二人の殿様子孫

 伊達騒動は仙台領内でそれぞれに2万石を有していた「涌谷伊達氏」と「登米伊達氏」の領有権争いが発端であわや本藩62万石が取り潰しの危機にさらされた事件である。

 我が町の郷土史会は、先日貸切バスで当地を訪問し現在の当主お二人にお会いしてきた。私と同年代の殿様の子孫である。
 登米伊達さんは、当時と変わらぬお屋敷にお住いである。広大な庭園があり、居宅は350年前のものである。補修はなされているものの、近代住宅に住む我々から見ると何とも不便なことに見える。維持管理の大変さは言うまでもないことだろう。ご自分で植木の剪定までされているようだ。お住いは私有地でもあるので税金なども支払う必要があり、現在もご当主は勤務を続けられている。下々の私などが同情してしまう。
 庭園には400年物であろう見事な赤松の巨樹が沢山あり、さらに60種類のつつじを眺める様はたとえようもないくらいだ。拝観料でもいただきましょうかと当主は笑う。
 自宅の近くには、伊達騒動当時の殿様のこれまた立派な御霊屋がある。その鍵を開けていただくと、内には重厚な作りのもう一つの建築物がある。屋根が極めて重そうである。それにしては柱が細い。重量を巧みに分散する仕掛けがあるのだという。一般には見学出来ないものを拝見した。

 登米を後にもう一方の主役である涌谷へとバスは向かう。代々の当主が眠る墓地で、ご当主と説明役である忠臣のお一人に迎えていただいた。騒動当時の殿様は逆臣原田甲斐に斬られて死亡し伊達本藩を救ったとされ、立派な五輪の塔や御霊屋がある。
 事件当時に忠義を称えらえたのはよいが、その後に仙台本藩が幕府より命じられた日光東照宮の改築を涌谷伊達家に丸投げしたのである。多額の財政支出を余儀なくされ窮乏してしまった。その後の領主の御霊屋は粗末なものとなり、敷地は用意されたものの墓石ですまされてしまった。
 そんなことも一因なのだろうか、明治維新の時に涌谷伊達氏は、旧来の姓である亘理氏へと改名した。
 涌谷の殿様は500年前には我が町の領主だったのである。そんな往時を偲びお寺の本堂でお布施を差し上げ、会員一同はお経に聞き入った。こちら涌谷町の現代の殿様は忠臣のお蔭もあるのだろうか悠々として見えた。

 未だ発見されていないが、我が町のどこかに九曜の紋が入った何百年も前の領主の墓石があるはずだ。
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Commented by watari41 at 2017-11-24 17:37
南斗さん、非公開としました。
Commented at 2017-11-24 18:00 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by watari41 | 2013-06-09 12:08 | Comments(2)