父のこと

 妻の病状については、いろいろとご心配をいただきありがとうございます。緊急治療の結果、厳しいながらも若干の小康状態を得ております。どんな時代でも、家族の看病は大変である。ずっと病室にいるのもつらいので、時にはブログを考えたり、気晴らしに出ることもある。

 60年以上も前のことになるが、、母は父の看病をしていた。その時の回想をよく聞いたものだ。その父は存命だと百歳になる。残念ながら昭和19年に38歳の若さで去った。私には、父の記憶はほとんどない。母や周囲の話、写真、書き物、作ったもので偲ぶしかないのだ。

 父は中学生の頃の怪我から発した病気で、体の自由が制限されていた。昭和10年頃、あまり動かずにできる商売として、当時としては最先端の業種だった「ラジオ屋」を開業した。田舎では珍しい時代だったので、大いに繁盛したようだ。年配の方々からは、私はいまだにラジオ屋の息子さんといわれることがある。

 天体にも興味を持っていた。腕のいい大工さんに反射型望遠鏡を作ってもらい、星空を眺めていたのだという。3インチ程度の小型なものながら、精巧な造りで土星の輪くらいは見えたのであろう。
 大正末年の日記が残っていて、当時のよすがを知ることができる。親戚づきあいなどは現在からみると極めて濃密なもので、風呂をもらいに行ったり、同じ家といってもよいくらいの親しさだったことが伺える。

 父の叔父や叔母の結婚式の様子なども面白い。テレビドラマなどで、その時代の情景は画面からも知るこができるが、現在のように会館での式ではなく自宅での宴会が延々と続くのである。おまえも何かやれといわれ剣舞いをやったとある。お嫁さんに付き添ってきて泥酔した方々を駅まで送り届けたり、まさに家中をあげての一大イベントだったのである。我が家の貴重な記録だと思っている。

 友人との東北無銭旅行記などもある。また当時の科学知識に基づいた雑感や、青年からみた無常観などを記したものもあり興味深い。大正期には現在の北朝鮮に渡って郵便局の仕事をしていた父親(私の祖父)をたより、数ヶ月間滞在したこともあって、当時の若者の流行だったのであろう自分の「雅号」を満州との国境にある名峰を拝借して「白頭山人生」と称していた。書き物の最後には名前の代わりにこの雅号が記されている。

 父は20歳頃まではいろんな記録を残していたが、晩年は商売が忙しかったり、病気のことなどもあって、書いたものは残っていない。長生きしていたらどんな回想をしたのだろうかと思うのである。
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Commented by akiyama at 2006-10-19 10:30 x
 Watari41さんのご尊父と私の父とは、ほとんど同い年です。
 時代の先端を捉えるのも似ています。ラジオ屋とは凄い…
 私の父は乗用車の免許をとり、写真機を愛用し、ビリヤードに親しみ、英国を尊敬していました。
 日記をつけていたとか、それが残っていてワタリさんが読むことが出来た。よかったですな~羨ましい…
 私の父も日記をつけていましたが、戦災で全部焼けました。
 ワタリさんの仕事もご尊父の遺伝が現れていますね。
 この欄で読むように、科学的なことから、哲学的なことを見詰める記事など、ご尊父が見たらニヤニヤすると思います。
 とにかく、明治生まれの人の生き様には、感嘆することが沢山ありますな~
Commented by watari41 at 2006-10-19 22:03
 写真機もやってました。ガラス乾板がたくさん残っていました。現像や焼付けの道具もそのままありました。2眼レフのカメラです。
 akiyama さんの自伝「雲は流れて」を思い起こしてますが、ここは幸いにも田舎でしたので、全てが残りました。コメントをありがとうございました。
by watari41 | 2006-10-19 09:23 | Comments(2)