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余日録


by watari41

柳原白蓮

 同窓会の時に、北九州市の大チャンより明日(11月12日)NHKの歴史ヒストリアで「伊藤伝右衛門」があるから、是非見るようにとのことだった。私などは「柳原白蓮事件」として記憶しているが、現地から見ると炭鉱王である「伊藤伝右衛門」が主役となるのだろう。事件の詳細は知っているが、映像では見たことがなかった。

 親子ほどに歳の離れた九州の炭鉱王に嫁したのは、大正時代に三美人の一人とも言われた歌人でもある公方家の「柳原白蓮」、その恋の相手は宮崎滔天(とうてん)の息子である宮崎竜介なのである。役者が揃いすぎている。これに朝日新聞が加わったのだから、大正10年当時の騒ぎは推して余りある。

 滔天は、熊本県の義士として有名な宮崎4兄弟の一人である。長兄は八郎と言い、明治10年の西南戦争で西郷軍に組して戦死した。残った3兄弟は、中国革命を目指す孫文に物心両面の援助を与えて明治45年に辛亥革命を成功させるのである。特に滔天の活躍は世に知られた。
 司馬遼太郎は西南戦争を主題とした「翔ぶが如く」を執筆した時に、宮崎八郎の活躍を書くべく関係者を取材した。八郎の甥だという人に会って驚いている。執筆当時は昭和40年代であり、明治10年に死した歴史上の人物を、伯父さんと気楽に呼ぶ人が存在することに信じがたいと小説の中に書いている。

 この「事件」のあった大正10年には、宮城県でも原阿佐緒「事件」が起きている。美貌と才能あふれる原阿佐緒女史に、妻子ある東北大教授の宮崎純が恋し駆け落ちした。これまた有名な事件となった。そんな時代の空気があった時なのだろう。宮城県大和町に原阿佐緒記念館がある。明治・大正の素封家で瀟洒な洋風の自宅が記念館である。

 これに比べ北九州の「伊藤伝右衛門」館は、とてつもなく豪華なものだ。東京で三菱財閥の岩崎邸宅を見学したことがあるが、これに匹敵するものだろう。

 柳原白蓮は晩年にある逸話を残している。現在の天皇が結婚する昭和34年に、民間人との結婚を絶対反対だと表明したのである。当時の風潮はウエルカム一色で、おかしなことを言うと思ったが、自分自身の体験から、全く異なる境遇で育ったものが結婚するとおかしなことになるという反対だったことを今にして理解し得た。果たして美智子皇后は、ものすごい苦労を味わい、何とかそれを乗り切った。しかし次代の皇太子妃は、いまだ苦悶の中にある。時代の先覚者の言をおろそかにしてはいけないのだと思う。
Commented by schmidt at 2010-11-25 23:27 x
ああ、このあたりの出来事についての知識がまるで抜け落ちています。「翔ぶが如く」の逸話に記憶がるぐらいです。勉強になります。at San Fransisco
Commented by クオリア at 2010-11-26 10:10 x
激情するほどの色恋は人間の青壮年のころに大きく開花するのですね天から与えられた遺伝子が操作するのかも知れません。大正の美人は結核が多いとよく聞いていました。
柳原白蓮と、白洲正子の母である樺山常子(川村純義の娘)は親しい間柄にあったと、正子は「お公家さん」のなかに記している。とありましたが有名人のつながりはこれまた遺伝子のようだとおもいました。
Commented by michiko at 2010-11-26 19:19 x
歴史上の人物をの、その生き方を知るとその時代に 
どれだけ苦労されたか、苦悩があったかを理解できます。
原阿佐緒さんの生涯も仙台に来て初めて知り、直ぐに一生を書いた本を読みました。大和町の白壁の家を何回も訪れています。
Commented by watai41 at 2010-11-26 23:08 x
大正デモクラシーは今や歴史ですが、いまだ生き証人もいるのでやっかいです。shumidtさんSan Fransisco到着ですか。コメントをありがとうございます。

クオリアさん
美人薄命とは、この頃に出来た言葉なんでしょうね。激情する恋からは遠い年齢になってしまいました。結婚を同列の身分同士で考えると言うのは案外に合理的なシステムだったようですね。コメントをありがとうござます。

michikoさん
その時の当事者の苦悩よりも、スキャンダルとしてのニュース価値を重要視されたんですね。原さんも和歌はは別としておだやかな人ではなかったのかと思っているのです。コメントをありがとうございます。
Commented by watari41 at 2010-11-29 14:35 x
ダイチャンより関連する検索事項も含めて電話でのコメントをいただきましてありがとうございました。
調べたら大正期の宮城県の偉人でもある「吉野作造」(大崎市にその記念館ががある)の名前が出てきました。東大教授の頃に、今でいうゼミなんでしょうね。そこに宮崎龍介が学んでいたというのです。吉野先生と白蓮のつながりもあって、龍介が白蓮を訪問するきっかけともなったようです。
熊本県の荒尾市では、龍介の伯父である宮崎八郎は、今でも神様扱いだとか、その母親(龍介の祖母)は男子は畳の上で死ぬを恥とすべしと教育していたとか、面白い話に接することができました。
Commented by morikou at 2010-11-29 18:03 x
<鳥羽・伏見に始まる軍事衝突も回避・・・東北での官軍との戦争も避けられ・・・会津の悲劇もなかったろう・・・、わが町の武士が殆ど北海道に移住することも無・・・> 好い加減jii、昨夜は飲みすぎて眠く竜馬さんを録画。今日いまさき、再生:見終わってwatari訪問したらしたらこの記事。ダイチャンへ一言 いってこのコメントへ邪魔したくなりました。歴史って おもしろいですねえ:watariさんが書くからかな? 司馬遼も面白い。会津vs西の果てのことも知らずに育ち、また乃木〇〇は神様だった?のが司馬遼さん読本でそうでもないことを知りました。これからも watariさん いろいろな話題(休み休みでいいですから)継続してくださいね。竜馬は〇アイさんとも 重なります。
Commented by watari41 at 2010-11-30 09:55 x
竜馬は稀有の人物だったと思います。いずれかの時点では暗殺されて長命することはかなわなかったでしょうね。人を動かし、政治体制を根底から覆してしまうのですから、いやはやです。
ダイチャンにはいろんなことを教えていただきました。morikou さんを師と仰ぐ方々は多いですね。感謝です。
明治維新の後で、大久保利通は東北をあまりにいじめすぎたとおもったのでしょうか。いろいろと東北に産業殖産をやろうとしたんですね。しかし明治11年にこれまた暗殺。
竜馬・西郷・大久保と最初は足並みが揃ってましたが、それぞれが異なる方向をめざしていたんですね。歴史とは面白いですね。morikou さんコメントをありがとうございました。
by watari41 | 2010-11-25 13:54 | Comments(7)