大躍進政策
2005年 04月 11日
40年ほど前、毛沢東による文化大革命の当時、次の改革は農村からと「大躍進政策」がとられた。当時の中国は一種狂乱の時代でもあった。
一反歩の田から米が2トンもとれたというのである。日本での最高実績の数倍にあたる収穫量だ。稲穂が田んぼ一面に密集している写真があった。
当時の日本のメディアはこのことを何の疑いもなく掲載していた。だがこれはとんでもないインチキだということが後で明らかになった。刈り取り寸前の稲を移して、見せかけたのである。専門家はそんな大収穫はありえないのだとのコメントを出しているが、これは後々に報道されたことである。
当時は毛沢東のカリスマ的指導で、やれば何でも出来るんだというような精神性が強調されその陰でのイカサマもまかり通っていたのだ。
最も悲劇的だったのは「鉄」の生産だった。当時はその生産量が国力を表すといわれていた。毛沢東は製鉄所を作らずとも「農家」でも「鉄」を作れるんだと奨励した。
農民は鉄鉱石を運び、山の木を切ってこれを燃やし軒先に簡易製鉄所をつくったのである。鉄はどんどん出来て中国の生産量が上がった。
だが、これも何にもならなかった。木を燃やした程度の低い温度で出来た鉄は、使い物にはならなかったのである。これは中国の山々を禿山にしただけで終わった。
毛沢東は国民政府を台湾に追いやり、中国革命が終わった後も、第二の革命を続けたかったのだという。だがこれは失敗した。カリスマ的な創業者が長生きしたがために、いろいろと悲劇的な混乱を引き起こしてしまったのだ。
やや、こじつけがましいのだが、日本ではダイエーがこれに当る気がしている。ワンマン創業者が、本業以外の第二の夢を追い続けたが為に最後はおかしくなってしまったのである
一反歩の田から米が2トンもとれたというのである。日本での最高実績の数倍にあたる収穫量だ。稲穂が田んぼ一面に密集している写真があった。
当時の日本のメディアはこのことを何の疑いもなく掲載していた。だがこれはとんでもないインチキだということが後で明らかになった。刈り取り寸前の稲を移して、見せかけたのである。専門家はそんな大収穫はありえないのだとのコメントを出しているが、これは後々に報道されたことである。
当時は毛沢東のカリスマ的指導で、やれば何でも出来るんだというような精神性が強調されその陰でのイカサマもまかり通っていたのだ。
最も悲劇的だったのは「鉄」の生産だった。当時はその生産量が国力を表すといわれていた。毛沢東は製鉄所を作らずとも「農家」でも「鉄」を作れるんだと奨励した。
農民は鉄鉱石を運び、山の木を切ってこれを燃やし軒先に簡易製鉄所をつくったのである。鉄はどんどん出来て中国の生産量が上がった。
だが、これも何にもならなかった。木を燃やした程度の低い温度で出来た鉄は、使い物にはならなかったのである。これは中国の山々を禿山にしただけで終わった。
毛沢東は国民政府を台湾に追いやり、中国革命が終わった後も、第二の革命を続けたかったのだという。だがこれは失敗した。カリスマ的な創業者が長生きしたがために、いろいろと悲劇的な混乱を引き起こしてしまったのだ。
やや、こじつけがましいのだが、日本ではダイエーがこれに当る気がしている。ワンマン創業者が、本業以外の第二の夢を追い続けたが為に最後はおかしくなってしまったのである
by watari41
| 2005-04-11 13:51
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