミだと非難して、北の新指導者が国民の意思統一を計ろうとしているのと同じことである。
天安門事件当時には、現在のような排日的な気分はなかったのだという。悠久4千年の文化という割には、国民感情は実に移ろいやすいものだと作者は感じているようだ。現在は拝金中国でしかない。(日本も似たようなものだと思うが)
その文化は、海を渡って東端にある日本で独特な要素が加えられ見事に花開いていると言うが、かなりほめ過ぎている。
かつて、数十年前には日本ではまだ中国礼賛的な論調が幅をきかせていたことを回想している。現代史もまた、次への権力継承をめぐり激しく動いている。
ご町内に90歳に近いがカクシャクたる方がいる。10年ほど前までは仙台への列車でよく見かけていた。東京での業界の会合に出席するためなのだという。この方は薬剤師さんなのである。
それまでは、あまり考えたこともなかったが、薬剤師というのは、一生涯食べるに困らない「資格」なのだと思ったものである。厚生省が厳重に管理している。
その一方では、全く役に立たない資格というのもたくさん存在している。資格を取得するときには、将来何らかの飯のタネになるのだろうと思っていたことも確かなのだが、残念ながら役に立った資格はなかった。
変化の激しい業界だと、ことさらにこの感を深くする。コンピュータ関連では、その揺籃期にはコボルとかフォートランとかの言語があって、その資格を得ていると一生食いはぐれることはないなどと言われたことを回想している。話だけで、私は幸いというかそういうものには触れたことがなかった。
退職した後で失業保険の期間中に、何らかの資格を取っておいてくださいと言われて、パソコンぐらいはと思いMSオフィス97の上級認定の資格を得たが、これまた今やオフィス2010となり、昔の知識は役立たないことを思い知った。昨年だったか、まだP検3級ぐらいは大丈夫でしょうと言われテストを受けて資格を得たが、今年にはP検そのものがないらしい。
古い話になるが、ソロバンとか計算尺の資格もあったのだ。世の中はすっかり変わってしまった。資格は今や趣味みたいな領域に入っている。漢字検定とかがそんなことだ。そういう割り切り方をしていればよいのだろうが、そんなことでボロ儲けをしている人々もいる。
資格商法に引っかかる人々もまだまだ存在する。最初に大きな初期投資をさせるのだ。世の中そんなに甘くはない。
最近は病院通いも多くなった。その都度薬局に行かなければならないが、目の前の薬剤師さんたちを見ていて良い職業についた人たちだと思うのである。
亡くなった本人から自筆の死亡通知がきたらさぞかし驚くであろう。
実際にそんなことをやった人がいたのである。ネット記事にあった。
小林克己さんという方である。巳年生まれなのであろう82歳の方だった。郵便を受け取ったのは読売新聞会長渡辺さんとか現代の著名人数百人である。私は小林さんという方を初めて聞いたが、死亡通知に書いてあるお別れの言葉を読むと100%共感できた。私もこんなことをやりたかったのだが先を越された。
弔意はいらない。自分が生きてこれたのは皆様方のお蔭である。
一個の生命体が終わり、灰となったのだけだ。葬送なども必要ない。
何とも爽やかなことだ。もちろん本人が生前に書いておいたものである。死亡後に親族が死亡年月日と、入院先などを記して郵送されたものだそうである。
私は、数知れない葬儀に参列しているが、その都度何ともむなしいものを感じている。こういう儀式は早晩無くなるにちがいないと思っているのである。ただ、葬送を職業としているお坊さんからみると困ることになってしまう。真面目な坊さんは、亡くなった人を弔うのが自分の使命であるとして、今次大震災においても真剣に取り組んでおられる和尚さんもたくさんいることもこれまた事実である。
私などのように中途半端な物理的知識を持っていると、死亡の意味などは何も無いことで、上記の小林さん同様の思いにしかならない。
宗教を学ぶことと、信じることとでは全く異なる。見かけ上は、檀徒であるお寺の仏教徒なのであるが、信者であるかというときわめて怪しいことになる。
霊界の存在とかも、現代ではすべてが脳のなせる業であると解明が進みつつある。
しかし、長年の習慣は一朝一夕には改めることが難しい。ましてや田舎においてはなおさらの感がある。バカバカしいことだと思いながらの行事はたくさんある。しかし急激に現代社会で失われてしまった行事も数多い。子供の頃の棟上げ時の餅まきとかも回想している、最近までは見かけることがあったが、やがて消滅するのだろう。それぞれに言われはあるのだが、形式的になり、やがては無くなってしまうものが多くある。
生前に遺言とはまた別な意味での死亡通知を書いておくことが一般化するのかもしれない。
ご参考までに小林さんのことが書いてあるURLを記しておきます。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120331/stt12033112010002-n1.htm
福沢諭吉の「一身にして二世を経るが如く」は有名だ。江戸時代と文明開化した明治時代を生きた感慨である。偉かったのは、当時誰もが賞賛していた西欧文明の限界を見通していたことにあると言われる。
我々年代は、激しい変化の時代を生きて既に5世を経たような感覚を持つが、これからの将来のことなどは全くわからない。混沌とした世の中になるのだろうというくらいが想定できる程度である。
一時的な流行だろうと見られた韓流ブームが今やすっかり定着している。考えてみれば、もともとの日本の文化は朝鮮半島からもたらされたものである。中国から直接招来たものもある。日本に定着してから、この風土になじむように改良されて現在に至っているのだとみて間違いないのだろう。
我々より前の世代には明治以降中国・韓国を植民地化して蔑視する風潮があったが、現在の人々の底流には、もっと昔の時代の血脈があるのではなかろうかと考えることがある。無意識に韓流を受け入れているのだと思う。
福沢諭吉は、江戸末期の年号である天保の老人と称していたそうだが、我々はさしずめアナログ老人とでもいうべきものなのかもしれない。世はまさにデジタル万能の時代を迎えている。デジタルだからこそ、こんなことができたということが沢山ある。しかし、それで世の中、万々歳なのであろうか。
「絆」がこれほど強く叫ばれているのは、人間関係もデジタル化というかバラバラになってしまったからに他ならない。絆の実態はガレキ受け入れ難行の如く何ともはかないものである。
昔の人が現代にタイムスリップしたとしたら、その文明に驚くと共に、孤独感にはとても耐えられないと逃げ出しそうだ。濃密だった昭和20年代の人間関係を回想している。祖父母を共有する従兄弟会を先日行った。その子や孫からは、どうしてそんなに親密なのかと問われたそうである。これからの人々に人間関係を取り戻せることはあるのだろうか。

久しぶりに面白い小説を読んだ。「中原を翔る狼」文芸春秋社刊、著者:小前亮である。書き下ろし作品で、今年2月に刊行されたばかりである。史上最大の帝国「元」を作り上げたクビライハーンの物語である。チンギスハーンは大征服を成し遂げたが、それだけでは不十分で大帝国を「統治」することが必要だった。チンギスハーン亡き後に激しい権力闘争が起こったが、最後の最後に勝ち残ったのは孫の一人であるクビライだった。小説には覇王たるクビライの人間的魅力が存分に描かれている。投降してくる漢人や異民族でも能力があれば引き上げて統治機構の重要なポストや将軍としている。クビライ側近の人々やその個性を見事に書き上げている。
著者がこれまで、何等の文学賞も得ていないのは不思議なことだ。これから大きな賞を得ることであろう。
クビライは、何故に大ハーン位を狙うのかと側近に問われて「不本意な命令を受けたくないからだ」と答える。しかしその地位を得た後では、「不本意な命令でも出さざるを得ないことがある」と嘆くのである。
史上最大の英雄とされるローマ帝国を築いたカエサルにも似たような逸話があった。
また。クビライは、大宮殿を築いた後でも遊牧民たる本質を忘れてはならないと、宮殿の脇に小さなテントを張って夫妻で寝泊まりしていたというのだから面白い。
中国はかつて二度にわたりモンゴルの支配を受けた。「元」と近世の「清」帝国である。現在の中国政府はかつての清帝国の領土を一元的に支配すべく、チベットや台湾の独立は認めようとしていない。漢人は歴史上様々な支配下に置かれるうちにたくましくなったといわれる。
クビライの日本遠征失敗については、著者はさらりとかわしている。小説の本質ではないからだ。私はもともとこんな小説が好きだ。高木彬光の「ジンギスカンの秘密」を呼んだのはもう50年も昔のことだと回想している。
本日(4月1日)の新聞を見て驚いた。見開き2ページにわたる大広告が掲載されていた。これまた縁側でのヘタクソ写真で紹介する。

河北新報は50万部とも言われ、東北のブロック紙でもある。新聞社の3.11の長い一日というのが話題にもなった。
ガレキの姿は、映像ではなかなか紹介しきれない。その中に入り込んでしまうと、両側はガレキの壁となる。春先の雪の壁というのは、多くの人が目にするところだが、ガレキの壁はもう何百年も見られない光景かもしれない。
同時に今日の新聞には、京都で瓦礫持ち込みの反対が大きな声であるとも報じている。発生したガレキは地元で処理するしかないのだろう。近隣市町村でも続々と建設されるようだ。
大震災では津波が押し寄せなかったこの街中の姿をも大きく変貌させている。古い建物がどんどん壊されているからである。
昔の大金持ちといえば、酒造家や油屋さんであった。そんなところは、今や固定資産税とか、ましてや取り壊しの費用も捻出できないのではなかろうかと他事ながら心配していたものである。しかし公的負担で跡形もなくきれいに始末してくれた。それらの方々はそれまで、多くの税金を納入していたはずだから、それもまたよしとしなければならないのだろう。
油屋さんのところは、3000坪もの広大な更地となった。住宅会社が買い上げて宅地となれば幸いなのだがどうなることであろうか。
お隣、岩沼市の酒屋さんも同様である。80歳代のご当主は愕然たる思いのようであるが、時代の流れは如何ともしがたい。
ご町内の酒屋さんの立派な庭も潰された。バブルの頃なら億単位で買う人もいただろうが、パワーシャベルは容赦なく枯淡の味わいある植木を引き抜いていく。わずかに残った庭の水路がある。酒屋さんの盛時には水路に籠が吊るされ、天然うなぎが何匹も入っていた。客人があるとそれは捌かれて、かば焼きになるのだった。
酒屋さんの親戚である佐藤栄作さんがきたこともあった。半世紀以上も前の回想である。


