仙台時間

 もう死語になってしまったが「仙台時間」を聞いて懐かしいと思う方は相当な年配者である。
 50年前には立派にまかりとっていた言葉である。
 会合の定刻になっても人が集まらない。開始時間が30分くらい遅れることを当たり前としたものである。仙台時間だから仕方ねっぺ。
 全国的にも〇〇時間と呼ばれるものはあったのだろうと思っている。
 もちろんビジネスの世界では、こんなことはあり得ない。列車だって定時に走っていた。だが田舎の会合では通用していたのである。先に来た人たちは世間話に花を咲かせていた。地域のコミニュケーションが計られていたというべきだろう。
 現代社会では、もちろんこんなことはあり得ない。そのかわりにコミニュケーションが無くなってきているのは疑いようもない。近頃はお年寄りを訪ねて、地域でこんなことがあるよと話をすると大変に喜ばれる。
 専門家は、現代の地域コミュニティは、開業医の待合室にあるなどとおっしゃる。その通りなのかもしれない。駅の待合室だって今や椅子が数個しか置いてない。

 時間の正確さと反比例するかの如く人情も薄くなってきているのかもしれない。時計の正確さと安さには、ただただ驚くしなかない。昔の柱時計の如きは、今や縄文時代の如き感覚すらしている。一日に一度ネジを巻いてラジオの時報に合わせていた。翌日にはもう10分もくるっていたりする。

 大昔には、年・月・日を司るのは権力者であると天体観測に力を入れていた。
 現代人は時間に支配されてしまったかのようでもある。時計とテレビの時報を見て、合っていると安堵したりしているが、現代人からみればこれは当たり前のことでもあろう。
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by watari41 | 2013-06-26 17:08 | Comments(0)