郷里の英雄

 我が町の今回郷土史は110号になるだろうか、その発行に際して、ページが空いているのでと、無理を承知で何とかと原稿を依頼されてた。
 正月休みにと文字通り軽い気持ちで引き受けたが予想外に手こずってしまった。平易に書こうとするとなおさらに難しい。提出してから間違いに気付いたりしている。
 時間のある方はお読みください。一万文字くらいはありそうです。

                亘理権太夫藤原経清生誕千年                                                             
1.はじめに
 康平5年(1062年)、前九年役において、安倍頼時(頼良)・貞任親子に味方して敗れ、勝者の源頼義によって斬首された亘理権太夫藤原経清は「陸奥話記」によって知られている。この軍記を基に現代では高橋克彦氏による小説「炎立つ」の主人公となり、NHK大河ドラマでも放映された。
 亘理権太夫というからには、亘理郡一帯を支配していたのは間違いないが、「陸奥話記」による活躍の舞台は宮城県北より岩手県南部にかけてであり、本拠地である亘理郡には、その痕跡が何ら見つかっていないのは誠に残念なことである。
 亘理権太夫の盟友ともいうべき伊具十郎こと平永衡の居館は、かつての伊具郡内においてほぼ特定されている。
 山元町の中島館跡が亘理権太夫の居館として有力視されているが、確実な物証は何もないのである。
 経清が斬首された康平5年時の没年齢も不明である。このため生存期間について諸説が飛び交うことになる。
 官位が従五位下で、合戦において安倍軍に参ずる時には手勢800名を引き連れていたというから、かなりの財力を蓄え、それ相応の年齢でなければならない。また後に平泉の栄華を築く息子の清衡は、亘理権太夫死亡時に6歳だったので、経清がそんなに老齢であるはずもない。
 筆者は、これらの条件に合致する生誕年として1014年が妥当ではないだろうかと考えたのである。すると亘理権太夫藤原経清は48歳にして敗死したことになる。この前九年役で、前妻との間に設けた20才前後の長男と次男も戦死しているという説もあるので、おかしくはない年齢なのである。
 平成26年(2014年)は、奇しくも亘理権太夫生誕千年となるのである。無理にこじつけた感がなきにしもあらずだが、ちがいがあったとしても数年以内のことであろう。
 千年の昔に亘理の歴史上稀にみる英傑が現れた記念すべき年ということになる。

2.陸奥話記
 作者は不明である。千年前にも歴史的戦記を記録した現代風に言うなら「ドキュメンタリー作家」がいたのである。作者は当時の宮中にあって陸奥国からの公文書を読める立場にあり、なおかつ参軍した人たちの話を聞いてまとめたものと推測されている。その内容から東国に係ったことのある都の貴族が書いたものとされている。
 このような書物がなければ我々は、亘理権太夫藤原経清の活躍を知ることが出来なかったのである。その原文の読み下しは筆者などには到底手に負えるものではないが、江戸時代になって読みやすい漢文に変換されている。それでも手に余るものなのだが、これをさらに現代語の口語文にしてくれた方がいるのだからありがたいことである。
 いずれも今やインターネットにて、居ながらにしてこれらの文書に接することができるのである。歴史への楽しみを大いに増してくれている。
 「陸奥話記」には、戦に加わった人々や周辺の人々など実に多くの人物名が登場する。生き生きとした当時の確かな記録なのである。

3.平安中期の状況
 亘理権太夫藤原経清が活躍したのは、平安時代中期が終わるあたりから後期にかけての11世紀中ごろである。その少し前に京の都にあっては藤原氏が全盛を極めていた。なかでも朝廷を巡る一族の権力闘争に打ち勝って頂点を極めたのは、藤原道長である。
 この世をば 我が世とぞ思う 
         望月の 欠けたることも なしと思えば
 という一首が知られている。また紫式部日記にも、道長の当時の状況が記されている。
 さすがの道長も、晩年の寛仁元年(1017年)には、権力の座を嫡男の頼通に譲り渡した。亘理権太夫藤原経清がまだ3才の頃である。大きな時代区分では、まだ古代とよばれている。
 では、その頃の陸奥の状況はどうであったかということになる。
 遡ること200年も前の801年に、坂上田村麻呂の陸奥大遠征があり、東北地方一帯は壊滅的な打撃を被った。その後は比較的平穏な時代が続き陸奥守も常時置かれてはおらず、陸奥守不在の期間が長く続いた。道長の全盛期である995年に至って藤原実方(通称中将実方と言われ歌人でもある)が就任した。
 しかし着任4年後に名取郡で乗馬中の事故によってあえなく命を落とした。笠島道祖神の前を下馬せずに通過したための神罰だとされた。しかし当時の状況を考えると、現地の豪族による謀殺説もあり得るようだ。
 中将実方の墓を訪ねて、12世紀の歌人西行が一首を残した
  朽ちもせぬ その名ばかりを 
       留置きて 枯野の薄 形見にぞ見る
 ずっと後年の17世紀には松尾芭蕉も奥の細道紀行で、その墓と西行の一首をたずねんとしたが、場所がわからず「笠島はいづく」として、見つけることができなかった。現在は大きな看板が出ていて誰にでもわかる。そんな文学上の余話もある当時の陸奥守だった。
 本題に戻すと、戦乱の収まった平安初期から中期にかけて東北各地の豪族は徐々に力を蓄えつつあったのである。
 なかでも抜きんでていたのは奥六郡に勢力を張る安倍氏、さらに出羽の清原氏である。
 陸奥守派遣は、これら地方豪族にとって歓迎されざるものなのである。税の徴収を目的としているからである。しかし中将実方は税の取り立てがうまくいかず、かなりの滞納分を残したままに亡くなったとされる。実方の死後に陸奥守に任ぜられたのは道長に仕える武人の源満政が999年に就任している。滞納している税を取り立て、さらには就任した年、そして1004年・1005年にも道長に陸奥の名馬を貢じている。
 では、この頃の亘理郡はどのような状況であったのだろうか。残念ながら皆目わからないのである。当時の遺構を物語るものとして発掘調査された逢隈の三十三間堂官衙遺跡は、平安時代初期から存在した亘理郡衙跡で950年頃まで存在したと推測され保存状態の良好な大規模遺跡なのであるが、現在までの調査結果では木簡であるとか書き物で裏づけされるものが出土していない。亘理権太夫藤原経清が活動した11世紀当時にはもう機能していないのである。
 このような空白ともいうべき状態が亘理権太夫藤原経清が活躍する舞台であったとも言える。
 隣の山元町では、大震災に絡む復興事業の一環として、常磐線の路線変更や高速道の延伸工事があって、幸いにもそれに伴う遺跡調査が進んでいる。坂元地区の「熊の作遺跡」では、8世紀初頭の頃に、他所から移住した当時の住民異動に伴う木簡であるとか、古代豪族であっただろう坂本氏の「坂本願」と墨書された壺底部分などが出土している。おそらくは祭器に使用されたと見られる

4.藤原経清の幼年から青年期
 経清が誕生し幼い日々から青年期を迎えるまでは、父親・藤原頼遠の領地であった下総(現在の千葉県北部)の一角に過ごしたのである。
 1028年、房総半島一帯に勢力を誇っていた平忠常が反乱を起こした。藤原頼遠も加担したのである。その乱は4年後の1031年に敗北で終わった。経清17歳である。
 乱を鎮定したのは、河内(大阪府)から遠征した源頼信である。後に経清と前九年役で戦うことになる源頼義の父親なのである。当時源頼義は相模守(神奈川県)であり当然ながら参戦していると考えられる。また頼義の弟である頼清も父親と共に参戦し鎮定に加わった。

    源頼信   頼義   義家  ・・・  頼朝
           頼清
 
(頼信は河内源氏の初代である。また頼義の子義家は、通称八幡太郎と呼ばれ後3年役で
 活躍する。さらに4代の孫には、鎌倉幕府を創設する源頼朝と続いている。)
 
 平忠常反乱の鎮定功績で頼義の弟頼清は,1031年に陸奥守に任命されるのである。
 その陸奥守となった源頼清に藤原頼遠・経清親子が敗戦での苛酷な処罰を受けることもなく郎従として陸奥亘理に来たという説もある。
 また他方、藤原頼遠が、敗者にもかかわらず最初から陸奥国亘理郡司として配されたという説もあるのだ。その場合には息子の経清をはじめ一族郎党を引き連れて亘理郡に移住してきたのである。当時は逢隈にある亘理郡衙が機能を失ってから80年以上も経過しているので、建物も無くなっているだろうし、かつての郡衙跡に住んだとも思えない。そんをなことから山元町の中島館跡が有力視されているのだろう。
 いずれにしても経清は、亘理郡で活躍することになる。亘理での活動は前九年役の始まるまでの20年間ほどでしかないが、さらにこの間に、都にも出ているので、実働期間はいくらもなかったはずである。それなのに800名の手兵を養う財力・軍事力を備えるに至ったのである。亘理には富の源泉があり、かつそれを生かす英邁さを持っていたに違いないのである。
藤原正頼  頼遠  経清  清衡  基衡  秀衡      
 
(経清は一部の古書には正頼の子供であり、頼遠は存在しないというものもあるが、
 筆者は藤原氏の系図を記載している「尊卑分脈」が正しいと考えられるので、
 その第5巻の記述を採用している。また経清は平泉の藤原氏3代の祖でもある)

5.亘理郡の富
 山元町在住の菊池文武氏は私家版「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」で、古代の亘理郡が製鉄事業で大いに潤ったとしている。
 山元町から亘理町南端の「はなれ遺跡」にかけて、おびただしい製鉄遺跡がある。正式な発掘がなされていないので、何時の時代のものなのかはわかっていない。
 だが、隣接する福島県の沿岸部では発掘が進んでおり、南相馬市の金沢遺跡や新地町の武井遺跡などで大規模な製鉄遺跡発掘があり、分析・調査・研究が進んでいる。これら遺跡での産鉄の最盛期は8世紀末なのである。
 これは、坂上田村麻呂が率いた十万人とも言われる大部隊の遠征に関わる時代と一致しており、武具を現地調達したのだとみて間違いないようだ。鉄は近代に至るまで、戦争によって大量に消費されるのである。
 2005年に出版された「律令国家の対蝦夷対策:相馬の製鉄遺跡群」著者は飯村均氏、新泉社刊に詳しい記述がある。
 この相馬地域での発掘調査は福島県で実施されたもので、その延長線上にある宮城県側の亘理郡にまで及んでいないのは残念なことである。
 では、亘理郡の鉄はというと、経清が亘理に着任後であるが、200年前に一度は相馬で最盛期を迎えた製鉄事業を再開したのではないのかと推測されるのである。
 経清が登場した頃には、奥州も平穏な時代が終わり戦乱の臭いが強くなってきていたのである。山元町一帯の海岸には良質な砂鉄が打ち上げられる。古くからの製鉄も細々と続いてはいただろうが、経清が大規模にこれを再開したと考えるのが妥当である。亘理を支配した経清は、古くから伝えられている製鉄法に改良を加え、武具や刀の制作により適した鉄を生み出したのだろうと推測される。
 山元町合戦原の周辺には鉄滓(製鉄時のノロ屑)が数多くみられる。本格的な発掘調査が待たれるのである。年代や製鉄方式が明らかにされることを期待している。
 さて、当時のことだが、安倍頼時・貞任親子も当然ながら時局には敏感なはずだった。経清が売り込んだのか、安倍氏側からの誘いがあったのかはわからないが、両者の利害は一致したと思われる。鉄を供給し、安倍氏側からは都で喜ばれる物品が提供され、それらの交易で経清はまたたく間に財を蓄えた。
 また製鉄には、多量の木炭を必要とするので、亘理郡の山のみでは足りない。山林資源の豊富な伊具郡と組むのは自然の成り行きなのである。伊具には当時朝廷の荘園があり、伊具十郎こと平永衡が管理していたのである。これらの交流は、安倍氏からみれば両者との絆を強め陸奥での自らの体制を強化することになる。安倍頼時の子供、貞任の妹である娘2人を亘理権太夫と伊具十郎の両者に嫁がせることになるのである。
 経清の財力を示すものとして、藤原鎌足・不比等ゆかりの寺院であり藤原氏一族の寺でもある興福寺が、幾度かの火災に遭うがその都度再建されており、1047年の「造興福寺記」には「従5位下」として亘理権太夫があることよりも伺える。藤原一門の名前と官位が記載されている。経清33歳の時である。それ相応の寄進をしたに違いない。
 古代の製鉄事業には、ふいごによる人力での送風を数昼夜絶え間なく行う必要があり、おびただしい人員が必要だったはずである。一旦大規模な製鉄が開始されれば、必要とする木炭の製造で周辺の山々は丸裸になったであろう。製鉄事業が終了して、それに係った人々は経清や伊具十郎の私兵になったのではなかろうか。

6.前九年の役
 「郷土わたり」57号に故藤倉義雄氏が「亘理権太夫藤原経清と前九年役」として、当時を詳細に検討され推理し記載されているので参照いただくことにする。
 藤倉氏は経清誕生を1020年としている。従って死亡年齢は42歳となる。男子の厄年に亡くなったのだとしている。定説がないのだから、解釈の仕方はいろいろと出てくる。
 平忠常の乱にも触れられていないし、ましてや製鉄のことなども記されてはいない。
 また、藤倉氏は経清の父頼遠が、かなり早くから亘理に定住していたとみなしているが、これまた推測の域でしかない。
 では、ここに前九年役の概要のみを述べておくことにする。
 戦の発端は、永承6年(1051年)、時の陸奥守・藤原登任が安倍氏の税に疑いありとして6千人の軍勢で攻めたてたのである。だが鬼切部の戦いで陸奥守側が敗れてしまう。
 これに怒った朝廷は、当時相模守だった源頼義を派遣することになる。頼義は安倍氏を攻め込むが、丁度その頃に朝廷で変事があり、安倍氏は恩赦されてしまうのである。
 陸奥守となった頼義は、安倍氏の豊かさに目をつけ隙あらばと狙っていたが、安倍氏の恭順な姿勢に手を出すことが出来ず。数年の平穏な時を経て任期満了の1056年を迎えてしまった。
 源頼義は、ここで「阿久利川事件」という謀略を企て、安倍頼時に戦を挑発する。やむなく安倍氏は、この挑発を受けて立つことになり、前九年役後半の合戦が始まるのである。
 (陸奥話記には当然ながら謀略などとは書かれていない。事の次第が淡々と記されてい
  るのみである。謀略とは筆者の推測だが、多くの人々がそのように思っている。)
 合戦の当初は、陸奥守・源頼義側についていた経清と伊具十郎であったが、安倍氏の婿である両者に頼義側の将兵たちは疑いの目を向ける。目立った兜をつけていることから安倍氏側に内通しているとみられた伊具十郎が殺されてしまう。これを見た経清は危険を察知して手勢800名を引き連れて安倍氏側に寝返るのである。
 苦戦に陥った頼義は、出羽の清原氏を誘いこみ一万の援軍を得て、安倍氏を破るというのが大略である。
 1051年の合戦開始から、途中に休戦期間もあり、1062年の終戦まで12年間を要しているのだが、何故か前九年役と呼ばれている。


7.おわりに
 平成の現在、亘理郡は山元町と亘理町、2つの行政区分になっているが、古代にあっては亘理郡として、一つの地域だったのである。
 千年前に登場した亘理権太夫藤原経清は何分にも遠い昔のことである。わずかな記録をたよりに推測する他はない。
 沖積平野にある亘理郡は、千年の昔には海岸線が今よりも1kmは内陸部に入り込んでいたと考えられ、現在は美田となっている亘理平野も大半は葦の原だったろうと推測されるのである。経清は当時の亘理にあって、短期間にかなりの財力を得ているのである。当時の耕地面積などから米作によるものとは考えにくい。
 現在の時点では、亘理郡内に見つけられる鉄滓がこれを物語るものだと考えるしかない。
 幸いにも山元町の震災復興の工事で、湧沢遺跡などから製鉄跡などが発掘されているが未だ全貌が明らかになったわけではない。
 俗にカナグソ山(鉄滓のころがっている山のこと)などと呼ばれるところなどもあり、大規模な製鉄があったことは間違いないが、その時代が明確になっていない。亘理郡の鉄滓が何を物語るのか解明を期待している。
 山元町の「熊の作遺跡」発掘調査では、製鉄の管理者が居住していたのではなかろうかと見られる大型の掘立柱式住居跡も出てきている。今後の研究に期待するところ大なのである。
 

年表
        
  西暦(年)    出来ごと

        (相馬郡製鉄の最盛期)
    801   坂上田村麻呂、蝦夷軍を破る

    950 亘理郡衙の機能終了

    995   藤原実方、陸奥守に就任
    999 実方死去。源満政が陸奥守に就任
   1014 藤原経清誕生
   1017 都の藤原道長引退
   1028 平忠常の乱
         源頼義が相模守就任
   1031 平忠常の乱が終息
         源頼清が陸奥守就任。藤原頼遠・経清も同行
   1047 興福寺再建「造興福寺記」、亘理権太夫が従5位下の記述。
   1050 藤原登任が陸奥守就任
   1051 前九年役勃発、鬼切部で陸奥守側が敗れる。
   1056 経清と安倍氏娘との間に清衡誕生(後に平泉の祖)
   1052 源頼義が陸奥守就任
        安倍頼時、恭順をしめす。
   1056 「阿久利川事件」、前九年役再発
        伊具十郎、源軍に殺害される。
        藤原経清が安倍氏側に寝返る。
   1062 源頼義が出羽の清原氏と同盟、援軍が送られる。
        安倍氏敗北。藤原経清斬首される。
        

 
[PR]
by watari41 | 2014-01-08 15:16 | Comments(0)