原田甲斐

 伊達家の「大忠臣」だったのか「稀代の逆臣」だったのか、原田甲斐の実像は未だによくわからない。山元周五郎の「樅の木は残った」では、苦衷する「忠臣」として描かれているが、郷土史家をはじめ専門家の意見は「逆臣」で固まっている。

 史料からは「忠臣」を証拠けるものは何もないようだ。それ故に山元周五郎はその裏を読み取って小説を書いたのである。
 我々素人は、小説によって歴史に興味を持ち、それを真実だと思ってしまう場合も多い。原田甲斐は謎に包まれた部分も多いことから、いろんな解釈がでるのであろう。

 昭和45年のNHK大河ドラマ「樅の木は残った」での最終場面が特に印象に残っている。それは原作小説にはない、その後に発見された史料による追加部分である。
 宮城県北のあるお寺から、原田甲斐が死んで間もない頃の何回忌かの法要に集まった人達を記録した書類が見つかった。大河ドラマは、そのことを最終場面とした。下働きの人達が連絡を取り合い遠路集まったのである。原田の主家が取り潰された後でバラバラになった人たちがよく集まったものだ。慕われた殿様だったのだろう。甲斐の人間性の一面をみる思いがした。

 事件後に、甲斐の一族男子はことごとく死罪となった。母親は伊達支藩にあずけられ絶食絶命した。その墓には重い石が置かれ、死後も苛酷な扱いを受けたのである。わが町にその墓がある。

 甲斐が「忠臣」であるとすると、ここまで一族を犠牲にして、自らも汚名をかぶりながら守らなければならなかった伊達家とは何であったかと思うと同時に、封建社会に生きるとはかくも苛酷なことだったのかと思う。
 現代社会に生きるものとしては想像もできないことである。先日、関係する家臣の子孫などによる供養会があったとのニュースをみての感慨である。
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by watari41 | 2005-04-01 08:33 | Comments(0)